逝水捲土

合澤臣

序章



 地に近く沈む朝靄あさもやの立ちこめる森は暗く視界が曖昧で、鳥も獣もまだ眠りのなかにあり目覚めの間際まぎわの静謐に包まれていた。しかし突如として下生えを乱して飛び出た影にそれは破られ、先んじて餌を求めんとしたねずみが慌てたように黒い幹をつたった。ひげだけをひくつかせ、しばらく警戒した後ようやく根元のねぐらに戻ろうとした時、さらにくさむらを掻き分ける荒い物音が近づき小さな彼は硬直する。


 刹那、払われた鋭利な風を避けきれずがれた樹皮と共に憐れにも二分して落ちた。槍はその他進行を阻害する蔓根つるねを忌々しく断ち斬り、使い手は飛び出す。傾斜の急な坂からびょうと耳許で鳴る向かい風をものともせず草原へと駆け下った。叱咤して鞭打ち、さらに加速して背に負った楛矢を構える。


 襲歩はしりを緩めず前方を先進する大きな影に渾身の一矢を放つ。研ぎ澄ました石鏃やじりは確かにそのしりに命中したが、立ち止まることはない。どころか、振り向いてこちらを睨んだ。


 人影は軽く舌打ちする。反転した敵は歯を剥き出しにして襲いかかろうと向かってくる。受けて立とうぞと速度はそのまま、眉間を狙い次の矢を放った。


 しかし唸り声を上げた敵は前肢をすばやく払う。軌道を読み地に飛び降りた直後、騎獣うまに飛びかかった。

 悲痛ないななきで倒れ込んだ後ろで受身を取って転び、手に持ったままの槍を構える。怒り狂った敵が爪にかけた獲物を振り捨て真っ直ぐこちらへ向かってきた。


 来い、と挑発して笑えば、ひときわたけった咆哮ほうこうを発し目にも止まらぬ速さでふところまで入り込む。こちらは覆いかぶさってくる巨躯をそのままに仰向けに倒れた。


 鋭い牙が顔に食い込む寸前、敵は痙攣して動きを止める。噛みつこうとしていた大口が固まり、そのまま地響きを立てて横に崩れた。


 敷かれた脚を引きずり出し、ふう、と息をつく。前髪を掻き上げてあたりを見回した。遅れて森のほうからひづめの音が響く。



「やったか」



 わらわらと近づいてきた仲間の姿に青年は手を挙げてみせ汗を拭った。ようやく射してきた朝暉あさひに爽やかな笑顔を照らし、近寄ってきた朋友に顎をしゃくる。


「大物だ。運ぶのが一苦労だぜ」

「お見事」


 そう言って褒めたが涼し気な眼差しの彼はぴくりとも表情を動かさない。しかしそれには慣れっこだ。青年はおおきな獣を貫いた短槍を引き抜く。返り血を拭い、すっかり陽の昇って眩しい原野を見渡した。


「よし。持って帰ってさっそく宴にしよう」

 男たちの野太い歓声があがる。青年も歯を見せ、槍を肩に担いで蒼天を見上げた。おもむろに指をくわえ、高く短い音を連続で鳴らす。乗っていたものは掻き裂かれてしまったから。

 やがて、岩場の陰から待っていたと言わんばかりに即時に駆けてきた大型の四足の獣が甘えるように鳴いて擦り寄ってきた。がしがしと荒く撫でてやりまたがる。様子を見ていた友が無表情の中に呆れたようなかおをした。


「初めからハクに命じれば良かったじゃないか」

「馬鹿言え。虎狩りなんかこいつの矜持が許さねえよ」

 大笑して今しがたとどめを刺した巨大な縞模様の塊に目をやった。

「それになんか似てるし。同族を殺させるなんて『可哀想カワイソウ』だ」

 脚の下で跨われたほうが不本意そうに鳴いた。

「悪い悪い。お前は虎なんかじゃなかったな」

 そうなだめてもうひとつ撫で、帰るぞ、と呼びかけた。




 族領ぞくりょう一帯は広大な平野と急峻な山々を併せ持った寒冷な霧の裂け目である。一年の半分を雪で閉ざされ、農地をひらいても地の恵みは労力に見合わないほど少なく、ために狩猟は一族には欠かせない生業なりわいだ。獣に乗るのは当たり前、弓ができなければ一人前とはみなされない。各々が厳しい気候を生き抜く体力と精神力をつちかわず生きられるほど、領地の暮らしは安穏としたものではない。


 しかし、ここ二十数年でそれはほんの少しだけ楽になった。北の大地には多くの浄水石が眠る鉱脈があり、彼らは常にはそれらを切り出しこの霧の地――霧界むかいに流れる毒水を濾して生活していた。とはいえその麦飯石ばくはんせきは何度も使える代物ではなく、日々新たな岩層を総力を上げて探し、掘り当て、そうして一族は何百、何千年も水が飲めなくなる恐怖と隣り合わせで生き抜いてきた。


 濾過石探しの伝統が変容したのは青年が生まれる少し前だ。彼らのこの世界での立ち位置はそれほど強くはない。世界は泉地せんちと呼ばれる泉の湧きづる国々によって治められており、彼らはそこから爪弾きにされた弱小一族だった。泉地の外は毒霧の渦巻く飲み水のない山と森、その中の少しばかり霧の晴れた一帯で細々と生を営む一族は立場としては弱かった。弱かったが、彼らの特筆すべき傾向は、全体として大いに粗暴であることだった。


 立場に甘んぜず、子々孫々近隣の泉国せんごく闖入ちんにゅう掠奪りゃくだつを繰り返し、水や麦や女や子供を奪うのが慣例だった。青年より上の世代はそれが当たり前であり、今も腹の虫の良くない時には泉地に降りてひと稼ぎしてこよう、などと軽口を叩く。



 しかし今の当主の御代みよの初めに一族を揺るがす大激変が起こった。



 現当主戴冠の年、大遠征つまりは侵冦しんこう作戦が決行された。かつてない規模の挙兵数で泉の地を蹂躙じゅうりんし大掠奪を行った。霧を抜け豊穣ほうじょうの国へ降り立った戦士たちはあらゆるものを根こそぎ破壊し、奪い、新鮮な水を樽に詰め尽くした。さながらいなごの群れ、彼らが駆け抜けた跡はまっさらな荒地になり、乾いた土だけしか残らないほどだった。


 一族にとっては幾度となく繰り返してきた祭であったが、その回の作戦ばかりは食糧と飲み水を得る以上の目的を包含していた。



 泉国との同盟である。



 つまりは、被害を受けていた側、族領に最も近い泉国である一泉いっせん国との和平を結ぶ為の示威行動だった。


 水を持たぬ蛮族ばんぞくと侮られてきた彼らとて矜持はある。泉国はもとを辿れば黎泉れいせんという支配権を持つ存在によりあまねく全統治された土地であり、その中に組み入れられへりくだったとみなされることを彼らは良しとしなかった。あくまでもこの同盟は自分たち一族優位に進めたことで決して一泉の慈悲にすがった訳ではないと天下に知らしめる必要があった。力でじ伏せ富をはこぶ。それが、彼らなりの戦い方だった。


 そうしてついに、古来から度重なる一族の侵掠行為に相当な手を焼いていた大国もこれ以上の甚大な被害を忌避するため懐柔策に乗り出し、泉水の一部を無期限で割譲することを申し出た。


 一族は受諾した。結果、ながきにわたる麦飯石探しの慣習はここに来て軽減、強奪は禁止され彼らはいつでも新鮮な水にありつけるようになった。以後今に至るまでなんとか衝突は起きないでいる。




 古老の昔話とするにはまだ新しく、以前の生活を経験している者も大多数が存命で旧態かつての様相を聞くのには事欠かない。だから少し羨ましい。自分ももう少しばかり早く生まれていれば自由に泉の大地に降りて好き放題できたかもしれないのに。


 そんなことを思いながら仲間と共にあぶった肉を頬張っていると、すぐ近くの穹廬いえから幾人かの女が出てきて、盛大な焚火を囲んでいる男たちの群れに分け入ってきた。女たちのうち、美麗な刺繍を施した立領つめえり旗袍きものを腰できつめに巻いたひとりに目を留め、青年は横の友をつつく。


「あれ。いい女だ」

 彼の目線を追ったほうは首を振った。

「駄目だよ。郝伸カクシン大人たいじんのところの娘御だ。手を出したら殺される」

 舌打ちして青年は酒をあおった。それに、と友が続ける。

「もう所帯があるのだから、いい加減落ち着け」

「と言ってもな、お下がりだぜ」

 友は眉根を寄せて控えるよう小声で言った。当の本人が来たからだ。


 無表情に彼らに近づいた女は毛脚の長い外套を揺らし、軽く頭を下げてみせる。

「ご無事でようございました。洗沐ゆあみできるように調ととのえておりますから、夜には帰ってきて下さいまし」

 話しかけられて女を一瞥し、すぐに目を逸らす。「分かった」

 彼女は夫の素っ気ない態度にも顔色を変えることなくもう一度一礼すると下女を連れて去っていく。見送って友は溜息をついた。

「あまり冷たい扱いをすると後々支障が出る」

「いいんだよ。あれも俺を殺したくてたまらないだろうさ」

 それをさらにとがめたところで、おおい、と丘の向こうから声が聞こえ、二、三の影が見えた。


「当主のせがれはどこだ?」

「ここだ」

 酒を飲みつつ手を挙げた青年に男たちが顔を見合わせる。

「お呼びだ。すぐ来い」

「祝いは今日までじゃ?」

 実を言うと宴は婚儀の為のものだった。

「もう乱痴気騒ぎと変わらんではないか。いいから来い」

 慌ただしいな、と立ち上がり隣を見下ろした。「お前はまだ居ていいぞ」

「いいや。行く」


 それで享楽の余韻が抜けないまま、二人して当主の座所へと足を運んだ。冬の澄んだ空は雲ひとつない晴天で、こんな日は一日中外で稽古していたい。そう束の間思いつついくらもしないうちに辿り着き、中に声をかけた。許されてふんだんに暖かな炭が置かれた大きな幕内に入る。内部では重臣たちが車座くるまざになって一様に難しげな顔をしていた。正面には祭壇、手前にはこちらと向かい合い険しい顔で顎に手を当てる白髪混じりの男と、すぐ横には巨大な獣を背に従えた豊満な女が並んでいた。見渡して二人は腰を下ろし、一族特有のひたいを隠す礼を取った。


「何用ですか」

 前へ来いとぞんざいに示され、従えば呆れられた。

韃拓ダッタク。お前はまたそんなきたならしい格好で」

 それには聞き飽きたと頭上を仰いだ。昨晩夜通し虎を追っていたのだから当たり前だ。

「話ってのは説教かよ」

「無論そんなことではない。いいか、よく聞け。今回、うちの家に公主こうしゅを迎えることになった」

 韃拓は目を瞬かせて正面に座る父親の言を反芻した。

「公主……って、泉国の姫さんのあの公主か?」

「阿呆。それ以外になかろう」

 父親は手を顎から額に移動させた。「確かに時期としてはそろそろという頃合いではあったが、よりによって相手がお前とは儂も頭が痛い」

 状況が分からずに横を見る。問う視線を向けられた友は居住まいを正した。

柱勢ジュセ大人たいじん、初めて泉国から姫君を迎えて早二十有余年。しかしさきの公主さまは早々にお亡くなりになり、一泉との同盟の証が今は無い。今回のお輿入れは引き続き盟約を有効とする為のものですか?」

「その通りだ瑜順ユジュン。まったく、こやつの脳みそと取り替えたいわ」

「それで、なんで俺が」

 首を傾げた息子に柱勢は憤然と拳を握った。

「どこまで愚昧なのだ。儂はすでに初代の公主をお迎えした身、この上さらに次代の姫をめとる立場にはない。それに、もともとこのほまれは当主自身に与えられるもの。『選定せんてい』を通った者が次期当主、全八馗はっき家の中でお前は選ばれた。もう分かったであろう。年が明けたら戴冠の儀を済ませ、一泉に赴くのだ」


 韃拓は自分を指差して周りを見た。瑜順が微かに頷いたので本当なのだと理解する。

「俺が当主になるのはいいとして……公主を迎えるってことは、来年から俺は一泉で暮らすのか⁉」

 勢い込んでたずねた。さいを娶る男は二年間妻の家で奉仕するのが一族のならわしである。


 様子を見ていた正面の女が初めて口を開いた。

「お前ももう二十ですからね。いつまでも遊んでいないで外で学んでご覧なさい」

 そう言うと自身を囲うように伏せている巨獣の頭を撫でた。女は金銀の糸を刺した衣で着飾り、つやのある黒いもとどりには大小の赤玉が光る。悠然と微笑みを浮かべるこの韃拓の母親こそが北方にまう狩猟一族、かく族の王である現当主、何梅カバイだった。


「当主、それじゃあ俺はていのいい人質じゃないですか。俺が一泉へ行ってる間に何かあったらどうする」

 何梅は感情の読み取れない瞳を向けた。

「一泉しゅわたくしが盟を結んだ時と同じ御方、引き続き我々と和親を続ける所存。間違っても不義はない。問題はお前のほうにあります、韃拓。お前の素行のせいでこの盟約が反故ほごになることがあれば私はお前を生かしておきませんよ」

「ち。とんだ役回りだ」

 小声で悪態をいた息子に母は口角だけを上向けたまま、どこまでも静かだ。

「己の行いにはすべてむくいが返ることがよく学べたでしょう。お前は反省という言葉をもっと深くお考えなさい」

 韃拓はさらに不服そうに眉根を寄せたが、それ以上は口ごたえせず、ただ頭を下げるにとどめた。



 自分の穹廬に戻ってきた韃拓はおとなしく妻の手を借りて湯を浴びる。

「……来年、一泉へ行くことになった」

 いちおう言えば、彼女は頷く。「存じております。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 もう知っていたのか、とつまらなく思った。この鉄面皮てつめんぴがどんな反応をするのかほんの少し興味があったから。


 韃拓はなにもこの女が欲しかったわけではない。一族の習俗に従って娶ったが、三年経った今でも慣れずにいる。向こうも絶対に自分をうとんじているからこちらから距離を縮めることは無きに等しい。名を莉羅リラといったが、一度も呼んだことはなかった。


 夫婦は基本として同じところで寝起きする。だから大層息が詰まる。

 真夜中、眠れずに外へ出てみれば月のない夜に星だけが眩しい。それを眺めながらしばらく歩いて丘に出ると高く短い指笛を吹いた。

 すぐに巨獣が音もなくやってくる。甘えるように喉を転がしたさまに笑むと座り込み、星光に反射して優美に輝く黒い背を撫でた。



 当主になるには『選定』を受けなければならない。『選定』とは一族の中で最も勇敢で強く、群れを纏め上げる技量を示す為の儀式のことである。それは神獣との契約だ。角族の居住するさらに北には神域と尊ばれる場所がある。韃拓は実際に深くまで分け入ったことはないが、その外淵とも呼ぶべきところでこの獣――一族は狛と呼び習わす――と死闘し、ちぎった。神獣は時々により様々な種類がおり、韃拓は母親とは異なる種族のものを従えている。一族ではこのような獣を操ることこそが当主の証となる。



 でも、と毛並みを撫でながらその体躯からだもたれた。契約で大切なのは取り交わした行為自体そのものもそうだろうが、なにかもっと……別に大きな意味を包含する秘儀なのではないか、と思っている。なんとなく、だったが。


 この世界は人智を超えた力が多すぎる。常々そう思っていた。書物ほんなどまともに読んだことはないが、泉地の偉い学者ならいろいろな疑問に答えてくれるのだろうか。他にも自分と同じように思う者はいるのだろうか。



 闇夜に柄にもなく物思いを沈めているとふいに足音が聞こえて振り返った。枯れ草を踏み背後から近寄り、静かに横に立った影は瑜順だった。


「眠れないのか」

「そういうお前は?」


 青年は目を伏せた。韃拓より少しばかり歳上の彼はもとは孤児で何梅の家に仕える家僕しもべだったが才覚を現し、今では一族を支える領袖りょうしゅうとなっている。韃拓はなぜ瑜順が『選定』を受けなかったのかいつも不思議だ。尋ねたことはないけれども。


 無表情に黙していたが友には珍しく襟元が緩んでいる姿を見て、ははあ、とほくそ笑んだ。

「いったい誰のとこにもぐり込んでたんだ?」

「……鋭いな」

 瑜順は溜息をついて許可を取り、隣に座る。

「俺も行くぞ。一泉へ」

「気を遣ってんのか。他にも大勢来るだろうに」

「だからだよ。お前は調子に乗るから。すぐ年が明ける。そうしたらこうして話す暇もないくらい、もっと忙しくなる」

 すでに一泉へ入国する為の準備は韃拓の知らないところで始まっていた。

「だから今のうちに好いた女に逢いに行ったか。誰だよ、教えろよ」

 問えばしばらく無言であらぬほうを見つめ、怒るなよ、と言いおいて口をすぼめた。


「…………お前さあ、自分が手を出したら殺されるとか言っといて……嘘ついたのか」

 名を聞いて呆れた。その相手が昼間に褒めた郝伸大人の娘だったからだ。瑜順はそっぽを向いた。

「嘘じゃない。ばれたら腕をもがれるだろう。でも、泉地に降りればむこう二年は逢えないんだ」

「あのさ、俺もつまみ食いしていいか?」

「馬鹿言え、本人に潰されるぞ」

 韃拓は不貞ふて腐れたまま狛にしなだれかかった。「どうせ一泉に行ってる間に他の奴にられるって。同じじゃねえか」

 なあ、と獣に呼びかけると賢いそれは同意するように鳴いた。

「あのひとはそんなに尻軽じゃない」

「お前もあっちで気に入りを見つけるかもしれないぜ」

「そんなつもりで同行するのでもない」

 どうだか、と寝転がる。寒空に散らばる瞬きをぼんやり眺めた。


「……泉国ってどんなところだろうな……」


 韃拓は割譲されている泉を見たことがない。それは居住地から日をまたぎ霧と山を越えた場所にあるからだ。そこから泉水を運んでくるのは定められた役目の者がいる。


 瑜順は同じように空を見上げながら、

「すぐに見られるさ」

 とだけ言った。




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