或る夜5

 俺の疑念が伝わったのか、ビアンカは静かに頷いた。

「信じられない? じゃあ、これを見たら分かるかしら?」

 そう言って、彼女が懐から取り出したのは小ぶりのナイフだった。どうしてそんなものをドレスの下に隠しているのか気になったが、俺が尋ねる隙もなく、彼女は左腕の袖をまくった。その露出した肌を、躊躇いなく斬る。

 うわ、と声が出てしまった。まさか目の前で自傷行為を見る羽目になるとは思わなかった。どぷ、と溢れる黒い血に背筋が凍りつき、ソファの上で思わず仰け反った。対するビアンカは涼しい顔で傷口を見下ろしている。ビアンカに痛覚はないのかと疑った。

「なにやってんだよ……」

「そうじゃないわ。よく見なさい」

 血なんて見たくもない、と悪態を吐きそうになったが、瞬間、傷口からこぼれ出るものが血だけではないことに気がついた。

 薔薇の花弁が、血とともに溢れ出ている。血と同じ色をした赤黒い薔薇の花弁が。

 その花びらは鉄の匂いではなく、微かに花の香りを纏っていた。はらはらと流れる花びらはまるで真っ赤なドレスのようだ。

「薔薇……?」

「まだよ。そのまま視ていて」

 つい食い入るように見つめていると、花びらが突然つるへと変化した。その細長く赤いつるは糸のように彼女の白い肌の上を滑っていく、そしてあろうことか、つるは自然に傷口を縫い合わせていくのだった。

 肌をざくざくと縫い合わせていく光景に、吐き気がこみあげた。

「おげ……」

「あなた、繊細なのね」

「生の縫合施術なんて誰も見たくねーだろ……」

「あら、私は平気よ?」

「俺は平気じゃない」

 そうしているうちにつるが傷口を塞いだ。縫い合わせた傷口は痛々しく、青林檎のような色になっている。

 傷口を塞いだつるは肌と一体化すると、徐々に消えてなくなっていった。

 つるが完全になくなる頃には、傷口すらも消えてしまっていた。彼女の白い肌は傷一つもついておらず、珠のように美しかった。

「これが私の『呪い』」

「呪い……? 傷が治ってよかったじゃないか」

「そうとも限らないわ。何度自殺を繰り返しても生き返るし、おまけに老いすらない。死ぬ方法があるならぜひご教授願いたいわね」

「へえ。面白い話だな」

「さっきの治療、もう一回見たいのかしら?」

「ごめんこうむるね」

 嫌味の応酬をしていたら、後ろで咳払いが聞こえた。振り向けば、しかめっ面の優斗がすぐ傍にいた。

「話を戻すぞ。つまり、美星は呪いにかかってるんだな?」

「ええ、そうよ」

 深刻そうな声音の優斗に、ビアンカはさらりと返す。ココアを一口飲むビアンカの佇まいには老獪さが滲んでいた。

「……あいつがたまに息苦しそうにしているのはそれか?」

「そうでしょうね。多分、海に溺れたときと同じようになっているのだと思う。窒息状態に近いのかしら」

「呪いを解くことはできるのか?」

「残念ながら、呪いを解く方法は今のところないわ。一生ついてまわるものよ。その点で言えば、病気というよりも障害に近いのかもしれないわね」

「……呪いで死ぬ、なんてないよな」

 そこまで深刻な話だとは思っていなかったので首を捻る。しかし優斗の表情を見ていれば冗談ではないなのだろう。

 死ぬ、という言葉が飲み込めない。

 蓮ヶ原さんが、死ぬ? あんなに明るく優しい人が?

 蓮ヶ原さんが若いのも相まって、余計現実離れしていた。

 それでもビアンカは、静かに告げる。

「呪い持ちの若者の大半は三十手前で亡くなるわ」

 その宣告は雷となって俺の心臓に落ちた。

「三十を過ぎても生きている若者は全体の三割にも満たない……。呪いを持ったのが三十過ぎであれば、その分寿命が伸びるけれど。十代で呪いにかかった子は、大抵三十前までしか生きられないわね」

「そんな……」

 呻き声を漏らせば、ビアンカは首を小さく縦に振って、俺たちを見据えた。

「これでも長年の研究のおかげで生存率は昔と比べて伸びてるの。生きている若者は三割だけだと言ったけれど、逆を言えば三割は生き延びられるわ。希望を捨てるにはまだ早い」

 蓮ヶ原さんが、若くして死ぬ。そんな悪夢みたいな言葉は、確かに現実の世界で放たれていた。この言葉が紙面の中だけだったらどんなに良かったか。

 嘘だ。そう心の中で吐き捨てるのに、ビアンカの真摯な声が、耳に響く。彼女の声には、虚構の色が含まれていなかった。

 言葉を失う俺に、ビアンカは囁く。

「彼らの代わりになれたらどんなに良かったか……。いつも思うの。バカらしいでしょう。そう思ったって、傷つくのは自分なのにね」

 ビアンカの言葉はどこか投げやりだった。そして、寂しい人生を送ってきた人間の言葉でもあった。

 俺も、俺も代わってやりたい。漫画しか描けない俺より、蓮ヶ原さんのほうが生きる価値がある。

 でも、果たして代わりになったとして、蓮ヶ原さんは喜んでくれるのだろうか。 答えは否だ。あの人はそんなことを望まないだろう。……多分。

 俺の心を置いて、暖炉の火は燃え盛る一方だった。火に照らされていたホットココアは生ぬるくなっていた。

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