死の偲ぶ

「……マジに行くのか?」

 あるアパートの一角、扉を目の前にして俺は躊躇っていた。

「母さんが処分してなければ、セツの生原があるはずだ。お前も読みたいだろ」

「そりゃあ、そうだけど……!!」

 月晶の生原稿なんて、喉から手が出るほど欲しいに決まっている。だからといって、見ず知らずの他人の家に突撃訪問するほどのコミュニケーション能力と度胸は持ち合わせていなかった。

 俺は今、優斗の実家を前に、菓子折りを手にして立ち止まっている。

 整備も録にされていない、みすぼらしいアパートだった。手すりや壁は錆びついており、老朽化が進んでいる。雑草は生え放題、虫はたかり放題で、今まで衛生面に難のある場所を見たことがなかった俺からすると衝撃的だった。こんなに古く寂れたアパートが実在していることに感動すら覚える。時間があれば写真を撮っていきたいが、さすがに時間がなく、渋々諦めた。漫画の資料になるかもしれなかったのに。

「実際のところさあ……見知らぬ人がいきなり部屋訪問してきたら怖いだろ……」

「まあ、本当に無理そうだったらやめるしかないな。母さんも今日仕事かもしれないし。とりあえず押してみろよ」

「でもさあ……」

 蓮ヶ原さんの手助けをしようと思ったのは自分だった。彼らがそこまで月晶の小説の最後を読みたいというのなら、彼らの覚悟をこの目で見たかったのだ。その上で作品の最後を描くかどうかは、自分が決める。一度乗りかかった船だ。こうやって彼らに付き合うのも悪い気はしなかった。

 だが、自分の絶望的な社交性の無さが、目の前に壁として立ちはだかっているのだった。

「……やっぱやめたいな」

「やけに自信がないな。お前いつも飄々としてるじゃないか」

「お前から見る俺はそんな風に見えてるのか?」

 周囲からは、確かによく「つかみどころがない」やら「常に堂々としている」などと言われる。しかし実際の自分は、人前で口が回らなくなってしまう臆病者だった。注目を浴びると身体が硬直するし、人にかけてやる言葉も見つからない。その姿が返って堂々としているように見えるらしく、つくづく不器用だと自覚してしまう。きっと優斗にも、俺がそんなふうに見えているのかもしれなかった。

「まあいい。……行くか」

 優斗にもそう思われているのなら緊張も少し和らいだ。例えどんなに慌てふためいたとしても、他人からは朴訥としているように見えるのだ。逆にそれを利用してやればいいだけの話だ。菓子折りの袋を持った手に力をこめ、覚悟を決めてインターホンを鳴らした。


 扉の奥から一人分の足音が近づいてくる。どうやら古い外装にふさわしく、壁も薄いようだった。

 鍵が外される音がする。扉が少し開いたかと思うと、そこから硬質な声が聞こえた。

「……どなたですか」

 少しかさついた、女性の声だった。警戒しているのだろう、口調が硬い。突然見知らぬ人間が訪ねてきたらそうなるよなと思いつつ、用意していた文句を言った。

「高校のときに優斗先輩にお世話になりました。十文字蒼夜と言います。知人から、優斗先輩が亡くなったと聞きまして……。せめて線香でもと」

 もちろんこれは全部嘘だ。しかし突然知らない人間が訪問するのは警戒される。なので、優斗と二人で相談して「設定」をつくった。

 俺は高校のときに知り合った優斗の後輩。わけあって転校せざるを得なくなったが、時折連絡を取り合っていた。今回、たまたま同窓会で会った友人が優斗先輩の死を教えてくれた……という設定だ。

 線香をあげに来たと言えば相手も無下にはできないだろう。予想通り、恐る恐るだったが扉は開かれた。

 出てきたのは、やつれた中年女性だった。

 きっとこの人が優斗の母なのだろう。目の下の隈は深く、頬はこけている。顔色も悪く、つい体調を心配してしまう。俺の母は細かったがもっと健康的で、いつも頬に赤みが差していた。この人は唇までも青くして、ひどく心もとない印象を受けた。

「……優斗の友達でしたか。どうぞ」

 声すらも鬱々としていて、覇気がなかった。その陰鬱な雰囲気に圧倒され、内心物怖じしてしまっていた。

「……お邪魔します」

 優斗だって、この女性の前に姿を現したいはずだ。だが優斗は幽霊だ。一般人には姿が見えない存在だ。

 でも、俺のことは、この女性にだって見えているのだ。

「母さん……やつれたな」

 優斗の消え入りそうな呟きを耳にして、やっと部屋の中へ入ることができた。

 部屋の壁はどころどころ穴が空いていて、修繕されていない。部屋の中やシンクは綺麗に片付けられていて、清潔に保っているようだった。部屋数はそれほど多くなく、広くもない。優斗から決して裕福だとは言えない家庭だったと前もって聞かされていたが、想像以上だった。

 女性にかける言葉が見つからず、黙って彼女に案内された。

 部屋の隅の机に、小さな仏壇が置かれていた。そこには生前の優斗の写真が置かれている。高校生頃だろうか。幽霊の優斗よりも若々しかったが、無表情なところは変わらないようだった。

 線香をあげ、手を合わせる。準備していた菓子折りをお供えする。焼いたほろ苦い煙が鼻の粘膜を刺激する。線香の匂いは、畳の匂いと似ているから好きだ。好きではあるのだが、状況が状況なだけに、妙な緊張感を運んでくる匂いになっていた。

「緊張するな。俺がサポートする」

 そんなこと言われたってな。

 文句の一つでも言いたかったが、この場で言ったら完全に変質者になってしまうだろう。写真に映りこんでいる男子高校生から視線を離して、女性に向き直った。


「美由たちはまだ帰ってきてなくて」

 知らない人の名前が出てきて、一瞬肝が冷える。「俺の妹だ」と優斗の落ち着いた声が耳元で聞こえた。

「ええっと……優斗先輩の妹さん、でしたっけ。すみません。あまり家族の話を聞かなかったものですから」

「そうですか。……あの子なら言わないでしょうね」

 小さなちゃぶ台に案内される。なんとかごまかせたようだった。面白いくらい自分の口から出まかせが出てくるものだ。詐欺師の才能があるのかもしれない。

 用意された座布団に座ると、女性が対面になって同じように座った。

「……この度は、ご愁傷様です」

 なにも思い浮かばず、とりあえず改めて挨拶した。俺としては鬱陶しくなるくらい毎日見かける男なのでご愁傷様もなにもないのだが、この人にとって息子は故人だ。どう声をかけるべきか、分からなかった。

 力なく座り込んでいる女性は、未だに大切な息子が亡くなった傷が癒えていないのだろう。対して俺は、まだ大切な人が亡くなるという経験をしていない。俺にその痛みが分かるだろうか。自信は、なかった。

「……優斗とはどのようなご関係で? 優斗の後輩だったと言っておりましたが……」

 なにを言うべきか迷っていると、女性のほうから声をかけてきた。内心安堵しながら、用意していた「設定」を話す。

「高校の頃に仲良くさせていただいてたんですけど、俺、転校しなきゃいけなくなってしまって……。ちょくちょく連絡を取り合っていたのですけれど、突然連絡が途絶えたので、心配してたんです。今回同窓会で高校の友人から優斗先輩のことを知りまして……」

「そうでしたか」

 死んでいた女性の目に、光が一筋煌めいた。一瞬嘘をついているのがバレたと思ったが、どうやら違ったようだ。

「あなたは、どうやって優斗が亡くなったのか知っていますか?」

 そう言われたら、俺は言葉を詰まらせるしかない。知ってはいるが、残された人に「自殺ですよね」なんて軽々しく言えなかった。

「え……と」

「自殺ですよ。しかもただの自殺じゃありません。心中です」

 戸惑う俺に構わず、女性は淡々と事実を述べる。

「私はなにも知らなかったんですよ。あの子がただならぬ恋に悩んでいることを、私はなにも……」

 消え入りそうな声とは対照的に、彼女の目は爛々と輝いている。その矛盾に背筋を凍らせていると、女性は「少々お待ちください」と言って物置から一つの箱を持ってきた。

「あの子の私物です。どうしても捨てられなくて」

 ちゃぶ台に置かれたものは、少し大きめの、セピア色の箱だった。

 百円均一でよく見かける安物の箱だ。レトロを意識してデザインされたその箱の角は、白く汚れている。箱を目の前に置かれた瞬間、優斗が囁いた。

「……これだ。この中にセツの原稿が入ってる」

 手に汗がわいた。この中に目的のものが入っている。どう説得して手に入れたらいいのか。そもそも、なぜ優斗の母は俺にこれを見せたのだろうか。女性の考えが読めなかった。

 女性は躊躇いなしに箱を開ける。簡単に上箱が外された箱の中には、黒く印字された原稿が積み上げられていた。

「……これは?」

「あの子のものではないことは確かです。この家にはパソコンはありませんから」

 優斗が耳元で断言した。

「間違いない。これだ」

 間違いはないのかもしれないが、この後女性をどう説得すればいいか分からなかった。突然この原稿をくださいと頼むのはいくらなんでもおかしいだろう。しかし目の前にあるものを手にいれられないのも困る。

 次の手をどう打とうか考えあぐねていると、女性が箱をそのまま俺に寄せた。

「よかったら、これ持っていってください」

「……なんですって?」

「私が持っていても、しかたがありませんから。然るべきところに持っていってください」

 つい箱を手にとれば、女性はほっと息をついた。少し顔色が良くなっている。この箱の中身の処遇をどうすればいいかずっと悩んでいたのかもしれない。

「読んでみれば分かりますが、とても良い作品でした。これは、私が持っていてもしかたがありません」

「……ですが」

「あなたはこれが目的でここに来たのでしょう? 分かっていますよ。あなたが嘘をついていること」

 さ、と頭から血の気が引いた。一体どこで悟られたのか。 震える拳を膝の上で握りしめる。

「あの子の携帯を見ましたが、後輩からの連絡なんて一つもありませんでしたよ」

「……すみません、俺……」

「いいの。謝らないで」

 動揺しているのに、やはり俺の声は震えることもなかった。この分だと表情にも出ていなさそうだ。震えているのは両手だけだった。背中は冷や汗がびっしりと張りついていて、少し気持ちが悪かった。

「それよりも、どこであの子のことを知ったの? 教えてほしいわ」

 うろうろとしていた視線が、そこでやっと女性の目で止まった。彼女の目には、淡く優しい花が咲いている。なんという名の花だろう。そう思ったときには、言葉が出ていた。

「……俺の大切な人が、優斗さんとその恋人のことを知っていて。それで……その亡くなった恋人が小説を書いていたらしいと聞いて、ここにならあるかもしれないと……」

「……あなたは出版関係の人なの?」

「そういうわけではないですが……一応、漫画家を目指していまして、伝手ならあります。この小説を世に出せるかもしれません」

 漫画家を目指しているという自分の夢が口から零れた。親にすら宣言することなどなかったのに、自然と出た。そのことに驚いて、心臓は激しく高鳴っていた。

 女性はゆっくりと頷いた。

「そう……やっぱりこの小説は、お相手の方が書いたのね……」

「……嫌な気持ちになりました?」

「いいえ。嫌な気持ちなんて……。反対にスッキリしたくらいです。あの子が小説を書けるわけないもの」

 母の投げ捨てるような言葉に、優斗が「ひどいな」と苦笑した。

「誰でも書けるようなものでないことはすぐ分かりました。……それほど、素晴らしい作品でしたから」

 そう言った彼女は、憑き物が落ちた表情をしていた。

 線香の香りは、畳に深く染みついて、消えない。

 優斗の母は、この香りのように優しく、柔らかな女性だった。

「だから、もし本ができたら私にも読ませてくださいね。あの子が愛した人の作品だから……」

「……はい。必ず」

 微笑む彼女に、優斗は手を伸ばして抱きしめた。

 彼女にはもちろん彼の姿は見えていない。それでも優斗は抱きしめずにいられなかったのだろう。

 物悲しくて、綺麗な光景だった。

 親子とは、本来、こんな形をしているのかもしれなかった。……俺には手に入れられないものだった。

「ごめん、母さん……ありがとう」

 優斗の低い声はいつもより揺れていた。

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