逝水捲土
合澤臣
序章
地に近く沈む
刹那、払われた鋭利な風を避けきれず
人影は軽く舌打ちする。反転した敵は歯を剥き出しにして襲いかかろうと向かってくる。受けて立とうぞと速度はそのまま、眉間を狙い次の矢を放った。
しかし唸り声を上げた敵は前肢をすばやく払う。軌道を読み地に飛び降りた直後、
悲痛な
来い、と挑発して笑えば、ひときわ
鋭い牙が顔に食い込む寸前、敵は痙攣して動きを止める。噛みつこうとしていた大口が固まり、そのまま地響きを立てて横に崩れた。
敷かれた脚を引きずり出し、ふう、と息をつく。前髪を掻き上げてあたりを見回した。遅れて森のほうから
「やったか」
わらわらと近づいてきた仲間の姿に青年は手を挙げてみせ汗を拭った。ようやく射してきた
「大物だ。運ぶのが一苦労だぜ」
「お見事」
そう言って褒めたが涼し気な眼差しの彼はぴくりとも表情を動かさない。しかしそれには慣れっこだ。青年は
「よし。持って帰ってさっそく宴にしよう」
男たちの野太い歓声があがる。青年も歯を見せ、槍を肩に担いで蒼天を見上げた。おもむろに指を
やがて、岩場の陰から待っていたと言わんばかりに即時に駆けてきた大型の四足の獣が甘えるように鳴いて擦り寄ってきた。がしがしと荒く撫でてやり
「初めから
「馬鹿言え。虎狩りなんかこいつの矜持が許さねえよ」
大笑して今しがたとどめを刺した巨大な縞模様の塊に目をやった。
「それになんか似てるし。同族を殺させるなんて『
脚の下で跨われたほうが不本意そうに鳴いた。
「悪い悪い。お前は虎なんかじゃなかったな」
そう
しかし、ここ二十数年でそれはほんの少しだけ楽になった。北の大地には多くの浄水石が眠る鉱脈があり、彼らは常にはそれらを切り出しこの霧の地――
濾過石探しの伝統が変容したのは青年が生まれる少し前だ。彼らのこの世界での立ち位置はそれほど強くはない。世界は
立場に甘んぜず、子々孫々近隣の
しかし今の当主の
現当主戴冠の年、大遠征つまりは
一族にとっては幾度となく繰り返してきた祭であったが、その回の作戦ばかりは食糧と飲み水を得る以上の目的を包含していた。
泉国との同盟である。
つまりは、被害を受けていた側、族領に最も近い泉国である
水を持たぬ
そうしてついに、古来から度重なる一族の侵掠行為に相当な手を焼いていた大国もこれ以上の甚大な被害を忌避するため懐柔策に乗り出し、泉水の一部を無期限で割譲することを申し出た。
一族は受諾した。結果、
古老の昔話とするにはまだ新しく、以前の生活を経験している者も大多数が存命で
そんなことを思いながら仲間と共に
「あれ。いい女だ」
彼の目線を追ったほうは首を振った。
「駄目だよ。
舌打ちして青年は酒を
「もう所帯があるのだから、いい加減落ち着け」
「と言ってもな、お下がりだぜ」
友は眉根を寄せて控えるよう小声で言った。当の本人が来たからだ。
無表情に彼らに近づいた女は毛脚の長い外套を揺らし、軽く頭を下げてみせる。
「ご無事でようございました。
話しかけられて女を一瞥し、すぐに目を逸らす。「分かった」
彼女は夫の素っ気ない態度にも顔色を変えることなくもう一度一礼すると下女を連れて去っていく。見送って友は溜息をついた。
「あまり冷たい扱いをすると後々支障が出る」
「いいんだよ。あれも俺を殺したくてたまらないだろうさ」
それをさらに
「当主の
「ここだ」
酒を飲みつつ手を挙げた青年に男たちが顔を見合わせる。
「お呼びだ。すぐ来い」
「祝いは今日までじゃ?」
実を言うと宴は婚儀の為のものだった。
「もう乱痴気騒ぎと変わらんではないか。いいから来い」
慌ただしいな、と立ち上がり隣を見下ろした。「お前はまだ居ていいぞ」
「いいや。行く」
それで享楽の余韻が抜けないまま、二人して当主の座所へと足を運んだ。冬の澄んだ空は雲ひとつない晴天で、こんな日は一日中外で稽古していたい。そう束の間思いつついくらもしないうちに辿り着き、中に声をかけた。許されてふんだんに暖かな炭が置かれた大きな幕内に入る。内部では重臣たちが
「何用ですか」
前へ来いとぞんざいに示され、従えば呆れられた。
「
それには聞き飽きたと頭上を仰いだ。昨晩夜通し虎を追っていたのだから当たり前だ。
「話ってのは説教かよ」
「無論そんなことではない。いいか、よく聞け。今回、うちの家に
韃拓は目を瞬かせて正面に座る父親の言を反芻した。
「公主……って、泉国の姫さんのあの公主か?」
「阿呆。それ以外になかろう」
父親は手を顎から額に移動させた。「確かに時期としてはそろそろという頃合いではあったが、よりによって相手がお前とは儂も頭が痛い」
状況が分からずに横を見る。問う視線を向けられた友は居住まいを正した。
「
「その通りだ
「それで、なんで俺が」
首を傾げた息子に柱勢は憤然と拳を握った。
「どこまで愚昧なのだ。儂はすでに初代の公主をお迎えした身、この上さらに次代の姫を
韃拓は自分を指差して周りを見た。瑜順が微かに頷いたので本当なのだと理解する。
「俺が当主になるのはいいとして……公主を迎えるってことは、来年から俺は一泉で暮らすのか⁉」
勢い込んで
様子を見ていた正面の女が初めて口を開いた。
「お前ももう二十ですからね。いつまでも遊んでいないで外で学んでご覧なさい」
そう言うと自身を囲うように伏せている巨獣の頭を撫でた。女は金銀の糸を刺した衣で着飾り、
「当主、それじゃあ俺は
何梅は感情の読み取れない瞳を向けた。
「一泉
「ち。とんだ役回りだ」
小声で悪態を
「己の行いにはすべて
韃拓はさらに不服そうに眉根を寄せたが、それ以上は口ごたえせず、ただ頭を下げるにとどめた。
自分の穹廬に戻ってきた韃拓はおとなしく妻の手を借りて湯を浴びる。
「……来年、一泉へ行くことになった」
いちおう言えば、彼女は頷く。「存じております。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
もう知っていたのか、とつまらなく思った。この
韃拓はなにもこの女が欲しかったわけではない。一族の習俗に従って娶ったが、三年経った今でも慣れずにいる。向こうも絶対に自分を
夫婦は基本として同じところで寝起きする。だから大層息が詰まる。
真夜中、眠れずに外へ出てみれば月のない夜に星だけが眩しい。それを眺めながらしばらく歩いて丘に出ると高く短い指笛を吹いた。
すぐに巨獣が音もなくやってくる。甘えるように喉を転がしたさまに笑むと座り込み、星光に反射して優美に輝く黒い背を撫でた。
当主になるには『選定』を受けなければならない。『選定』とは一族の中で最も勇敢で強く、群れを纏め上げる技量を示す為の儀式のことである。それは神獣との契約だ。角族の居住するさらに北には神域と尊ばれる場所がある。韃拓は実際に深くまで分け入ったことはないが、その外淵とも呼ぶべきところでこの獣――一族は狛と呼び習わす――と死闘し、
でも、と毛並みを撫でながらその
この世界は人智を超えた力が多すぎる。常々そう思っていた。
闇夜に柄にもなく物思いを沈めているとふいに足音が聞こえて振り返った。枯れ草を踏み背後から近寄り、静かに横に立った影は瑜順だった。
「眠れないのか」
「そういうお前は?」
青年は目を伏せた。韃拓より少しばかり歳上の彼はもとは孤児で何梅の家に仕える
無表情に黙していたが友には珍しく襟元が緩んでいる姿を見て、ははあ、とほくそ笑んだ。
「いったい誰のとこに
「……鋭いな」
瑜順は溜息をついて許可を取り、隣に座る。
「俺も行くぞ。一泉へ」
「気を遣ってんのか。他にも大勢来るだろうに」
「だからだよ。お前は調子に乗るから。すぐ年が明ける。そうしたらこうして話す暇もないくらい、もっと忙しくなる」
すでに一泉へ入国する為の準備は韃拓の知らないところで始まっていた。
「だから今のうちに好いた女に逢いに行ったか。誰だよ、教えろよ」
問えばしばらく無言であらぬほうを見つめ、怒るなよ、と言いおいて口をすぼめた。
「…………お前さあ、自分が手を出したら殺されるとか言っといて……嘘ついたのか」
名を聞いて呆れた。その相手が昼間に褒めた郝伸大人の娘だったからだ。瑜順はそっぽを向いた。
「嘘じゃない。ばれたら腕をもがれるだろう。でも、泉地に降りればむこう二年は逢えないんだ」
「あのさ、俺もつまみ食いしていいか?」
「馬鹿言え、本人に潰されるぞ」
韃拓は
なあ、と獣に呼びかけると賢いそれは同意するように鳴いた。
「あの
「お前もあっちで気に入りを見つけるかもしれないぜ」
「そんなつもりで同行するのでもない」
どうだか、と寝転がる。寒空に散らばる瞬きをぼんやり眺めた。
「……泉国ってどんなところだろうな……」
韃拓は割譲されている泉を見たことがない。それは居住地から日を
瑜順は同じように空を見上げながら、
「すぐに見られるさ」
とだけ言った。
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