貴族ビアンカの憂い6
なにも問題はない。だというのに。
「やめろ!」
空海の背後から、見知った人影が飛び込んできた。彼女の夜色の目と合う。
幾万もの星が輝く、その目。
これだけの星の輝きを持つ色は、もう夜色という言葉だけでは片付けられなかった。人の心を照らす星色。そう形容するのが、最も適切なのではないかと思った。 空海はその声に驚いたのか私の腕を解いた。後ずさりすると、美星が私を背で庇うように前に立つ。
私は、守られなくても平気なのに。
なぜ彼女は、私を守ろうとするのだろうか。
「なんだ、そのふざけた格好は」
空海が言っているのは、美星の姿格好のことだろう。程よく切り揃えられた品のある短い髪、紺のジャケットに黒のスラックスといった出で立ちは、女性というよりも少年そのものだった。彼女はこの家では今のような見た目をしていなかったのかもしれない。そういえば、以前彼女は「兄を模倣している」と言っていた。空海が露骨に嫌悪を顔に出しているのは、美星が蓮ヶ原雪月を真似しているからなのだろう。
「僕のことはどうでもいい! 彼女に手をあげるなんて最低だ!」
「……『僕』、だと?」
空海の目がつり上がった。男には言葉にできない威圧感があり、美星を萎縮させるのには十分だった。空海の気配が美星の肌を切り裂きはしないか。私は美星が心配で、後ろから彼女の右手を握った。
美星は、父親の前から動こうとしなかった。
動けないのではない。動かなかった。彼女の右手は震えていたが、私の手を強く握り返した。美星は、誇り高い子どもだった。
「お前……! 雪月をどこまで侮辱すれば気がすむんだ! この恥さらしが!」
男の手から放たれた平手打ちは、細身の彼女の身体を飛ばすには十分だった。破裂音に似た音がロビーにこだまする。冷たい床に尻餅をついた美星を後ろから支えた。もちろん私の身体で支えきれるはずがなく、一緒に床に伏した。
「空海様! 自身の子どもに暴力など、なりません!」
「黙っていろ! 日向!」
クラシックなメイド服を着た初老の女性が声を張り上げて空海を嗜めたが、空海はそちらのほうに見向きもせず、美星を睨み続けていた。
その視線に美星は怯むこともなく、きっと空海を見据えている。なぜこんなにまっすぐに相手を見つめられるのか、私には分からなかった。
しばらく、睨み合いが続いた。
時間が凍りついていた。それは両者とも頭を冷やすために必要な沈黙だった。お互い一歩を揺らがなかったが、やがて変化が訪れたのは父親のほうだった。
空海は喉仏を上下させて、ひどく落ち着いた声で言った。
「……戻ってこい。美星」
その言葉に、美星は立ち上がる。私に手を伸ばして起き上がらせてくれた。彼女の目の輝きも落ち着いていて、白い星が瞬いている。その目で私を覗き込んで、気まぐれにまばたきをしては星の欠片を散らした。
とても美しい光景だった。
その目に思わずみとれていたら、彼女は頷いて、私から目をそらした。繋いだ手はもう震えておらず、力強い温度が手のひらに伝わってくる。もう美星には、恐怖の感情はないのだろう。彼女の強さを、信じたかった。
湖面のような、静かな声だった。
「僕はここには戻らない」
空海の目は見開かれた。叱る言葉を失い、魚のように口を開閉している。動揺を見せている父に悪びれる様子もなく、美星は踵を返して私の手を引いた。
「帰ろう、ビアンカ」
美星は私に背中を見せて玄関の大きな扉を開いた。強い光に目が眩み、一瞬彼女の姿が見えなくなる。
それでも手は離さなかった。離せなかった。
やがて目が慣れると、どこまでも広がる青い空が私たちを照らしているのだった。
背後から声がした。
「待て!」
男の声がしたと思えば、強い力で髪を引っ張られた。突然の頭皮を引っ張る痛みに美星の手を離すしかない。私の髪を引っ張って後退させたのは間違いなく空海だろう。突如手を離した私に驚いたのか、美星が振り返る。驚きで固まっていたが、徐々に表情に怒りが滲んでいった。
「父さん……!」
「お前が美星を誑かしたんだな! この……っ!」
美星に怒りの表情は似合わない。
あの碧ばら荘で、健やかに笑っているあなたが好きだ。そんなことは口に出せないけれど、私はそう思っている。
だからあなたは、そんな顔しなくていい。
護身用にドレスの裾に隠していたナイフを取り出し、背後にナイフを差し向けた。そして躊躇いなく、自分の長い髪を切った。
ぶちぶちと勢いよく切れていく。こんな切り方をしてしまえば髪が傷むのは確実だった。後で専門の人を手配しなければ。
ぶつん、と音を立てて、髪と自分を切り離した。心なしか首元が涼しい。ナイフをドレスの袖口にしまいこんで、美星に手を差し出した。男を振り返りもせず、呆けた顔をした美星に言った。
「なに、ぼうっとしているの。行くわよ」
「え……? え? うん」
困惑している美星は戸惑いながらも私の手をとり、並んで歩いた。私は星と歩いているのだと、青空の下思った。
東京の風は暖かく、陽気に包まれている。またハツエの元へ帰れば、肌がひりつく寒さが待っているのだろう。
それが今は楽しみだった。
少しだけ、気持ちが晴れた気がしていた。
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