恨めしい

 それから目まぐるしく時は過ぎた。

 兄の作品を読んで、漫画を描いて……となると、膨大な時間が必要だった。僕と優斗さんはできる限り十文字くんに尽力した。作品を読んで解釈を噛み砕き、三人でうんうん唸る。極稀にビアンカも参加して、その度に助言をくれた。ビアンカは作品を読むのも早い。コツを尋ねれば、「数を読んでいればそのうち分かってくる」としか教えてくれなかった。

 仕事と漫画制作の手伝いを往復する日々。忙しくはあったが、なにも考えたくない自分にはちょうどいいくらいだった。仕事から帰ってきて、夕飯を食べる。部屋に戻れば、身体が重くて悲鳴をあげそうだった。身体が重いのか、心が重いのか、僕にはよく分からない。

 自室でパソコンを開き、暗い気持ちで画面を見つめた。

 僕はなにを期待していたんだろう。自覚はなかったが、僕は兄になにかを求めていたのかもしれない。それが与えられないことを知りはじめて、じわじわと絶望が這いよってくるのだった。一年分の日記も、気がつけば終盤に差し掛かっていた。

 見ないように、考えないように。そうしているはずなのに、僕の心にふと影が差す。その絶望は日常にじわりと滲む。分かっていたことじゃないかと自嘲して、それでも心が磨り減っていった。

 日記の終着点にたどり着く。絶望に染められた兄の心を見て、ウィンドウを閉じた。

 はあ、とため息をつく。僕はなんのために兄の日記を読んでいたのだろう。ビアンカにも言われていたことなのに、僕は自ら兄を知ってしまった。勝手に一人で落ち込んで、傷ついて。本当にバカな人間だった。考えなしで、出来が悪い。そうやって自分が努力しないのを能力のせいだと言い訳して、生きてきた。父や兄に愛されないのも、納得がいった。

 僕は、期待していた。少しでも兄に愛されていた証拠が欲しかった。

 仲は良くなかったが、たった二人の兄妹、絆はあったはずだ。兄はきっと僕を愛してくれていたはずだ。そう信じていた。

 せめて、悪口の一つでも書かれていれば、話は違った。

 出来の悪い妹を罵倒する言葉が一つでもあれば、傷つきはするだろうが、まだ納得ができた。少しでも兄に気にかけてもらえていたと実感できた。

 しかし、この一年分のデータには、僕のことは一つも書かれていなかった。名前すら、一つも見つからなかった。

 兄にとっては、僕はいてもいなくてもいい存在だった。その事実を突きつけられていた。

 ひしひしと滲みよる絶望。頭の中はふわふわとしていて現実感がなかった。泣きたいのかそうじゃないのか、それすらも分からない。ただ、この場に留まることはできなかった。

「……美星?」

 十文字くんの部屋から戻ってきていたのか、優斗さんの声が背後から聞こえた。でも僕は振り向けなかった。今優斗さんを見てしまえば、妬みの言葉を投げつけてしまいそうだった。

 ――あなたはいいよね、兄さんに愛されてて。

 そんなこと、兄との死を受け入れたこの人に、言えるはずもない。

 ただ、この場には踏みとどまれなかった。

 優斗さんに、かける言葉が見つからなかった。

 この場にいられなくて部屋を出た。後ろから優斗さんの声がしたが、優斗さんの姿を見れなかった。僕が優斗さんと向き合うなんて、おこがましかった。僕には、優斗さんと向き合う資格なんてなかった。

 ハツエさんはもう眠っているらしく、一階にはトイレの明かりしかついていなかった。誰にも行き先を告げずに夜空の下に出る。六月の北国は寒くもなく暑くもなく、過ごしやすい。それでも夜になれば冷える。ジャケットを着たままで良かった。この地域は海から流れてくる風のせいで霧が発生しやすく、辺りは夜だというのに白くぼやけていた。

 霧の中を闇雲に歩いた。確か最終バスが残っていたはずだ。

 ああ、もう少しで漫画が完成するのに、僕はなにをやっているんだろう。

 心が折れている暇があれば、十文字くんを少しでも手伝ってあげればいいのに。僕は最後の最後で逃げ出してしまった。いつもそうだった。逃げるばかりで、いつだって立ち向かえない。父親と対面できたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。

「……どこに行くんだ?」

 後ろから僕をなだめようと囁かれる。優斗さんが黙ってついてきてくれていたようだ。でも、優斗さんの顔を見れなかった。彼はこんなに親切にしてくれているのに、僕はそれを蔑ろにしている。

 もう僕のことなんか放っておいてくれ。そう突き放す言葉すら口に出せず、霧に紛れて歩くしかなかった。

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