絆
「……お嬢様」
洋さんの朴訥とした声が、僕の背中から聞こえた。
「よ、洋さん……」
ピッキングの手をとめて扉を背後に立ち上がり、洋さんと向かいあった。洋さんは厳しい表情を崩すことなく、僕を無感動な目で見つめている。髪を後ろに引っ詰めているせいか、目元はきつい。元々洋さんはつり目なので尚更近寄りがたい。使用人の古株の一人として長年働いているからか仕事をてきぱきとこなし、思ったことをはっきりと言う……威厳がある人だった。
そして同時に、僕ら兄妹の母代わりとして育ててくれた恩人でもあった。
兄は「あんなやつ母でもなんでもない」と突き放していたが、僕は然るべきときに褒め、然るべきときに叱る洋さんを尊敬していた。洋さんは僕を甘やかしはしなかったが、辛かったときは黙って傍にいてくれた。父や兄が僕を見下す中、洋さんは僕を一人前の人間として扱ってくれていた。
だが、洋さんは僕を見過ごしはしないだろう。洋さんだって、四藤さんと同じ使用人なのだから。
父の意思に背くなんて、どう考えたってできないのだ。彼らは仕事でこの屋敷にいる。どんな感情を持とうが、仕事だと割り切らなければいけない。僕はさっきの四藤さんを見て、一抹の寂しさを覚えていた。
どうせ洋さんも、仕事で僕たちの世話をしていたにすぎない。
そう思ったら……、身が竦んでしまった。
声も出なかった。足も出なかった。ただ、どうしようもないことへの諦めが、足のつま先まで届いてしまったのだった。
無性に悲しくなった。なんだか泣きたい気分だ。こんな気分は、ビアンカが僕を庇ってけがをしたとき以来だ。
ビアンカ。
もっと彼女の忠告を耳に入れるべきだった。僕が考えているほど、この家は甘くなかった。少しは期待していたんだ。この家に、誰か僕の気持ちを理解してくれる人がいるだろうと。
そんなことはなかった。
僕はこの家でも、社会性の乏しい、出来の悪い人間だった。
もう、碧ばら荘に帰れないのかな。ハツエさんにも、十文字くんにも会えない。一緒に薔薇を育てることもできない。ご飯も、食べられない。
ビアンカも、こんな僕をよく育てる気になったものだ。
一から屋敷の家事を教えこまれた。ドレスの着方や髪の手入れまで任された。彼女は細かくて小言が多かったが、それでも根気よく僕に付き合ってくれた。おかげでようやく、屋敷の仕事が一通りこなせるようにもなった。
僕は、甘えすぎていたのかもしれない。
とんでもない甘ったれだ。なにもかも甘かった。見通しも、なにもかも。もっと大人になって、冷静に家のことを考えられるようになってから来たほうが良かった。
今更後悔したって、もう遅い。
洋さんが無言で近づいてくる。この家に帰らなければならない。いつまでも覚悟が決まらなくて、うなだれた。
「お嬢様、お下がりになって」
だから、洋さんの言葉に耳を疑った。
「え……?」
顔をあげれば、洋さんは厳しい表情を一切変えず、少しため息混じりに続けるのだった。
「雪月様の部屋に入りたいのでしょう。今開けますから、そこから離れていただいても?」
つい呆然としていると、洋さんの目つきが更に険しくなった。慌てて扉の前から離れると、洋さんは普段管理している鍵の束を取り出して部屋を開けた。
「空海様は今お客人を接待しております。急がないと気づかれてしまいますよ」
無遠慮に兄の部屋に入る洋さんの足取りに、迷いはない。予想外の事態に、僕は思わず尋ねていた。
「よ、洋さん、僕のことを父さんに報告しなくてもいいのかい……?」
「……しばらく見ない合間に、雪月様にそっくりになられましたね。雪月様と違って、堂々とはできないようですが」
洋さんは足を止め、僕を振り返る。いつもつり上がっている目元はほんのり紅く滲んで、彼女の雰囲気を和らげていた。
「空海様には報告しません。さあ、急ぎなさい」
「……洋さん!」
今までの不安がかき消された。洋さんは、僕のことを分かってくれていた。この家にも、僕の味方がいた。それが嬉しくて――泣きたくなって、洋さんに抱きついた。
「ありがとう、洋さん……」
「立派になられましたね。お嬢様」
僕のことを突き放さず、背中に手を回してくれた。そしてあやすように撫でられて――そんな触れ合いは、五秒としないうちに終わった。
「さあ、急ぎましょう。空海様に気づかれる前に」
「……うん!」
僕はもう一人じゃない。腹の底から勇気が溢れてきた。僕は袖で目を擦り、兄の部屋を探索した。
部屋は兄が亡くなった当時と同じままにしてある。意外なことに、あの無駄が嫌いな父はこの部屋を撤去しなかったのだ。それだけ兄に執着していたことが目に見えて分かる。昔から兄にたいする期待と愛情は重かった。
部屋は潔癖症な兄らしく綺麗に整理整頓されている。部屋の両脇に並んだ本棚は木製で、シックな色合いだった。部屋の奥にベッドと机がある。机の上には一台のノートパソコンが置かれていた。
近寄って見てみると、閉じたノートパソコンの上には埃一つもない。きっと使用人が普段から掃除しているのだろう。パソコンを立ち上げている時間があるか悩んだが、後ろを振り返ると洋さんが扉を閉めて鍵をかけてくれていた。パソコンを立ち上げる時間くらいはありそうだ。
手早くパソコンを立ち上げる。パソコンが起動するまでの間、机の引き出しの中を調べた。僕や父に小説を書いていたことを教えなかった兄だ。そのままパソコンにデータが入っているとは考えられなかった。案の定、引き出しの手前に二つ、引き出しの奥に一つ、USBが隠されていた。
奥にあったUSBが怪しいと思い、パソコンに差し込んでみる。画面上に表示されたのは、それなりに量のあるテキストデータだった。
試しに開いてみると、小説らしき文章がそこには記されていた。
当たりだ。
念のため手前にあった二つのUSBも調べたが、こちらは論文や事業で使うデータが入っていた。僕は小説が入っているUSBだけ手にして、他のものは元の場所に戻した。パソコンの電源を切って、洋さんとともに部屋を出る。
「裏からお逃げください。後のことは私にお任せを」
「……洋さんは大丈夫なの?」
「私のことはお気遣いなく」
言い切る洋さんは涼しい顔をしている。僕を庇い立てすれば洋さんの立場はどうなってしまうのだろう。洋さんの凛とした背中を見つめながら、僕は不安を抱いていた。でも、洋さんが心配だと言う資格は僕にはない。この家に帰るのも、後継者に仕立て上げられるのも、嫌だった。財閥のトップに立てるほど、僕はできた人間ではなかった。
僕は兄とは違う。僕は兄と比べて、リーダーに向いていない気弱な性質だった。
とぼとぼと洋さんの後ろを歩いていると、表玄関からなにか言い争っている声が聞こえてきた。
男女の声だ。男のほうは間違いなく父だった。
「だってあなた、呪いにかかった彼女をどうしようもできないでしょう? それとも、いつ死ぬか分からないあの子を酷使して後継者にしたてあげるのかしら」
「自分の娘をどうしようと、それは親の勝手だろう。他人に口出しされる謂れはない」
「それはそう……。そうね」
対する女性の……少女の声は、誰が聞いてもハッとする透明感に満ちていた。喋り方には独特の甘さがあるが、声色は老人のように冷めきっている。少女の声を聞いて、僕は足をとめるしかなかった。
「でも、彼女の人生は残り短いわ。十年も生きられるかどうか分からないの。残りの人生、彼女の好きに生きさせてみたらどう? あなたが蓮ヶ原雪月にさせてあげられなかったことをさせてあげたらいいじゃない」
耳を疑った。僕はこの声を知っていた。
この声の持ち主は、ビアンカだ。毎日彼女の小言を聞いているから間違いない。でも、なぜこんなところに。 そういえばさっき四藤さんがお客様が来たと言ってどこかへ行ってしまったが、その客がビアンカだとでもいうのか。
多分、ビアンカが言っている「彼女」というのは僕のことだ。僕が十年も生きられないとは、なんの話だろう。 ビアンカからそんな事実を告げられた記憶はない。混乱はしていたが、次の会話で僕はいてもたってもいられなくなってしまった。
「あの子は私がもらっていくわね」
「……貴様!」
ビアンカの悪いところはすぐに人を挑発するところだ。ビアンカは特別力が強いわけではなく、寧ろ貧弱で暴力を振るわれたら屈するしかない。一人用の軽いテーブルも持てないわりに、人の神経を逆撫ですることばかり言うのだ。
でもそれは、暴力にたいする恐怖心が薄いことの表れだった。
ビアンカは痛みへの耐性が強い。異様なほど、強い。まるで自分からケガをしに行っているような印象さえ受ける。
僕はそんなビアンカをいつも心配している。だって、痛みに耐えられる人間なんていない。みんな痛みを我慢して生きている。ビアンカが不老不死だからといって、痛覚まで麻痺しているわけではないことも知っている。
だから、自分の身を危険に晒すのは、やめてほしかった。
「……ごめん、洋さん!」
「お嬢様!?」
僕を庇ってくれる洋さんには悪いと思ったが、確認せずにはいられなかった。足音を立てないように表玄関を廊下から覗き見た。広い洋館のロビーには空間があり、十名くらいの団体であれば余裕で入る。床は幾何学模様で彩られており、人影が映るほど綺麗に磨かれている。両開きの玄関扉の前には、冴えた青薔薇のドレスを纏ったビアンカと、ビアンカの腕を掴んでいる父がいた。
「この女狐め!」
「……やめろ!」
理性が僕をとめる前に、僕は叫んでいた。ビアンカはミントブルーの目を大きく見開いて僕を見つめている。僕は震える足で駆け、ビアンカを背で庇った。父の手がビアンカの腕から離れた。
「……なんだ、そのふざけた格好は」
そうして僕は、暗く冷たい目で見下ろしてくる父、空海と対峙することになった。
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