貴族ビアンカの憂い5
紅茶を空にした後、私はすぐに屋敷を出ようとした。
美星がこの屋敷に潜入していることは機関の調べで分かっていた。私は空海を足止めしていればよかった。
美星に頼まれたわけでもない。独断のサポートだ。ここまでしてあげているのだから、今度おいしい和食でもつくってくれないと気がすまない。美星は要領が悪い子だが、料理の腕だけは認めている。あの子のつくった料理はどれもおいしいし、はじめてつくったものもそれなりに食べられる出来になる。
どうしてそんなに料理ができるのか、尋ねたことがある。
「料理はね、昔から好きだったんだ。洋さんっていう……僕を育ててくれた人がいるんだけど、小学生のときに一から教わってね。最初はうまくいかなかったんだけど、どんどん上手になっていく感じが楽しくて。洋さんってすごく厳しいんだけど、その洋さんにすごく褒めてもらえてさ。いつの間にかハマってたんだ」
彼女は嬉しそうにはにかんでいた。
私は素直じゃない。だから、彼女にはっきりとおいしい、と告げたことがなかった。私もきっとなにか言ったほうがいいのだろう。
でも、なにも言葉に出せなかった。
思えば、ハツエにも慎にも、ちゃんと褒めてあげることはなかった。心では褒めていても、なぜか喉がつっかえるのだ。親としては落第点だ。話に出てきた「洋さん」のほうが、よっぽど育て親としての素養があるに違いなかった。
私はずっと、不器用のまま、長い時を生きている。
呪いは、身体の時だけでなく精神の時までも止めてしまった。私の身体と精神は十五歳の頃のままだ。長い時を生きていれば、感情は鈍麻する。老人のように見えるであろう私の精神性は、本当のところ人の心が磨り減っているだけなのだった。呪いは、私が成長することを許さなかった。
私はずっと子どものままだった。親と言っておきながら、その精神性は幼稚だった。親と思い込むことでかろうじて大人として振舞っている、ただそれだけのことだった。
それでも私は生きていかなければいけない。例え独りになっても。例え人の心を失ったとしても。
だから少しばかり、人生のスパイスが必要だった。
「では。またなにかございましたらご連絡ください」
そう伝え、ロビーまで見送る空海と握手をする。空海はまだなにか言いたそうに口の端を曲げていたが、「はい」と静かに頷いた。
手が離れて、少し距離をとる。
「最後に、あなたに伝えておかなければならないことがあります」
ロビーには冷たい影が降りている。
そう切り出し、表向きは平静を装っている空海に告げた。
「あなたのご子息である蓮ヶ原美星様は、我々機関が保護いたしました」
言葉を理解するのに時間がかかるのだろう。虚をつかれた男の目が、みるみるうちに開いていくのが分かった。
「美星が……? なぜ」
「彼女が呪いの保有者であることが確認されたからです。このまま放っておけば彼女の命に危険があるので機関が保護しています」
「……なぜそれを今まで黙っていたんだ」
警戒しているのか目元の影が深くなる空海が愉快で、笑いをこらえるのに必死だった。私は存外、この感情豊かな男が好みらしい。あくまで無表情を貫いて、彼を見据える。
「あいつの居場所を知っているのであれば話は別だ。教えてくれないか」
「あなたに教えてなんになると言うんです?」
「なに……?」
高慢な面を見せ始めた男がやはりおかしくて、今度こそ私の唇は歪んでしまった。天井から太陽の光は降り注いでくるのに、私の足元は暗いままだった。
「だってあなた、呪いにかかった彼女をどうしようもできないでしょう? それとも、いつ死ぬか分からないあの子を酷使して後継者にしたてあげるのかしら」
「自分の娘をどうしようと、それは親の勝手だろう。他人に口出しされる謂れはない」
「それはそう……。そうね」
人の家の事情に他人が口を突っ込むべきではない。それは実際正しい。家には家のルールがあり、そこに踏み込むことは基本的に良しとされていない。しかし、今の美星は家の外にいるのだった。
彼女はこの家で愛されていたのだろうか。ふと思う。
私が口に出しても娘の話をしなかった父親がいるくらいだ。私の予想では、蓮ヶ原雪月もろくな人間ではない。きっと彼女は肉親とまともに向き合ったことなどないのだろう。甘えん坊で人に構いたがるわりに、甘えるのが苦手な子だった。彼女自身も気づいていないと思うが、美星は独特な距離感の持ち主だ。人懐っこく見せかけて、人に触れられると怯えたようにぴくりと身体を揺らす。人の顔色を異常に気にして、人に好かれようとしてから回る。
本当に不器用な子だった。
彼女の面倒を見ると決めた以上、私はこの男に言わなければならなかった。
「でも、彼女の人生は残り短いわ。十年も生きられるかどうか分からないの。残りの人生、彼女の好きに生きさせてみたらどう? あなたが蓮ヶ原雪月にさせてあげられなかったことをさせてあげたらいいじゃない」
私は本当に意地が悪い。余計なことを言わなければいいだけなのに、どうしても一言付け足してしまう。私は唇の歪みを抑えきれず、彼を挑発した。
「――あの子は私がもらっていくわね」
「貴様!」
相手の神経を逆撫でするのが好きな私は、よく他人に嫌われる。案の定、空海は私の腕を掴んで強い力で引っ張った。
不老不死といえど力が強いわけではない。寧ろ貧弱で、運動は大の苦手だ。だから私の身体は簡単にぐらついてしまう。
「この女狐め!」
腕を掴んでいないもう片方の手を振り下ろされる。
ああ、殴られるんだな。感慨もなくその手を見ていた。素早く振り下ろされているのに、スローモーションのようにゆっくりと見えた。
目を瞑る必要もない。痛みには慣れている。覚悟など必要ないほどに、痛みは私の日常にあった。
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