月晶
碧ばら荘に帰宅したらハツエさんが夕食を準備して待っていた。
「そろそろ帰ってくる頃だと思ったわ」
「わあ、今日はすき焼きですか」
テーブルに置かれた鍋にはすき焼きの具材が入っていた。醤油ベースの匂いがリビングに立ち込めており、一気に食欲をそそる。ねぎやエノキ、白菜など、多種多様な具材のだしが香る。黒く光る鍋からは湯気が沸き立ち、家特有の暖かさがあった。
コートを脱いで手洗いうがいをし、三人で食卓につく。この三人の時間が俺にとっての至福の時間だ。
今日こそはいいネタを練られそうだ。肉を食らい終わり、いい気分で自分の部屋に向かった。
だというのに、大嫌いな男が部屋にいた。
「……なんでここにいんだよ」
部屋の明かりをつけると、優斗が俺の椅子に座っていた。幽霊のくせに一丁前に足を組んでいる。部屋に自分以外の人間がいるとさすがにぎょっとする。
物憂げな様子ではあったが、俺は彼に用事がないし、彼の話を聞く気にもなれなかった。そんなことよりインプットのほうが先だ。
「どこにいようと俺の勝手だろ」
「一人部屋に無断で入るのはプライバシーの侵害だが?」
指摘しても、優斗は涼しい顔で居座っている。これは部屋から出る気などさらさらないだろう。思わずため息が漏れてしまう。
「そこ使うからどけ」
それだけ言えば、幽霊は椅子から腰をあげた。そういうところは聞き分けがいいのに、肝心なところはまったく言うことを聞いてくれない。この男は頑固なのだ。こうと決めたら絶対譲らない、そんな男なのだと思う。俺は自分の椅子に座り、パソコンの電源をつけた。
原稿は提出した。次のネタを考えなければいけない。
普段なら原稿を描いている最中に次のネタが思い浮かぶのだが、今回はまったく違った。ネタが思いつかない。最近アウトプットばかりしていたせいか、インプットを疎かにしていた。
創作とは不思議なもので、絶え間なく作っているとやがて自分の描きたいものが分からなくなってしまう。そういうとき、俺は原点に立ち返ることにしている。
ネットを立ち上げて、小説投稿サイトを覗く。俺の原点が、そこにはあった。
月晶(つきあきら)。突然姿を消したアマチュアの物書き。
小説投稿サイトのランキングで必ず上位に入る猛者だった。流行のジャンルを扱っていない稀有な物書きだったが、界隈ではカルト的人気があった。月晶は最低三日に一度は投稿していたが、ある日突然ぱたりと投稿をやめてしまった。連載している小説が完結する、あと少しのところでだ。
俺は月晶の小説に救われていた。海や宇宙を題材に扱う月晶の作風は美しく、またエンターテイメント性にも優れていた。自然と娯楽が調和しており、そんな月晶の作品に多大に影響を受けた。アマチュアのままにさせておくのはもったいないと思っていた。
俺はネタに詰まったとき、たまに月晶の未完の小説を読む。
なぜこの物語には続きがないのだろう。その事実が寂しかった。なぜ、未完のまま失踪したのか、俺は知らない。飽きたと言えばそれまでだが、月晶はコンスタントに作品を書き続けられる作家だったのだ。なのに、なぜ。
「そいつだ」
月晶の小説を読んでいれば、背後で優斗が呟いた。そいつってなんだと尋ねようとすると、優斗は俺が尋ねる前に答えた。
「そいつがセツ……美星の兄だ」
耳を疑った。
状況を飲み込めないでいると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。慌ててドアを開けると、蓮ヶ原さんが困った顔をして立っていた。
「ごめんね。優斗さん、来てないかな。全然見かけなくて」
「ああ、ここにいますよ」
「そう。よかった」
内心では優斗のことを心配していたのだろう、蓮ヶ原さんはほっと息をついた。
部屋に案内すれば、蓮ヶ原さんは早速優斗に小言を言う。
「もう! 全然姿を見せないから心配しましたよ! 十文字くんにも迷惑ですし! 帰りますよ!」
蓮ヶ原さんが来てくれるなら全然迷惑なんかじゃないです、と内心思っていたが、口はずっと閉じていた。蓮ヶ原さんの叱責にも動じない優斗は、パソコンの前から微動だにしない。優斗は指でパソコンの画面を指した。
「セツの小説だ」
「え……?」
「あいつ、サイトに小説を投稿してたんだ。月晶って名前でな」
蓮ヶ原さんが画面を覗きこむ。その端正な横顔には困惑の色が見て取れた。
優斗はパソコンの画面から視線を外し、まっすぐに俺を見据える。
「この作品の続きをお前に描いてもらいたい」
「……俺に?」
「この作品の終わりを見届けたいんだ。……どんな手段でも構わない。頼まれてくれないか?」
だから前に、俺に「作品の最後を描いてみないか」なんて妙なことを言い出したのか。自分の恋人である男の遺作を終わらせたい。その心情は分かる気がした。俺だって、読者の一人として最後を見届けたい。
しかし、そう簡単に信念は曲げられなかった。
「却下だ。前も言ったが、他人が作品に介入するべきじゃない。その作家にしか出せない色ってもんがある。俺には、月晶の色は出せない。……俺がこの作品の終わりを漫画で表現したとしたら、それは月晶の作品ではなくなってしまう。……それは、冒涜以外の何者でもない。設定やプロットがあるってんなら、まあ作品をなぞるくらいはできると思うが……」
「十文字くん」
理由を話す俺の名前を呼んだのは、黙ってパソコンの画面を見ていた蓮ヶ原さんだった。
蓮ヶ原さんは俺を見ず、パソコンの画面だけを注視している。この人の心は、俺には向けてもらえない。兄のことを一途に想い続けているこの美しい人は、俺になんて見向きもしないのだ。
そうして美しい人は、俺に酷なお願いをするのだった。
「小説の設定とか書いてあるデータがあれば、描いてくれるんだよね?」
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