或る夜2
少女の家の中は外装のイメージと同じく、西洋趣味の古い造りをしていた。そこまで広くはないようだが、狭いわけでもない。豪奢なドレスを身に纏った少女が余裕をもって廊下を歩けている。洋館の内装をあまり見たことがないので、少しだけ心が躍った。
廊下は、橙の電球で照らされている。少女に案内された部屋へ蓮ヶ原さんを運び込んだ。そこには火が灯された暖炉と、客人用の大きなベッドがあった。そこへ蓮ヶ原さんを寝かせると、途端に緊張がほどけ、自分の息があがった。普段運動をしないせいで体力がないのだ。
暖炉と、洋燈の仄かな灯だけが蓮ヶ原さんの蒼白な頬を照らしている。
胸が痛かった。それは、痛ましい蓮ヶ原さんを見ているからなのか、息があがっているからなのか、俺には判別できなかった。
ぜえぜえと息を切らしている俺に、あの高慢な女は命令する。
「そしたらこっちへ来なさい。あなたにはいろいろと運んでもらうわ」
「はあ!?」
「幽霊のあなたはその子を見てて、なにかあったらすぐに呼びなさい。さあ行くわよ」
今度は駆け足で少女に引っ張られる。男を振り返ったが、眉尻を下げて肩を竦めていた。幽霊とはいいご身分だ。
少女は自分の腕を引きながらちょこちょこと走っていく。そんなドレスでよく走れるものだ。
ある部屋の前で待っていなさいと言われ、しばらくドアの前で待つ。部屋に入っていった少女が出てくるまで、俺はわけの分からない今の状況を最低限理解しようと努めた。
なんだか面倒事に巻き込まれてしまった。
俺に助けを求めてきた男の幽霊。俺が「視える」ことを気味悪がらない隣人の少女。
そして、周囲に魚が漂っている、意識の戻らない蓮ヶ原さん。
霊的なことに巻き込まれているのは把握しているが、幽霊の視えない蓮ヶ原さんがなぜ当事者になっているのか、まったく理解ができない。そもそも、蓮ヶ原さんの周りにいるあの魚たちは一体なんなんだ。半年近く蓮ヶ原さんと寝食をともにしているが、あんなのが視えたのははじめてだった。
蓮ヶ原さんに一体なにが起こっているのか、心配になった。
なんとか蓮ヶ原さんの力になってやりたいが、俺には霊的なものを祓う力は持っていなかった。ただ、「視える」だけなのだ。「視える」こと以外にはこれといった特徴もない、ただの一般人なのだ。
俺にできることなんて、ない。
両手でジーンズを握りしめていれば、やがて少女がなにかを両手に携えて部屋を出てきた。
「これを持ってちょうだい」
そう言って渡されたのは、縦長のドームだった。
上には空気口のようなものがある。除湿機みたいなものだろうか。ドームの中にはなにもなく、ただ向こうの景色を映し出している透明な筒でしかない。それなりにサイズも重さもあり、確かに少女一人で運ぶのは難しそうだ。だからといって俺をこき使うのは癪にさわるが。
それから部屋に戻るついでに少女は洗面所に寄り、タオルとたらいを持ち寄った。たらいには湯をはっていた。建物の内観そのものが暗いせいで、湯からのぼる白い煙はよく見えなかった。
廊下はひどく冷え切っていた。外はふぶいており、この洋館にも雪の匂いが充満しているのだった。
部屋に戻れば、ベッドサイドにドームを置けと指図される。電気で動くと踏んでいたのだが、コンセントがどこにもないことに気づいた。少女がコンセントのないそれのスイッチを入れれば、ドームの内側が無機質なライトに照らされる。
ドームの下にある引き出しに、小瓶に入った数種類の液体を入れている。なんの液体なのかはまったく判別がつかない。金の粒子が混ざっている深い蒼色の液体だけが目に焼きついた。小瓶の中で揺らいでいるその色は、蓮ヶ原さんの目の色とよく似ていた。
少女はマッチを取り出して火を灯す。ささやかな火がついたマッチを、液体を入れた更に下の引き出しにいれた。
ドームになにも変化はない。透明な筒が向こう側の壁を映しているだけだった。
しばらく少女はドームの様子を眺めていた。小さな背中はドームの前で微動だにしない。
そして一分にも満たない頃、変化は突如として起こった。
ドームの中が、下のほうからじわじわと色づいてきた。深い蒼は水に溶かした絵の具のようにドーム内を満たしていく。ドームの上部からは、微かに水色の煙が立ちのぼっていた。
部屋内の匂いが徐々に変化していく。最初はなんの匂いか判別できなかったが、やがて唐突に理解した。
「これは……海か」
そう呟いたのは、俺ではなく幽霊の男だった。その声は懐かしさに染まっていた。
それは、太平洋が運んでくる潮風の匂いに似ていた。
幼少時から海に近い辺鄙な場所で暮らしている俺が間違えるはずはなかった。この独特な水の匂いは海のものだ。漣の音が耳元で聞こえてきそうだった。
蒼の水に満ちたドームの中では、様々な魚が泳いでいる。それこそ、蓮ヶ原さんの周りを泳いでいた熱帯魚からシャチまで。そういえばあの魚たちはどこに行ったのだろう。蓮ヶ原さんの周囲を確認したが、あれほど泳いでいた無数の魚たちはいなかった。その代わりに、蓮ヶ原さんは穏やかに呼吸していた。
「その機材は一体なんなんだ……?」
その問いかけに、少女は振り向いた。
「そんなことより、その子を着替えさせましょう。風邪をひいてしまうといけないわ」
そう言って、少女は重たいドレスを引きずってテキパキと行動をはじめた。俺の質問は総無視かよと思いつつ、着替えを手伝うことにする。いつまでも濡れた衣服のままでいるのは良くない。蓮ヶ原さんのコートを脱がすのを手伝っていると、幽霊の男はしかめっ面で俺に話しかけた。
「……お前は部屋を出ろ」
「はあ? なんでだよ。アンタ、手伝えないだろうが」
そんな話をしている合間にも、黒のカーディガンを脱がした。要領よく脱がしているが、白のシャツを脱がそうとした少女の手が止まった。
「待って」
「……どうした?」
少女は「ごめんなさいね」と謝りながら、蓮ヶ原さんの胸部に手を軽く押し当てた。そして、一度幽霊の男を見上げた。
「なぜ先に教えなかったの」
男は緩く首を横に振った。
「別に隠しているわけじゃない。……が、こいつの意地もある。俺からはなにも言えん」
「それとこれとは話が違うわ。今は療養させなくてはいけないの。性別はそのために必要な基本情報よ」
二人の話に、俺だけが置いてきぼりだった。思わず横から口を挟んだ。
「おい、なんの話してんだよ」
困惑している俺を、少女は下から睨みつけた。そして幽霊の男と同じように首を軽く横に振った。金の髪がさらさらと音を立てた。
「この子……女の子よ」
信じられない単語に、頭が真っ白になった。
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