穏やかな夜

 あの夜の出来事を、俺はまだ蓮ヶ原さんに言えないでいる。

 あの後、ビアンカに蓮ヶ原さんを預けて先に碧ばら荘へ帰った。それがいけなかったのかもしれない。蓮ヶ原さんの置かれた環境は今までの生活スタイルを変貌させるものだった。

 優斗がまったく見えなかったのに突然視えるようになったのは、十中八九ビアンカがなにか蓮ヶ原さんに施したせいだろう。仕事を辞めてビアンカの使用人になったのもわけがあるに違いない。あの女に弱みでも握られてしまったのだろうかと心配している。

 でも、目の前にいる蓮ヶ原さんはいつも朗らかだ。

 俺もあの夜の出来事を未だに言えないでいるから、お互い様だと思って腹をくくるしかない。

 俺の隣に並んで歩いている蓮ヶ原さんは、帰りによったコンビニでピザまんを買った。口が小さいからか、うまく食べられないでいるようだった。俺も肉まんにかじりつく。

「そういえばアイツはいないんスか?」

「アイツ? ……ああ、優斗さんのこと?」

 肉まんを頬張りながら頷けば、蓮ヶ原さんは咀嚼していたものを飲み込んだ。

「そういえば今日は見かけてないなー。あの人、いっつも神出鬼没だから」

 こういうときこそいてほしいんだけど、とは言えない。蓮ヶ原さんと二人きりになると緊張してしまう。どうでもいいときは絡んでくるくせに肝心なときにはいないのが恨めしい。

 晴れた夜の空には、小さな星が点々と浮かんでいる。

 街灯のせいで見えづらい星は、光の届かない山や海で煌々と輝く。俺たちが歩いているのは残念ながら帰路の住宅街なので星はよく見えない。それでも、微かに見える星の光は俺の目にも届いてくるのだった。

 蓮ヶ原さんは食べ終わったのか、口元を親指で拭っている。今が夜で本当に良かったと思う。蓮ヶ原さんの食べている仕草が、よく見えないから。

 ピザまんについていた薄紙を丸めてコートのポケットに突っ込んだ。俺もなんだかんだ言ってあと一口くらいだ。最後の一口を食べようとする前に、蓮ヶ原さんが唐突に口を開いた。

「……いつもありがとう」

 あまりに唐突すぎて、脳がフリーズした。

「……なにがですか?」

「聞かないでくれるだろ? 僕のこと」

「蓮ヶ原さんのこと、っスか」

「男の格好してる理由、とかさ」

 口の中に残った肉まんのかすが喉につまりかけた。確かに尋ねたかったことではあるが、無理に詮索するわけにもいかない。心の中で一拍数えて、なんとか口から出たのは「ああ」というなんとも情けない鳴き声だった。

「別に、」

 もう一回心臓を落ち着かせるために肉まんの最後のひとかけらを口に放る。咀嚼して飲み込んで、そこでやっと言葉らしきものが出た。

「……聞こえてました? 本屋での会話」

 そう言うと、蓮ヶ原さんは眉を下げて薄く微笑んだ。どうやら図星のようだった。聡香さんも雑なタイミングで話題を振ってきたものだ。蓮ヶ原さんに聞かれていたのはいただけなかった。

「あの……気にしないでください。それぞれ理由があると思いますし」

「うん。大丈夫。いつものことだから」

 結局当たり障りのない言葉をかけてしまった。もう少し気を使ったことが言えたら良かった。こんなとき、自分の不器用さに嫌気が差してくる。口を閉ざして相手の反応をうかがうしか、自分にはできなかった。

 それでも蓮ヶ原さんはそんな俺を咎めることもなく、満天の星を湛えた瞳を俺に向けるのだった。


「つまらない話になるけど、聞いてもらっていいかな」

「つまらない話?」

「僕がなんでこの格好をしてるか、って話」

 それは、と言いかけて口を噤んだ。それは、俺が聞いてもいいのか。それはあなたの柔い部分ではないのか。そう尋ねたかったが、不器用な俺の口から飛び出たのは「いいですよ」というそっけない言葉だった。

 なのに蓮ヶ原さんは笑って「ありがとう」と言う。

 俺はなにも特別なことなんかしていない。寧ろ言葉が足りないくらいだ。いつも不器用で無愛想で、人に伝えるべき言葉の半分も伝えられない。だから両親にも理解してもらえなかった。なのにあなたは、なぜそうやって平然と受け入れてくれるのか。

 そんな蓮ヶ原さんが、やっぱり好きだった。

「もしかしたら優斗さんから聞いてるかもしれないけど、僕には兄がいたんだ」

 実際あの男から内状を否応なしに教えられているので、俺は黙って頷くしかなかった。俺の反応を蓮ヶ原さんは目で確認して、話を続ける。

「兄は優斗さんと恋仲だったんだけど、父に反対されてしまってね。兄の性格上、駆け落ちでもするのかなって思ってたんだけど、自殺してしまったんだ。……二人でね。ショックだったよ。兄は、気丈な人だったから」

 そう言って蓮ヶ原さんは、目を細めて懐かしそうに夜の黒を眺めた。

「僕は兄のことをまったく分かってなかった。だから僕は兄を知るために……償いでもあるんだけど、兄の格好をしてるってわけなんだ。兄の好きそうな服を着て、兄の好きな色を身につけて……。髪もね、長かったんだけど、思いきって切ったんだ」

 蓮ヶ原さんは青のコートを翻す。この色は蓮ヶ原さんではなく、兄の色なのだろう。そのことに一抹の寂しさを覚えた。

 この人も不器用なんだな。

 吐いた息は夜闇に消えていく。

 蓮ヶ原さんが歩いている夜は、清廉だった。

「お兄さんのこと、好きだったんスね」

 言葉は自然に溢れていた。もっとうまい返しがあったのかもしれない。しかし、自分が率直に考えたのは、まさしく今言葉にした感情だった。

 蓮ヶ原さんは立ち止まる。俺も立ち止まる。

 美しい双眸をまん丸に開いて、俺ではないなにかを凝視している。しばらく無言だったが、蓮ヶ原さんは薄く色づいた唇を小さく開いた。

「うん。好きだったよ」

 その震えた声は、胸を突くほどに弱々しかった。

 唇がわなわなと震えている。それでも泣くこともなく、叫ぶこともなく、その美しい人は星を瞬かせていた。

「そうか。……僕は兄さんが好きだったんだ」

 しばらく、夜の静けさが俺たちを覆い隠していた。その間に、蓮ヶ原さんの星は様々な色に変わった。朱、碧、翠、黄色。そしてやがて元の白に戻ると、蓮ヶ原さんは目を細めて俺の肩を叩いた。

「ありがとう」

 そう言った蓮ヶ原さんは、憑き物の落ちた顔をしていた。

 感謝の言葉とその表情がじれったくて、少しこそばゆかった。

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