貴族ビアンカの憂い1
肩を怒りで上下させ、リビングから出ていく美星の背中を眺めていた。
半ば巻き込まれている十文字蒼夜は朴訥とした表情で私と美星を交互にみやっていたが、やがて無言で美星を追いかけていった。
嵐が過ぎ去って、ダージリンを一口。
若さは一つの正義だ。羨ましいと思いながら、朝食を再開した。
外が曇っているせいで、部屋の彩度は低いままだった。薄暗く翳ったこの小さな洋館は、私の精神性を現しているようで落ち着く。彼らと毎日騒がしくしているのが嘘のような静けさだった。
部屋の中は暖かい。夜は暖炉に頼るが、日が出ている合間はストーヴで事を済ますことが多い。特に、美星がいない休日は。
クロワッサンを平らげ、スープで流し込む。玉ねぎと人参を細かく切って煮込み、コンソメで味付けしたものだ。優しく甘い香りが胃を温めてくれる。一人で食べたところで、あまり食欲もわかないのだが。
食欲がわかないなりに、おいしくつくっておくのは必要なことだ。楽しくない作業が更に楽しくなくなってしまう。
「あなたは行かなくていいの?」
いつまでも美星を追いかけようとしない幽霊に声をかけた。幽霊は扉の前で腕を組んで、仏頂面を更に険しくしていた。
「……お前、素直じゃないな」
「なんのことかしら?」
「わざと美星を怒らせてけしかけているようにしか見えないが」
幽霊には私が彼女を意図的に動かしているように見えているのだろう。よく他の人間にも言われる。他人からすれば、私の言動は裏があるように見えるのだと。
実際は、ただ考えたことをそのまま言っているだけなのだが。
長い時間を生きていれば、感情的になることに疲れてくる。感情を動かせば動かすほど、どうにもならない事象に疲れ果ててしまう。人との出会いも、別れも、いつも突然だ。
だからできるだけ人と関わらず生きている。そのはずなのに。
「安心なさい。このままあの子を放っておくことはしないわ。ちょうどあの子の父親にも用があるの」
「なんだって……?」
「あなたはなにも心配しなくていい。それより、成仏することだけを考えなさいな」
紅茶を飲み干して立ち上がる。まずは機関に連絡して手筈を整えなければならない。この狭い日本という国では、外国人で豪奢なドレスを身に纏う自分は目立ってしまう。新幹線以外の移動手段が必要だった。
私にとって、華やかなドレスは魂そのものだ。英国の永世貴族としてヴィクトリア時代から生きている自分を武装するための、必要な装束だった。これがなければ、私は私たらんとする核を見失ってしまう。扉を見やれば、幽霊は背中を見せてまだそこにいた。
恋人と心中した彼に肉体はなく、不安定な魂はいつ壊れてもおかしくはなかった。長い間現世に留まりすぎて、悪霊になってしまった者たちを大勢見てきた。だから「今」を選んだ美星の行動は、図らずも正解なのだった。
……この世にいない者より、生きている者を心配すればいいのに。
幽霊が悪霊になったところで痛くも痒くもない。強制的に成仏させればいいだけの話だ。それで霊の魂が壊れることになっても、生者への被害はほとんどない。そんなことよりも、自分のことを考えていたほうが有益だ。少なくとも、兄のことを根に持っている今の美星が、実家に戻るのは得策とは言えなかった。
どのようなストレスで呪いが発動するかが分からない。そんな状態で行かせたくはなかった。
しかし今となっては後の祭りだ。こうなってしまえば、美星にバレないようにこっそりサポートする他ないだろう。
幽霊は今にも消え入りそうな声で、言う。
「……美星をよろしく頼む」
ほら、人間というものは、身勝手だ。
私に頼んだって、呪いはどうしようもないのに。呪いに対して、私はずっと無力だ。呪いの影響で不老不死になってから、ずっと。なのに人間は、私に縋る。あなたならどうにかしてくれる、あなたなら私たちを守ってくれると。
私ができるのは、精々呪いの症状を抑えてあげることくらいだ。私に希望を見出さないでほしい。私は、無力な人間だ。
あなたたちが死んでも、私はこの先もずっと生きていかなければならないのに。
酷なことを言う。死別で胸が何度も張り裂けた私に、これ以上なにを求めるというのか。
それでも私は、そんなことおくびにも出さず約束するしかない。
「あなたに頼まれるでもないわ。あの子を保護するのは私の仕事よ」
そう言えば、彼の雰囲気がいくらか和らいだ。
あなたはいいわね。もう死んでいるのだもの。生者を置いていくだけでいいのだから、楽よね。
だなんて、口が裂けても言えなかった。
そうやって私は、平気な顔して、平気なふりして生きて。また誰かに置いていかれる苦しみを携えるしかない。
――死にたい。
何度願っても、叶わない。私はもう、人と関わりたくない。
そう、思っているのに。
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