第四部 この世で一番美しい海
兄の日記
碧ばら荘に帰ってから、僕はすぐに小説のデータを整理した。
僕が知らないずっと前からしたためていたようで、一番古いデータは約十年前のものだった。よく十年もデータが飛ばないで保存されていたなと感心する。多分クラウドにもいくつかデータが保存されているのだろう。確認していたらメモデータがあり、そこに様々なネットサービスのIDやパスワードが記載されていた。クラウドサービスにログインすると、予想通り小説のデータが保存されていた。
買ってきたSDカードに作品のデータをコピーしている間、小説以外のデータを眺めていた。
大学の課題や事業で使う資料など、データの種類は多岐に及んだが、僕が目をとめたのはあるデータだった。
一年分の日記のデータが、あるクラウドに保存されていた。
唾液を飲みこんで、ダウンロードしようか悩んだ。日記は小説とはなんら関係ない、人のプライベートそのものだ。プライベートの領域に踏み込むのは、例え身内だとしても気が引けた。一旦クラウドを閉じて、作品がすべてコピーされるのを待った。
その間にコーヒーを淹れ、時間を持て余す。忘れようとしたが、どうしても日記の存在が脳裏を掠めていくのだった。
苦いコーヒーをちびちびと飲みながら、カーテンを開けて窓の外へ目を向ける。景色は真っ暗で、夜の帳がおりていた。先ほど碧ばら荘のメンバーで食べたトマト鍋を思い出す。甘酸っぱいトマトと濃厚なチーズが美味しくて、シメのリゾットまで平らげてしまった。今日は珍しくビアンカが碧ばら荘で夕飯を食べた。ハツエさんと積もる話があるらしく、今は下の階のリビングにいる。優斗さんは十文字くんと何やら話し込んでいて、十文字くんの部屋から戻ってきていない。自室にいるのは、部屋の主である僕だけだった。
後ろめたさはあったが、兄の日記を確認することにした。さすがに一年分となるとすぐに確認できないので、少しずつ読んでいくことにする。常に厳格だった兄には珍しく日記にはところどころ空白があった。これも、自分たち家族には見せなかった一面なのかもしれない。
父親の期待がプレッシャーだったことが日記からひしひしと伝わってくる。
『僕には後継者なんて向いていない』
『役員会議が嫌いだ。今日も朝早くから吐いてしまった』
『逃げたい』
いつも胸を張って生きていた兄だとは思えない言葉の羅列に目を剥いた。そこには僕が知らない兄の内情が事細かに記されていた。
日記に記されていたのは基本的に弱音だったが、その中でもある人物について書かれた文面だけは明るかった。
『優斗に連れられてファストフード店に行った。こういう店は行ったことがなかったから新鮮だった』
『またカップ麺ばかり食べているようだったから作り置きをしておいた。気に入ってくれたらいいのだが』
『あいつの部屋にいるのが一番落ち着く』
胸がざわめいた。兄にも救いがあったのだと安心した。息を吐けば、ちょうどデータのコピーが終わった。冷めたコーヒーを一気に飲み干し、SDカードをパソコンから引き抜いた。パソコンの電源を落とし、カーテンを閉めて十文字くんの部屋に向かった。
扉をノックすれば、すぐ十文字くんが顔を覗かせてくれる。朴訥とした表情からはなにも読み取れない。そこが十文字くんのいいところでもある。普段から淡々としているので余計な気を回さなくていい。
部屋に入ると、優斗さんが我が物顔でベッドの上を浮遊していた。
SDカードを渡すと、十文字くんは喉仏を上下させた。
「これが……月晶の」
「結構量あったけど、大丈夫? 読めそう?」
「原稿の合間に読むので大丈夫っスよ。結構暇してるんで」
原稿執筆が一番大変だと思うのだが、彼はさもあたり前だとでもいうように平然とした顔をしていた。この前熱で倒れたばかりなのに反省の「は」の字もない。僕の顔に書いてあったのか、十文字くんは軽く手を振って苦笑した。
「ほんとに。無理はしないんで」
「……信用ならないなあ」
「本当ですって。その前にネームの段階で詰まってるから、暇と言えば暇なんですよ」
「ネームって、そんなに通らないものなの?」
尋ねてみると、十文字くんは苦々しげに「そっすね……」と眉間に皺を寄せた。こんなに分かりやすい表情をする十文字くんは新鮮だ。
「じゃあ、とりあえずデータ確認してみます。少し時間はかかると思いますけど……」
「いいよいいよ! 無理しないで!」
優斗さんが十文字くんににやりと笑いかける。
「俺の解釈を教えてやろうか?」
「は? いらない」
「あいつの小説は分かりづらいところもあるからな。俺はあいつ直々に教えられた解釈を知ってる」
「ぐっ……でもいい。最初は俺なりに噛み砕きたいからな」
喉奥で唸った十文字くんだったが、悔しげにしながらも自分の意見を貫いている。そこが彼の魅力でもあるのだが、今の自分には彼が眩しく感じられた。
父親に楯突いたのは今回がはじめてだった。僕はちゃんと自分の意見を言えていただろうか。
「それで……お前は続きを描いてくれるのか?」
「……ああ、もう!」
優斗さんの問いかけに、十文字くんは苛立ちを隠そうともせず頭を掻き毟る。十文字くんのこんな態度を引き出せる時点で優斗さんは十文字くんと相性がいいのかもしれない。実際、僕が知らない合間に仲良くなっているようだった。
ぶ厚い眼鏡をかけ直して、十文字くんは言い切った。
「できるかどうかは分からないけど、やれるだけやってみるよ」
「え!?」
十文字くんの返答に、咄嗟に声をあげてしまった。
「なんで!? あんなに嫌がってたのに……」
そう言えば、十文字くんは眼鏡越しの目をまっすぐ僕に向けた。憑き物が落ちた、すっきりした顔だった。
「あんたたちが必死すぎてさ……。逆に気になった。月晶ってどんな人間だったんだろうって。単純な興味だよ」
「……そんなんで、いいの?」
「作品を読めば、どんな人間か三割くらいは分かる。作品ってのは、その人の人生が如実に現れるから」
そう言って、十文字くんは僕から目をそらした。僕はじわりじわりと嬉しくなって、十文字くんの手をとらずにはいられなかった。
「ありがとう、十文字くん!」
「う……はい」
優斗さんはなにが面白いのか、小さく笑っていた。
「そいつ、お前の前でいい顔したいだけだよ」
どういう意味だろうと首を傾げた。その言葉の意味は理解できなかったが、十文字くんが優斗さんに拳を振り上げているところを見るとあまりいい意味ではないらしい。楽しげに騒いでいる二人を見て、僕もつられて笑った。
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