或る夜3
「……え?」
思わず聞き返す。二人が俺を誑かそうとしているのか疑ったが、深刻そうな二人の表情に、嘘だと叫ぶことすらできなかった。
俺はひたすら困惑していた。確かに、蓮ヶ原さんは男性にしては小柄で線も細かった。声もハスキーだが野太いわけではない。でも、そういう人なのだと単純に考えていたのだ。
蓮ヶ原さんが男だろうが女だろうが、俺には関係なかった。性別を度外視するほど、蓮ヶ原さんの内に潜む星に惹かれていた。
遠くでいいから、ずっと眺めていたいと思える人なのだ。俺にとっての蓮ヶ原さんは。
そう思っていたのに、俺はひどく動揺した。性別なんてどうでもいいと思っていた。だけど、蓮ヶ原さんが女性だと知って、俺は混乱している。
女性なら良かったじゃないか。これで性別に悩むことなく恋焦がれることができる。世の中の人たちはそう言うのかもしれない。それでも、うまく受け取ることができなかった。
「……外に出てるから呼んでくれ」
二人の顔を見れず、部屋を出た。
廊下は冷え切っていて、体の芯から凍っていきそうだった。扉のすぐ横の壁によりかかって、深呼吸をする。冷たい空気が刺さるせいで肺が痛い。しばらく幽鬼のように立ち呆けていたが、不意に力が抜けてずるずるとしゃがんだ。
俺は、蓮ヶ原さんのことをなにも知らなかった。
蓮ヶ原さんのことをなにも知ろうとしなかった。遠くで眺めているだけで良かった。だからなにも知らないでいても問題はないはずだ。ないはずなのに、胸が痛い。
半年も一緒にいた俺より、つい最近越してきた少女が先に事実に気づいた。
それはやはり、俺が蓮ヶ原さんを知ろうとしなかったからだった。自分でも知らず知らずのうちに距離をとっていたのだ。
悔しかった。悲しかった。他人にたいして貪欲になれない自分に、嫌気がさした。
知らないことは、罪だ。
知ってて良いことは百万とあるが、知らなくて良いことなんてない。知ってはじめて理解することはこの世界にたくさんある。俺は、蓮ヶ原さんのことを好きだと思っておきながら、理解を示そうとしなかったのだ。
昔から、俺は不器用な男だった。
幼い頃から人の感情が手に伝わるように理解できた。でもそれは、いいことばかりではなかった。感情の中でも、特に悪意は敏感に感じ取ってしまった。
きわめて俺自身が内向的なのも相まって、いつも事態はより深刻になっていくのだ。そうしていくうちに自分の殻に閉じこもるようになり――今このザマだ。
他人が俺を理解してくれないから、俺も他人を理解しない。そんなスタンスで生きてきた。しかしそれは蓮ヶ原さんにも適用させることだったのだろうか。
蓮ヶ原さんは、いつも俺を気にかけてくれていた。
俺が他人に隔てる壁を壊さないように笑いかけてくれる、そんな人だった。
そんな人に俺はなにもしてやれない。……自分から壁を壊すこともできない。蓮ヶ原さんへの申し訳なさで、全身がつぶされてしまいそうだった。
「――おい」
頭上で声が聞こえた。落ち着いた低い声は幽霊の男のものだった。
「……なんだよ。こっちに来て大丈夫なのか」
「俺があっちにいたら問題だろう」
「守護霊なのにか?」
「あいつの守護霊なんかじゃないさ」
守護霊じゃなかったとしたら、確かに問題だ。しかも普通の幽霊とは違い、意思の疎通が図れる。普通の人間と変わらない価値観をしているのであれば、着替えているところに居座ったりしないだろう。
「俺はもっと……面倒なやつだ」
「……怨霊か?」
「それに近いかもしれない。安心してくれ。美星に危害は加えない。というよりも、『加えられない』」
「……蓮ヶ原さんになにをする気だ?」
物騒な話題に、床に膝を立てて警戒する。男は肩を竦めて、眉ひとつ動かさなかった。
「俺から美星になにかすることはできない。俺自身が美星になんの恨みも持ってないからな」
「でも、アンタさっき、怨霊って」
「ものの例えだ。俺には無念がある。その無念が俺を現世に縛りつけてるんだ」
彼はそう言って、少し遠くを見た。俺の背後に景色でも広がっているのだろうか。望郷の念を滲ませた目が、静かに俺を見た。
「……見せてやろうか?」
すぐ近くに男の目があった。
まずい。そう思った瞬間には唇を塞がれてしまっていた。幽霊相手だから感覚はない。それでも、心を許していない相手に唇を奪われるのは不快極まりなかった。だから幽霊と目を合わせるとろくなことにならないのだ。
相手は実態がなく突き飛ばせない。そのせいで思いっきり後ろに仰け反るしかなかった。勢いよく壁に頭をぶつけたが、そんなのはお構いなしだ。とにかくこの男から逃れられたらそれで良かった。
文句を言おうと口を開いて息を吸った。途端、目の前の景色が突如として変わった。
「……?」
突然すぎて声すら出せなかった。目の前に現れた美少年は、退屈そうに窓辺で頬杖をついている。それすらもまるで絵画のようで、現実感がなかった。
俺が視ているものは、幽霊の男ではなかった。
学校の図書室だろうか。少年の他にちらほらと制服を着た生徒がいる。少年も例に漏れず、制服の白い半袖シャツを着ていた。彼の座っているところだけ、窓から日光が差し込んでいた。太陽の粒子がきらきらと白い肌の上を滑っていく。シャツから覗く白い首筋が、やけに艶かしく見えるのだった。
その少年は、奇妙なことに蓮ヶ原さんに似ていた。
高校生くらいなのか、中学生に見られる幼さはあまりない。細身の身体は未成熟で、少年の印象をより中性的にしていた。そのせいか、余計蓮ヶ原さんに似ていた。闇色の髪も、陶器のような白い肌も、そっくりだ。ただ、蓮ヶ原さんと違い、顔色は非常に悪く、目にも光が宿っていなかった。
夜の闇を圧縮したような目だった。
この世のなにもかもに絶望しきった目だ。こんな悲しい目をした人は、ごく稀に見かける。彼はその絶望の色を窓の外に向けて、退屈そうにしていた。実際、退屈なのだろう。
勉強中だったのか、机の上にはノートと教科書が広がっている。太陽に照らされたノートの白が目に痛かった。
【……なんて美しい人だろう。】
「……!?」
ざり、と思考が頭の中に入り込んでくる。この思念は自分が考えたものではなかった。思わずこめかみを抑えるが、思念はゆっくりと体に馴染み、溶けていくのだった。
この光景は幽霊の男の仕業か。男の記憶を無理矢理見るはめになっているのかもしれない。
だから目を合わせたくなかったんだ。俺みたいな「視えるやつ」はすぐに影響を受けてしまうから。
少年はこちらを見上げた。深い闇を湛えた瞳が、一瞬敵意に燃え上がった。しかし、それはとってつけたような笑みに塗りつぶされたのだった。
わざとらしい笑顔だった。
『やあ、一位おめでとう。欅野優斗くん』
聞いたことのない名前に首を捻るが、この映像は俺の意思に関係なく進むようだ。この慇懃無礼な少年には俺が見えていないのかもしれない。その証拠に、話はどんどん進んでいくのだった。
『君、すごいじゃないか。確か中間考査も一位だったよな? 頭がいいんだね』
にこりと笑う少年の顔は、どこか歪だ。嫌味を感じさせない穏やかな口調だったが、ひどくアンバランスだった。
『そういうお前も、いつも二位だろう。俺とたいして変わらない』
すぐ近くで、低い声が聞こえた。この声には覚えがあった。幽霊の男の声だった。やはり、俺が視ているこの光景は男が体験したものなのだろう。俺はあの男の目で少年を見ているのか。
男……欅野優斗の言い方は、人によっては嫌味に聞こえかねなかった。案の定、少年の形のいい眉はつり上がった。
意外にも、彼が反応したのはテストの順位ではなかった。
『……君と僕が、たいして変わらない、だと?』
彼のひりついた清廉な声は、僅かに戸惑いで揺れていた。
『ああ。俺もお前も頭の出来は同じくらいだろう。同じぶん努力すれば同じくらいの点数になる。……まさか、たかが一点の違いで自分のほうが劣っていると思ってるのか?』
少年は小さな口をあんぐりとあけていたが、やがて無言で口を閉じ、ひどく思いつめた顔で睫毛を伏せた。
『それでも……一点は一点だ』
なぜそこまで点数にこだわるのだろう。なにか理由があるのだろうか。俺なんて数学でしょっちゅう赤点をとっていた。優斗が一位であれば、彼は二位なのだろう。それだけでも十分すごいと思うのだが。
【こいつを、俺のものにしたい】
ふつ、と湧いて出てきた思考に頭が痛む。思念の量こそ多くはないが、あまりにも重い執着だった。心臓がずしりと重くなる。なぜ一目見ただけでこんな感情が湧き上がってくるのか、俺には想像もできなかった。
「お前はそんな感情を美星には持たなかったのか?」
突然、はっきりとした声が聞こえた。声のしたほうへ視線を巡らせば、すぐ隣に優斗が立っていた。
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