或る夜4
「お前には俺が今まで見てきたものの一部を見せてる。そんなに怖がるな」
「……怖がってはいない。わけがわからないだけだ」
声が出せないものと思っていたが、さらりと言葉が喉から出てきた。優斗は満足げに頷いた。
「そうか。逞しいな」
「……こいつは誰なんだ?」
目の前の少年について尋ねると、優斗はやはり懐かしそうに目を細めるのだった。
「俺の恋人だ」
「ふうん。じゃあ俺は、お前のどうでもいいノロケに無理矢理当てられてるのか。いい迷惑だな」
「……俺の恋人兼美星の兄貴だぞ」
「……ああ、そういうことか」
つまりこの男は、恋人の妹が心配で傍についているのか。はんと鼻で笑って、嫌味のひとつでもぶつけてやることにした。
「恋人じゃなくて、その妹に憑いてるなんて、薄情もいいとこだな」
「それは仕方のないことだな。こいつはもう死んでるから、憑きたくても憑けない」
どういうことだと問おうとしたが、「え」と情けない母音しか出てこなかった。優斗を見やるが、彼は傷つくそぶりも見せず、涼しい顔をしている。それでも、自分は今言ってはいけないことを発言したのだ。
今更謝ることもできなかったが、優斗は間髪を入れず言った。
「こいつと俺が死んだところを、見たいか?」
そう言う優斗はなんでもないことのように平然とした顔つきのままだった。あまりにも感情の見えない目をしていた。はじめてこの幽霊に薄ら寒いものを感じた。
この男は、俺が考えている以上に怒っているのかもしれない。俺が、無遠慮な嫌味を言ったから。
ど、と血潮が唸る。右手で胸を抑えるが、激しく打つ心臓は収まらなかった。その想いは、恐怖からくるものではなかった。
またやってしまった、と思った。
俺はこの幽霊が嫌いだ。いつも気遣わしげな視線で俺を見るその目が大嫌いなのだ。だから話もしたくなかったし目も合わせたくなかった。いつも遠くを見るような目で俺を見るのが、気に食わなかった。
でもだからと言って、傷つけていい理由にはならない。
「なんで……なんで蓮ヶ原さんじゃなく俺なんだ。俺が、視えるからか?」
喘ぎながら問えば、優斗は滅多に動かさない眉を少しひそめて、神妙な声で返した。
遠くを見るような目が、いつまでも俺を見ている。
「それもあるが……少しセツに似ているから、かな」
「……この人に?」
俺は改めて目の前の美しい少年を見た。少年の目鼻立ちは整っていて、まるで繊細な造りの人形のようだ。到底、俺が彼に似ているとは思えなかった。
「アンタの目は節穴か?」
「お前、貧弱そうに見えて辛辣だよな……」
ああ、またやってしまった。口ごもっていると、優斗は不器用に微笑んだ。
「容姿じゃない。人間としてのあり方だ」
「……人間としての、あり方?」
「ああ。セツが心の底から自由に生きていけたら、お前みたいになったんだろうな……という予感だ」
「なんだ、それ……」
「セツは、親から役割を無理矢理押しつけられて、完璧にならざるを得なかった。本当はやりたいこともあったはずなのに、それらを投げてひたすら完璧を演じ続けた。俺から見たセツは歪なやつだったよ。そんな弱さにつけこんで……俺とセツはトクベツになった」
彼がそう唱えた瞬間、思念の奔流にのまれた。どんどんと自分の意思ではない声が流れてくる。恐怖を感じる暇すらなく、それをただ受けとめるしかなかった。
声自体はそれほど大きくもなければ量も少ない。けれど、感情の質量に身体がひしゃげそうになった。
愛しい。そんな、単純で明快なただひとつの感情に、俺は潰されかけている。
俺が蓮ヶ原さんに向けている感情と、少しだけ似ていた。
【なぜお前が死ななければならないのか。なぜ俺を呼んでくれないのか。苛々する。お前とともにいると決めたんだ。地獄でもどこでもいい。お前が安住できるところへ、俺も行きたい】
人を恋焦がれる声でいっぱいになった。
自分が自分でなくなるような感覚だった。そうだ。俺は愛していた。愛していたんだ、お前を。だから一緒に死んでやった。一緒に、冷たい海に溺れて死んだのだ。
「……人でなしなやつだと思っていたんだが、優しいな、お前は。やっぱり、俺とセツの死は俺だけのものにしておこう。
巻き込んで、すまなかった」
優斗の沈痛な謝罪が、重かった。
すまない。感情を共有してやれなくてすまない。俺は、俺は弱い人間なんだ。アンタたちに見出されるような人間じゃない。ごめん、なにも分かってやれなくて、ごめん。
突然、凛とした少女の声が世界に響いた。
「……なにをしているのかしら?」
その声は、湖に広がる波紋のように、優しく反響した。
気がつけば、俺は廊下に倒れていた。一瞬頭が混乱する。今まで視ていた光景は、やはり幻影だったのだろう。
俺の目の前に少女は立っていた。小柄なはずなのに、やけに大きく見えた。彼女の堂々とした佇まいがそうさせているのだろう。反対に、少女に睨めつけられた優斗は、上背を丸めて黙っていた。
「あなたみたいな人が人間に干渉すればその人間は衰弱してしまうわ。あの子があなたに憑かれても平気なのは、霊的なものの影響を受けない体質だからでしょう。彼みたいな、修行もしていない繊細な人間に干渉するべきではない。あなたは分別を弁えられる魂だと思っていたのだけれど?」
「すまない。言い返す言葉もない」
「賢明ね。……あなた、大丈夫?」
突然話しかけられ、言葉が詰まった。起き上がりながらなんとか頷けば、少女が手を伸ばしてくる。振り払う気力もなく、口だけで拒んだ。
「大丈夫だ……問題ない」
「そう……強いのね、あなた」
俺は強くなんてない。今だって、声がみっともなく震えている。霞む視界を振り払うように目元を拭えば、生温かい液体が手に付着した。
気づかぬうちに涙を流していた。
「着替えが終わったから中に入って」
少女に促されて部屋に入る。蓮ヶ原さんの青かった顔色は、先程見たときよりはマシになっていた。暖炉の傍に置かれた一人分のソファに案内され、そこで休息をとることにした。
後からやってきた少女の手には白いマグカップが二つ揃えられていた。そのうちの一つを差し出され、躊躇せずに受け取った。マグカップの中にはホットココアが入っていた。ココアとミルクの甘い香りに肺が満たされる。マグカップの容器は熱く、さっきまで寒い廊下にいた自分の身体が温まっていった。恐る恐る口をつけると、やっぱり熱い。ちびちび飲んでいたら、反対側のソファに腰かけた少女が俺の顔を覗きこんできた。
「改めて自己紹介させて。私はビアンカ・バートウィッスル。まあ、ハツエからいろいろ聞いているでしょうけど」
確かにハツエさんと蓮ヶ原さんはなにやら喋っていたかもしれないが、話半分で聞くことも多いから名前までは把握していなかった。俺のイメージでは、「外国から越してきた謎の女」だった。彼女が手を差し出してきたので、慌てて握り返した。小さくてふんわりとした、花弁のような手だった。
「……十文字蒼夜」
名前だけぶっきらぼうに言えば、ビアンカは手を離した。そして俺と同じようにホットココアで息をついて言う。
「あなたは『呪い』の存在を信じる?」
「呪い……?」
「『呪い』と聞いて、あなたはどんなものを想像する?」
突然の質問に、つい頭からひねり出して考えた。
「うーん……やっぱり、丑の刻参りとかじゃないか?」
「自者から他者への働きかけね。確かにその手の『呪い』は数多くある事例だわ。ただ、彼女の『呪い』はそれとは違うものよ」
「呪い? 蓮ヶ原さんは呪われてるのか?」
「厳密に言えば、他者からは呪われていない。彼女は、自分自身を呪っているの」
マグカップを小さなテーブルに置いた彼女の指の爪が、暖炉の火を映している。海の匂いが、ココアの香りを打ち消していった。
「私が扱うのはそういった類の呪い……。強い罪悪感や恐怖を植えつけられた者が発症する呪いよ」
「それは……精神疾患とはどう違うんだ?」
「『呪い』の場合は、現実ではありえない奇天烈な現象が起こるわ。あなたにはよく『視える』のではなくて?」
確かに、倒れている蓮ヶ原さんを見たとき、周囲に魚が泳いでいた。周りに水場などない、夜空の下の住宅街でだ。確かに物怖じはしたが、美しい光景だった。あれが呪いだとは信じられない。
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