貴族ビアンカの憂い4

そうして私は、美星の実家に向かった。

 目の前に聳え立つ門は、狭い日本には不釣り合いなほど大きい。街外れにある広大な豪邸は、白塗りの塀に囲まれている。裏には公園があるが、表玄関との距離が遠すぎて子どもたちの声は聞こえてこなかった。

 東京は鬱陶しいほどに快晴だ。冬の足音は既に消え去り、穏やかな陽光に満ちる春が訪れていた。

 門の脇にあるインターホンを鳴らす。しばらくして、若い男性の声が聞こえてきた。

『どちら様ですか』

「機関の者です」

 簡潔に伝えると、「お待ちください」と通信が切れる。私と会話したのは使用人の一人だろう。機関の者だと言えば、家主である蓮ヶ原空海は自分を無下にはしない。

 美星の父、蓮ヶ原空海は、機関にある依頼をしている。

 蓮ヶ原空海は国家機密である機関の存在を知り、コンタクトをとってきた。独自の情報網を持っている蓮ヶ原空海を、機関は警戒している。しかし、蓮ヶ原空海の依頼はありふれたごく普通のものだった。

『亡くなった蓮ヶ原雪月に呪いがあったのか調べてもらいたい』

 機関の存在を知った親は、子どもがなぜ亡くなったのか調査を依頼するケースが多い。実際子どもが呪いの影響で亡くなれば、身内には秘匿せず教えている。外部に漏れる危険性はあるが、そもそも一般人は「呪い」の存在など信じない。騒いだ者は大抵の場合異端扱いされ、下手をしたら病院行きだ。

 そういうこともあり、機関は呪いの保有者の関係者を無理矢理にでも納得させている。機関の存在を外部に漏らさなければその者の本当の死因を調査する。そういった条件をつけて情報を開示することもあるのだ。

 蓮ヶ原空海は、その内の一人だった。

 しばらくして門が開かれる。門の先にいたのは、初老に差し掛かった男性だった。

 男性は異人の私を見ても顔色一つ変えずお辞儀した。

「この四藤が案内を勤めさせていただきます」

「ええ。よろしく」

 四藤の背中を眺めながら、広い庭を抜けていく。春がやってきていることもあり、小さな白い花の蕾が風に揺れていた。花壇に植えられているのはチューリップだろう。よく手入れされている庭だった。

 私の庭も春になったら手入れしなくてはいけない。冬に越してきたおかげで庭の整備がままならないのだ。これだから雪の多い地域は困る。嘆息しそうになったが、人がいる手前、そうすることもできなかった。

 屋敷の扉を潜れば、広いロビーに出た。黒くシックな床は大理石ではないものの、それなりに硬質だった。ワックスがけを怠っていないのか、天井から差し込む太陽光を反射している。壁には女性が描かれた絵画があった。どこか美星に雰囲気の似ている女性だった。漆黒の長髪に夜色の目、紅を引いた唇。この絵画だけでも、相当の美人だった。

 あの夜色をよく再現しようとしたものだ。美星の夜色の目は、真っ黒なわけでもなく、かといって黒より明度が高いわけでもない。純粋な夜がそこに佇んでいるかのような、そんな色なのだ。この絵を描いた者はよほどの熟練者なのだろう。


 そのロビーで待っていたのが、厳格な出で立ちの中年男性だった。

「機関の方ですね。はじめまして。私が蓮ヶ原空海です」

「突然の訪問、お許しください。ビアンカ・バートウィッスルです。今日は調査の報告だけですので、すぐにお暇します」

「まあ、そう言わずに。ゆっくりしていってください」

 握手を交わし、部屋へと案内される。一見人当たりの良さそうな話し方だが、頑固そうな人柄だ。白髪混じりの頭髪は休日だというのに整えられている。シャツにベスト、スラックスを身につけている点も、隙のない人物であることに間違いはなさそうだった。

 一八〇〇年代から生きてきた私からすれば、誰もが幼子なのだが。

 ワインカラーの壁紙が印象的な客間へ通される。彼に促され、同じタイミングでソファに座った。暗いセピア調のソファの皮は固く、高級感がある。光沢こそないが座り心地がよく、腰に負担はなかった。

「日本語がお上手なんですね」

「ええ。日本に長く滞在していましたから」

「おや。今は他の国に在籍していらっしゃるのですか?」

「いえ。今年の冬に日本に配属されまして。以前日本に住んでいたというだけです」

 嘘半分、真実半分で話す。ビアンカは機関に保護される身で、決して機関の人間ではない。不老不死の身であり、呪いの知識と能力を重宝されているから特例の待遇を受けているだけだ。形だけの笑みを返す。たわいのない話をしていると、客間に入ってきた使用人がテーブルに紅茶を置いて去っていった。

 空海は扉を一瞥して、改めて私に対面する。目で射抜く、という表現のほうがしっくりくるかもしれない。

 彼は険しい目つきで、重々しく口を開いた。

「……それで、雪月の死因は一体なんだったのでしょう」

 亡くなった者の心配をするより、今生きている者を心配すればいいのに。あなたには息子だけでなく、娘もいるでしょう――。その言葉を飲み込んで、わざと真面目な表情をつくった。

「蓮ヶ原雪月様の死因は、変わらず、です」

「……変わらず?」

「少なくとも呪いの影響はございません。彼が呪いの保有者だった事実はない。……それが私どもの調査の結果です」

「そんな……はずが。理由もなく自殺するような子では……」

「自殺の理由ですが、そちらのほうも調査結果が出ております」

 私が話している情報は私自身が調べたものではない。すべて機関から伝えられたものだ。私は機関から伝えられた真実しか話していない。だから、彼の反応が逐一面白かった。傲慢な人間が地に落とされる姿を見るのはやはり楽しい。私の意地の悪い性格は、いつまで経っても治らない。

「すべてをお伝えすればあなたが傷つくことになりますが……どうします? すべてを知りたいですか?」

 そう呼びかければ、今まで鷲のように落ち着いた眼をしていた空海は視線をうろたえた。口を開閉し、唇を噛んでいる。額から脂汗がじわりと滲んでいた。蓮ヶ原雪月が死を選んだ理由も、薄々と感づいているのだろう。

 雪月にすべての責任を押しつけておきながら彼の生き様を否定した。雪月を後継者に仕立て上げ、その小さな背中に重い責任を持たせた。それだけでなく、彼の心の拠り所であった小説を否定し、同性愛者であることを罵った。ここまでしておいて、理由を知らなかったとは言えないだろう。

 全部口頭で伝えても良かったが、この場で発狂されても困るので、簡潔に伝えた。

「彼は同性愛者であることに悩んでいたようです。そこであなたに否定された。彼が死を選んだ理由はそれだけではなく複合的に混ざり合っていますが……それが死を選ぶきっかけになったようです」

「……きっと、相手の男に唆されたのかもしれません」

「そう思いたいのならご自由に。私は事実だけを伝えにきましたので」

 空海は項垂れる様子もなく、ただ歯噛みしていた。下唇に歯の切っ先が刺さり、ぶつ、と音を立てて切れた。唇には血の珠がじわりと浮いている。それにも構わず、空海は重々しい声音で独り言のように話した。

「あいつは……なんでもこなす子だった。強い子だった。たったそれだけで死ぬはずが……なにかの間違いだ」

 年を重ねた男の目は、目を爛々とぎらつかせ視線を彷徨わせていた。

彼は蓮ヶ原雪月の死を受け入れられず、藁にもすがる思いで機関に依頼したのだろう。大切な人の死を受け入れられないのは、短い時しか生きられない人間の特権だ。私のようになれば、人の死を悲しむ器官が麻痺してくる。大切な人の死というのはいつも隣にあり、毎回怯えていたら精神が衰弱してしまう。

 もう、私の感情は麻痺している。だからこの男が羨ましかった。

 人の死を受け入れるしかないこの男と、人の死を悲しまない私。どちらがより滑稽なのだろう。穴がボコボコに空いた人間と歪な形をしたハリボテの私。でもその穴は時間が経てば次第に埋められていくものだ。じゃあ私は? 長い時を生きすぎて修復すら必要なくなった私は、人間の形を保っていられるのか?

 問うまでもなく、滑稽なのは私のほうだった。

「ところでお聞きしますが、あなたには娘さんがいましたよね? 娘さんは今どうしてらっしゃるのですか?」

「娘……? 今は娘の話をしている場合ではありません。どうかもう一度、雪月に死因を調べ直していただけませんか? 報酬ははずみますので……」

 しかしこの男は、大切なことに気づいていないようだった。

 本当に大切なものは意識していないと簡単に手からこぼれてしまう。彼は死者を大切にするあまり、すぐ近くにある宝物に気づいていなかった。

 空海は、今なお蓮ヶ原雪月を縛り続けている。

 美星は蓮ヶ原雪月に縛られているが、この男はその反対だった。死してなお息子をがんじがらめにし、鎖で繋いでいる。その鎖に絡まり、空海自身も身動きをとれないでいるのだ。兄の真似という歪な方法をとりながらも、前を向こうとしている美星のほうがまだマシだ。

 かわいそうな生き物だ。この男も、美星も。

 私としては羨ましいほどこの上ないが。

 死者を想う気持ちは、もう私にはないものだから。

 喉奥から嗚咽を漏らす空海を肴に、まだ冷めていない紅茶を飲んだ。結局、空海から美星の話が出てくることはなかった。

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