貴族ビアンカの憂い2

 幽霊が家を出ていった後、機関に連絡を取り移動手段を手配させた。家を出るまでまだ時間があったので、私は碧ばら荘に足を運んだ。

 別に理由はない。ただ、なんとなくハツエの顔を見たかっただけだ。

 三月に入って、雪は大分溶けてきた。雪を吸い込んだ地面は黒ずんでいる。冷たい風は水の香りがした。

 この北の国では、雪の名残がまだ散らばっている。ヒールの高いブーツで歩くから、雪が無ければ無いほど良い。ドレスの裾も汚れないで済むから、春の季節は生きやすかった。

 インターホンを鳴らすと、しばらくしてハツエが出てきた。ハツエは皺のある顔を更にしわくちゃにして笑った。

「あら、ビアンカさん」

「美星を連れて帰ってくるわ。あなたは安心していて」

「安心もなにも。私は心配していませんよ」

 彼女が今の事態に気づいていないということは、十中八九ないだろう。彼女は機関で司令官を務めた、歴代の戦士なのだから。

 呪いの保有者を保護し、研究する機関の司令官。

 ともなれば、彼女が呪いに精通しているのは当たり前のことだ。戦争孤児になり行き場を失ったハツエを見込んで育てたのは私だった。

 昔は素直な子だったが、年齢を重ねるたびになにを考えているのか分からなくなった。飄々としていて、いつも笑っていて。

 これが老いというものなのだろうか。私の身体も精神も、老いを知らないので、理解が及ばない。

 だからハツエがなぜ美星をこの碧ばら荘へ連れてきたのか、私には分からなかった。

 十文字蒼夜はまだ分かる。彼は類まれなる眼を持った表現者だ。卓越した表現者の中には特殊な力を持った者がいる。その一人が彼だった。ハツエは前々から彼に目をつけ、接触を図ったのだろう。

 しかし、美星だけは分からなかった。

 今のところ、私から見ればなんの変哲もない、どこにでもいそうな呪いの保有者だった。確かに、海の香りに紛れて、なにか清涼な匂いがするのだが、それ以外はなにも分からなかった。私もある程度は呪いを視認できるが、十文字蒼夜ほどはっきり見えるわけではない。私の認識方法は嗅覚に頼るしかないのだ。あの十文字蒼夜が惹かれているほどのなにかを持っているのだろうと予測はできるが、今のところ確固たる証拠がない。

 ハツエは元司令官といえど、霊能力もないただの人間だった。だからハツエがなぜ彼女を気にかけるのか分からなかった。

「この際だから聞くけど、なぜあの子をここに連れてきたの? どこにでもいそうな保有者じゃない。機関の者に任せておけば……」

「……星が見えたの」

「星?」

 尋ね返せば、ハツエは困った顔をして微笑む。

「ええ。私はね、その星に……運命を感じたのよ。美星さんに出会ったのはたまたまだったけれど、放っておけなかったわ」

 歳をとってから、ハツエの抽象的な言い方は更に拍車がかかったように思える。ここ数年の彼女の言葉を、私はうまく理解できない。なんだかハツエに置いてきぼりにされているようで胸が痛んだ。

 ハツエももう九十だ。この先十年も生きていけるか分からない。彼女を育てた親として、最期を見守るのが私の役目だった。

 ハツエの最期を見送る。ハツエに日本に誘われたとき、そう決意して越してきた。

 そう思って越してきたのに……ハツエは不思議なことをしていた。

 辺鄙な田舎町で小さな寮を営み、そこに訳ありの二人の若者を住まわせていた。普通の人間とは違う者たちを助けてきた彼女らしかったが、私は拍子抜けしてしまったのだ。

 最期の時を二人で過ごせる。そう思っていた。

 九十になってまだ仕事めいたことをしているのだと思ったら、感心を通り越して呆れてしまった。

 そして同時に疑問に思った。なぜ彼女はあの二人を保護しているのか。

「……あなた、なんのためにあの子たちをここに集めたの?」

 そう尋ねれば、ハツエはやはり困った顔をして……ひどく優しい目で私の目の奥を覗き込んだ。

 まるで、私の心を見透かされたようだった。


「あなたを独りにしないためですよ、ビアンカさん」


 そう言って、ハツエは続ける。

「あなたは優しいから、あの子たちを紹介すれば面倒を見てくれる。そう思ったのですよ」

「……なぜ」

「だって、独りは寂しいでしょう?」

 私は唇を噛むしかなかった。独りは寂しい。けれど、置いていかれるのはもっと寂しかった。いなくなった者たちの影が棘となって、心臓に刺さって抜けない。これを生きている間、ずっと抱えていくのは苦しかった。ハツエはそれに気づかないほど愚かではない。

 残酷な子どもだ。そう、思った。

「私を怒りますか?」

 肩を竦める彼女を叱れるわけがなかった。

「……ばかな子」

 ため息をつけば、ハツエは破顔した。

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