第三部 いつまでも子どものままではいられない
乖離
「……なんですって?」
次の日、僕は休みにも関わらずビアンカの家に行った。早朝だったので寝ているかと思ったが、彼女は涼しい顔で朝食をとっていた。一人で食べるには広めのリビングで、孤独に食べていた。
一人用の小さな丸テーブルには、クロワッサンとスープ、サラダが並んでいる。本当に使用人が必要なのか疑問に思うほど、ビアンカは家事が得意だった。
クロワッサンのひとかけらを口に放り込む姿は小鳥のように愛らしい。にも関わらず、実用性の高い固めのリュックを背負った僕に怪訝な目を向けている。
「だから、今から実家に行くんだよ。兄さんの小説を手に入れるためにね」
そう言えば、彼女の眉間の皺が更に深くなる。
「……あれだけ渋ってたのに、正気?」
「うん。今なら行けると思うんだ」
「やけに楽観的ね。それとも、誰かに唆されたのかしら」
彼女は嫌味ったらしく微笑んで、僕の背後で体を縮こませている十文字くんを睨みあげた。立っているのは僕たちで、座っているのはビアンカのほうなのに、彼女には威圧感があった。
「あなたも行くの? 十文字蒼夜」
「ま、まあ……。蓮ヶ原さんが心配だし」
「あなたが唆したんでしょう?」
全部十文字くんが悪いとでも言いたげな物言いにカチンときた。確かに実家に行くきっかけは十文字くんの一言だったが、最終的に覚悟を決めたのは僕だ。誰の意図でもない、僕自身が決めたのだ。
僕が、兄の作品を完成させたいと思ったのだ。
類い稀な才能を持つ十文字くんの力を借りたい。そのために、僕はプロットなるものを探しに実家へ帰るのだ。
兄に対しての感情を……「好き」という感情を教えてくれた十文字くんに、賭けてみたかった。
僕自身が、十文字くんの描く兄の世界を見たいと思ったのだ。
「十文字くんのせいじゃない。自分で決めたことだよ」
「さて、どうだか」
説明をしたところで、ビアンカは聞く耳を持とうとしない。ビアンカは普段からとっつきづらいところがあるが、そう簡単に人の想いを無下にしない。だからこんなに渋られるのは予想外だった。
「私は今のあなたが行くのは反対よ」
「なんで?」
「だってあなた、打算があるでしょう?」
「打算……?」
「いい? お兄さんの小説のデータを手に入れるということは、お兄さんのプライベートに触れることでしょう? あなたは兄のことを少しでも知りたいと思っている。あなたは、知らない兄の真相を知りたいと願っている」
確かにビアンカの言うとおりだ。僕は兄のことが知りたい。でもそれのなにがいけないことなのだろう。家族の……憧れていた人を知りたいと思うのは悪いことではないはずだ。
「それがなんだっていうんだ?」
「問題はそこよ。もし望んでいる情報が入らなかったとしたら、あなたは深く傷つくわ」
「望んでいる情報? そんなもの……」
「『そんなもの、無い』なんて、本当に言えるのかしら?」
つららのように突き刺さる言葉を、目の前の少女は紡いでいく。青のドレスを纏った彼女は、氷の女王のようだった。
「例えば、データの中に日記があるとする。日記には普段の生活の様子が書かれている」
「いいじゃん。兄さんのこと知れるし……」
「あなたのことが一行も書いていなかったとしたら、傷つくのではなくて?」
イメージがわかず、思わず首を捻った。
「うーん……そもそも兄さんは僕のこと快く思ってなかったからなあ……。悪口なら書いてそうだけど……」
「そこが楽観的だと言っているのよ、青二才」
座って話を聞いていたビアンカが立ち上がる。そして僕に詰め寄り、不機嫌な顔で僕の額を軽く叩いた。
「あなたはお兄さんに夢を見過ぎているわ。だから、彼の本当の姿を知ったとき、きっと傷つく。吹っ切れているならまだしも、あなたはまだお兄さんを引きずっているわ。私は下手にあなたに精神的なダメージを追わせたくないの。言っている意味、分かるかしら?」
「……僕が傷ついたからって、君になんの関係があるんだ」
「あるわよ? 精神的に負荷がかかると、呪いの発現率も高くなるの。それとも、また苦しみたいの?」
「兄さんのことよりも、父さんと会うことを心配してほしいよ……」
はあ。
僕とビアンカがため息をつくタイミングは同じだった。ビアンカのため息には、呆れのニュアンスが滲んでいた。
「別に、今すぐでなくてもいいのではなくて? もっと落ち着いてから……」
「……それに、『今』と思ったときがそのときじゃないかな。君だって、タイミングがあるって言ってただろ」
「そう」
ビアンカは身を翻し、僕に小さい背を向けた。
「好きにすればいいのだわ」
「言われなくても好きにするよ」
僕もビアンカに背を向け、家を出た。暖房がついていた家の中と比べ、外は太陽光もないせいで風が冷えきっていた。
売り言葉に買い言葉である自覚はあった。どうしてあんなに意固地になってしまったんだろう。ビアンカの言っていたのはもっともなことだ。冷たい風にあてられて、火照っていた脳みそは冷めはじめていた。
「あの……蓮ヶ原さん」
そう声をかけられて、ようやく十文字くんがいるのを思い出した。慌てて十文字くんに振り向いた。
「ああ、ごめん。変なとこ見せちゃったね」
「いや、それはいいんですが……、やっぱり今日行くのはやめたほうが。時間は十分ありますし」
「そ、それはそうなんだけど……」
ビアンカに大見栄をきった手前、引けない自分がいた。能力はないくせに、変にプライドが高いところだけは父譲りだ。そのことを思い出してげんなりする。しかし、今行かなければ二度と実家に寄りつかなくなる予感があった。
生きていると、「今だ!」というタイミングがある。そのときに行動に移せば、良くも悪くも事態は転がっていくものだ。運命力とでも言えばいいだろうか。覚悟を決めたときは、その覚悟に逆らわず、やり遂げたほうがいい。
それを教えてくれたのは、ビアンカなのだが。
「……やっぱり今日しかない。いつまでも逃げてばかりじゃ、優斗さんも成仏できないし。僕は行く。それでいいだろう? 優斗さん」
呼びかければ、すう、と曇り空を背景に、優斗さんが現れた。
優斗さんは難しい顔をして唇を引き結んでいたが、静かに口を開いた。
「……お前がそう言うなら、そうなんだろう」
「……ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちのほうだ」
優斗さんは手を伸ばして、僕の頭を撫でる仕草をする。透明だから感触はないが、じんわりと温かかった。
「お、俺だって、手伝いますから」
戸惑いを隠しきれていない十文字くんは腕を組んで言う。無言で頷けば、十文字くんもそれに倣ってくれた。
「じゃあ、行こう。少し急がないと新幹線に間に合わないからね」
そうして、足早に僕たちは東京へ向かうのだった。
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