潜入
午後三時。
僕は、実家の門の前に立っていた。
新幹線に揺られて青森から東京まで。青森は曇っていたが、東京は晴れ渡った青空がどこまでも続いている。地面には雪のひとかけらもなく、濡れて黒く変色していることもなかった。風は生ぬるく、既に春服を着ている人が多かった。三月でも冷たいやませが吹く青森とは環境がまったく違った。
僕は二人とは別行動をとっていた。優斗さんと十文字くんには、優斗さんの自宅に向かってもらった。優斗さんの家にも兄の作品があるとのことだった。
だから僕は単身、自分の家に帰らなければならなかった。
今日は休日だから、父が家にいる可能性が大いにある。父と出くわす前にどうにかして家に入りたいが、なんといっても財閥の社長の豪邸だ。庭も広ければ家も広い。おまけにセキュリティは万全で、目の前にそびえたった巨大な柵を飛び越える身体能力すらもない。
そうなれば必然的に、正面からぶち当たるしかない……が。
この家に二十年近く住んできた自分から言わせれば、必ずしも隙がないわけではなかった。
門から右に歩を進める。高い白壁の塀に沿ってぐるりと回る。この豪邸の裏は車道はなく、代わりに寂れた小さな公園がある。家と公園の境には雑草や木々が生い茂っている。雑草をかきわけていくと、そこには木の板でつくられた粗雑な階段があった。
小学生の頃、家を抜け出すためにこっそり自作したものだ。壊れるたびに補強し直してあるのでそれなりに固い。階段を壊さないようにゆっくり上がり、塀の向こうを確認する。誰もいないことを確かめてから塀を飛び越えた。
着地をするときもコツがある。足だけで着地するのではなく、身体の全体を使って沈み込むようにする。そうすれば着地の衝撃を幾分か和らげることができる。小さい頃と比べると身体が重くなったなと思いつつ、足は捻らずにすんだ。リュックも荷物を少なめにしているので、派手に音は鳴らなかった。
昔から、盗賊めいたことをするのが好きだった。
泥棒より盗賊だ。幼い頃、人々のために盗みをはたらく義賊が活躍する小説を読んでから、盗賊に憧れを抱いた。物語に出てくる彼らが好きで、よく真似をしたものだ。
裏庭と面しているのは調理室だ。姿を見られないように身を屈めて窓際に接近する。窓から調理室をこっそり拝見すると、コックの姿も見かけなかった。
ここで活躍するのが針金だ。
リュックから針金を取り出し、鍵穴に差し込む。表玄関はオートロックだが、裏の扉は使用人が庭で作業をしやすいために簡単な造りになっている。そもそも門を飛び越えて侵入する者もいないし、侵入者がいればブザーが鳴る仕組みになっている。僕が侵入してもブザーが鳴らないのは、警報システムに僕の姿が登録されているからだ。今の姿だと、兄に間違えられている可能性はなきにしもあらずだが。
この扉は何度もピッキングで開けているから慣れたものだ。ものの一分で手応えを感じた。ドアノブを捻れば、扉はなんなく開いた。
使い古された調理室は、以前とまったく変わっていなかった。
この家の食事は数人の使用人と執事が担当している。母が生きている間は、母がここを切り持っていたらしい。僕は母のことをあまり覚えていないから当時のことは分からないが。
優しい人だったのは覚えているが、それ以上の記憶はない。気がつけば、厳格な父と兄の間でいつも怯えていた。
母代わりになっていた使用人の洋さんも厳しい人だった。洋さんのことを思い出して、少しだけ笑えた。今日会えたら本当は嬉しいのだが、それは無理だろう。この家に侵入していることが発覚した途端、洋さんは父に報告するだろうから。
そうなれば僕の計画はおしまいだ。
父に見つかればこの家に閉じ込められてしまう。兄が亡くなった今、次の後継者をしたてあげるために僕を利用するはずだ。僕は父のことを信用していない。昔から財閥の利益だけを考えている人だった。僕たち兄妹は、そのための駒にしか過ぎなかった。
だから兄は、自分の望んだ生き方ができず、恋人と心中した。
兄は自由を求めたが、束縛から逃げ出すことはしなかった。後継者としての責任感が強い人だったから、逃げるという選択肢はなかっただろう。当時の僕はそのことに気づかず、ただ兄の死を悲観しただけだった。
やはり、父のやっていることは違うと思うのだ。
父が兄にやったことは、過度な期待の押しつけ、そして価値観の否定だった。優斗さんを愛した兄の価値観を全面的に否定し、期待を裏切ったなどと勝手に喚き散らした。僕たちを顧みない父を信用できなかった。昔からああいう人なのだ。
あんな人の後継者になるなんてごめんだ。できることならもう二度と顔を合わせたくない。父の厳つい目を思い出して、唇を強く噛んだ。
調理室を抜ければ、先に続く廊下がある。ワックスで磨かれた床は光り輝いていて、窓の外から入ってくる太陽光が道を照らしていた。兄の部屋へ行くためには二階へあがらなければならない。この長い廊下では誰かと出くわす可能性がある。慎重に行くより急いで駆け抜けたほうがいいだろう。駆け足で廊下を突っ切ったのだが、階段がある曲がり角で知り合いに遭遇してしまった。
衝突する前になんとかのけぞったが、僕の姿を認識した使用人の四藤さんは目を丸くしていた。
「お嬢様!?」
「は、はは……ご無沙汰してます……」
四藤さんは皺の刻まれた頬を硬直させている。それはそうだろう。しばらく帰ってこなかった人間が門も潜らず屋敷を駆けているのだから。
父の側仕えである四藤さんは、皺一つない燕尾服を颯爽と着こなしている。齢七十の古株だ。僕なんかよりも、この家のことは熟知していた。
「お嬢様、なぜここに? さては、また変なところから侵入したのではありませんか?」
「え、えーと……」
「こうしてはいられません。空海様にお嬢様が帰ってきたとお伝えしなければ」
「やめて! それだけはやめて!」
浮き足だつ四藤さんの腕を捕まえて引き止めるが、彼は気に留めることもなく踵を返す。今父に知られてしまっては碧ばら荘に帰れなくなってしまう。ハツエさんの温かいご飯も食べられなくなり、十文字くんの漫画も読めなくなってしまう。
なにより、ビアンカ。彼女の傍にいることは、二度とできなくなってしまうだろう。
あんな喧嘩まがいの邂逅が最後だなんて、嫌だった。
「お父さんには内緒にして! お願い!」
「なりません! 空海様がどれだけあなたをお探しになっていたのか、分かりますか?」
「知らない! どうせ、僕を後継者にしたてあげるためだろう!?」
そう言えば、四藤さんはぐっと息を詰まらせた。事実だったのだろう。思わず自嘲した。
「ほらね。本当の意味で子どもの心配なんかしないんだ。あの人は」
「お嬢様……」
「だから僕は、ここでお父さんに見つかるわけにはいかない」
四藤さんに見つかったのは不運としか言えまい。この家の使用人は皆、父に仕えている。僕や兄ではなく、父を第一に考える人たちだ。特に四藤さんは、先代から仕えている古株だ。僕を見逃すことはしないだろう。
実際、四藤さんは首を横に振るばかりだった。
「なりません。このことは空海様に伝えます」
四藤さんを睨み上げるが、効果は薄そうだ。でもここで諦めるわけにはいかなかった。
もし幽閉されても必ずここから逃げ出してやる。脱走は大の得意だ。何度失敗しても必ずこの家から逃げ出してみせる。そう決意はするが、父と顔を合わせるのはやはり嫌だった。
万策尽きたその瞬間、屋敷にチャイムが鳴り響く。来客が来たのだ。
四藤さんはインカムをおさえ、他の場所にいる使用人と連絡をとっている。
「お客様か。お通ししろ。……なに? そうか。分かった。私が出迎える」
連絡が終わったのか、四藤さんは踵を返しながら僕に指示した。
「お嬢様、そこで待っていてくださいよ。どこかへ行ってはなりませんからね」
駆け足で表玄関に向かう四藤さんの背中は、昔より小さくなっていた。
そうして廊下に取り残されたのは、僕一人。
「……よし」
もうだめかと思ったが、運はまだ僕に味方してくれているらしい。いつまでもここにいては誰かに見つかる可能性があるので、駆け足で階段をのぼる。できるだけ物音を立てないように長い階段をのぼりきった。今度こそ人と遭遇しないように、二階の廊下を角から盗み見る。耳をそばだてても足音は聞こえない。
客人に手数をとられている間に、事を運ぶしかない。僕は二階の兄の部屋の前に行き、ドアノブを試しに捻ってみた。やはり鍵がかかっている。使用人の洋さんの部屋には兄の部屋の鍵があるが、彼女の部屋は鍵が保管されている場所なのでカードロック式なのだ。手癖の悪い僕でもカードロックを解除するのは不可能だ。
幸いにも僕と兄の部屋はカードロックではないので、針金でなんとかなる。ただ、裏庭のドアと違って、兄の部屋の鍵開けは少し時間は必要だった。鍵穴にクセがあり、手こずってしまうのだ。僕は覚悟を早々に決めて、兄の部屋の鍵開けを試みた。
やはりクセはあるが、昔より多少は器用になっているのか、難しいとは感じない。これならすぐ開けられそうだ。三分ほど格闘して、もう少しで手応えを感じると予感した。
しかし、その前に、聞き慣れた女性の声が僕を呼び止めるのだった。
「……お嬢様」
鍵穴を弄る手をとめる。恐る恐る声のしたほうに顔を向ければ、そこには険しい顔をした年配のメイドが立っているのだった。
僕が尊敬してやまない、使用人の洋さんだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます