或る夜1
蓮ヶ原さんが女性だと知ったのは、真冬の夜だった。
バイト帰りに突然雪が降ってきた。バイクは持っているが、冬場はあまり使わない。免許取りたてで、事故を起こさずに雪道を走る自信が俺にはまだなかった。
途中までバスに乗っていたからよかったものの、碧ばら荘に傘を忘れて出てしまったので降りてからは駆け足で進んだ。頭に雪が降り積もる。すぐに壊れるから買っていなかったが、折りたたみ傘の購入に踏み切るべきか。いや、傘を買う暇があるなら漫画を買ったほうが。そうして考え続けていると、暗澹たる息が口から漏れてしまった。
その頃、俺は一人悩んでいた。漫画のネームが没になることが多く、評価を気にしない俺でもさすがに自信がなくなってきていた。俺の漫画はそんなに読ませられないものなのだろうかと落ち込んでいたら、ネタが思い浮かばなくなってしまったのだ。いわゆる、スランプというやつだ。
実家を出てきた手前、ここで弱気になっている場合じゃないのに、それでも立ち止まってしまう自分がいた。元々一人で気ままに描いてきた創作人だ。人に読ませることがいかに難しく、責任が必要なのかを、ひしひしと感じていた。
そんなことを考えながら帰路を走っていると、見覚えのある男がこちらに向かって飛んできていた。
比喩じゃない。文字通り、「飛んできた」のだ。
その男は背丈はでかいが身体は透明で、当たり前のように宙に浮かんでいる。毎日俺が目を合わせないようにしている幽霊の一人だった。守護霊なのか、いつも蓮ヶ原さんの後ろをついてまわっている。細身だがガタイは良く、生きた人間だったら間違いなく関わりたくない目つきをしていた。男はいつも俺と話したそうにしていたが、徹底して無視を決めこんでいた。声をかけても見ないふりをした。幽霊と話してろくな目に合ったことはこれまでだって一度もない。俺がそうするのは自衛に他ならなかった。
その男が、焦った様子で俺のほうにまっすぐ向かってくる。彼が蓮ヶ原さんの傍を離れるのは珍しかった。それでも、習慣づいたくせはすぐには変えられない。いつものように無視をしようとした俺に呼びかけてきた。
「助けてくれ! 美星が倒れた!」
蓮ヶ原さんの名前を聞いた瞬間、俺はついその幽霊と目線を合わせてしまった。
「……なんだって?」
内心、「しまった」と思った。幽霊と話して、あまつさえ目線を合わせてしまうなんて、ほとんど自殺行為だ。いざとなったら神社に駆け込もうと警戒しながら男の様子を伺う。しかし、焦った顔の男は俺になにをするでもなく、背中を向けた。
「こっちだ! 俺じゃああいつを抱き起こせない。頼む!」
必死な形相の男に逆らえず、俺は走ってついていくしかできなかった。罠なのではないかと思ったが、こいつはいつも蓮ヶ原さんの傍にいる。実際、住宅街の細い道の端に、蓮ヶ原さんは倒れていた。
街灯に照らされ、雪の道に倒れた蓮ヶ原さんに、傘をさしている影がひとつ。
その影は小柄だったが、衣類は体に似合わず大きかった。近世の英国貴族の令嬢が着ているような紫の豪奢なドレスを身にまとっていた。長い金糸の髪は、白い街灯に照らされて淡くくすんだ色になっていた。少女は青の傘を横たわった蓮ヶ原さんにさして、雪から守っていた。あの傘の色は知っている。あれは蓮ヶ原さんのものだ。
ドレスが汚れるのも構わず、少女は雪の上に膝をついて蓮ヶ原さんの顔色を確認している。俯きがちのその顔には陰がさし、白色の街灯が少女の肌を更に白く照らしていた。
背筋が凍った。幻想的な光景だったが、あまりにも現実味がなさすぎた。
星のような蓮ヶ原さんに寄り添う精巧な造りの人形。雪の冷ややかな匂いは、死を連想させた。
そこで俺は気がつく。この前蓮ヶ原さんが文句を言っていた近所の外国人は、この人形なのだと。
「ちょうどいいところに来たわね」
立ち止まった俺を見上げた少女は、ゆっくりと腰をあげて蓮ヶ原さんを指さした。
「運びなさい」
「……はあ?」
「私の力じゃその子は運べないのよ。私の家でいいわ」
「……そんなこと言ったって」
命令口調が癇(かん)にさわったのもあるが、蓮ヶ原さんに触れるのを躊躇する理由があった。
無言で蓮ヶ原さんを見下ろす。彼女の周りには、ありえない生き物が漂っているのだった。
無数の魚が、空中を泳いでいた。
言葉を失った。俺は蓮ヶ原さんの周囲に魚が泳いでいるのを、一度足りとも視たことがなかった。小さな熱帯魚みたいなのもいれば、大きなシャチもいた。こんなにも命に満ちた光景なのに、鮮やかな死の海が彩られていた。
真っ黒な闇を映し出した、夜の海。
魚たちをかき分けて蓮ヶ原さんを抱き抱えるのは、至難の業に見えた。
「なにしているの、早くしなさい」
少女に急かされるが、足が竦んで動かなかった。
「……あんたには、視えないのか?」
俺のすぐ隣で浮かんでいる男に尋ねたのだが、返答したのは男ではなく、少女だった。
人間味のない美貌に、神妙な想いを覗かせて。
「……そう。あなたには『視える』のね」
少女は、正しく俺の言葉を受け取っていた。
驚いた。今まで俺の視ている世界を正しい意味で受け取った人間はいなかったからだ。
少女の囁く声が、死海に響く。
「私には匂いしか分からないの。腐敗した魚の匂いしか……。だから私には視えていないのよ。魂は視えても『呪い』は視えない」
少女は男に視線を投げ、そして俺を睨んだ。瞳の色は暗くてよく見えなかったが、強烈な意思の光が差し込んでいた。
「だからといって、倒れている彼女を見過ごすわけにはいかないわ。この子、はやく処置しないと死ぬわよ」
「……死ぬ? そんなに深刻なことなのか?」
「この子、うまく呼吸ができていないの」
溢れ出る唾液を飲みこんだ。死の匂いと混ざって、なんだかしょっぱかった。広い海の中で、傘をさした少女は立っていた。
「さあ、はやく」
手を握りこんで、唇を噛む。大丈夫、魚には触れない。倒れている人間を助けないでどうするんだ。そう思いこむことで、恐怖心を無理やり抑えつけた。
倒れている蓮ヶ原さんに近づく。シャチが大口を開けて近づいてきたが、よく見れば透けていた。手を伸ばしてみると、触れることすらできず、すう、と俺の正面を通りすぎていった。ほっと息をついて、蓮ヶ原さんの腕を首に回し、なんとか抱き上げる。本より重いものを持つことがあまりないため、痩せている蓮ヶ原さんを少女の家に運びこむのは一苦労だった。
その間、一切少女は手伝おうとしなかった。
反対に「あなた、見た目の通り貧弱なのね」などと嫌味を言われる始末だ。嫌な女だ。蓮ヶ原さんを助ける手前おとなしく従うが、本来ならば関わりたくない人種だった。蓮ヶ原さんの様子を見ると、確かにうまく息ができないのか苦しげに喘いでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます