据え膳

「お疲れ様、十文字くん」

 はたと気がつくと、目の前に蓮ヶ原さんがいた。

「え?」

 俺はまだ本屋でレジ打ちをしている。物思いに耽るのは日常茶飯事だが、手元が疎かになることはない。だというのに、突然現れた想い人に、一瞬脳が停止した。

「……お疲れ様です。蓮ヶ原さん、なんでこんなとこに」

「今日は休みなんだ。気分転換に買い物しようかなってさ」

「もう夜になりますけど……」

「僕、夜のほうが好きなんだ」

 朗らかに笑う蓮ヶ原さんとは対照的に、俺の心臓はドクドクと高鳴っていた。蓮ヶ原さんはいつもの真っ青なコートに身を包んで、少し鼻を赤らめている。外の空気は冷えているのかもしれない。突然の登場に、さすがの俺も焦っていた。

 蓮ヶ原さんと話すとき、俺はあまりにも「らしくない」。

 なんだか頓珍漢なことを言っている気分になってしまうのだ。蓮ヶ原さんを前にすると、俺は癒される。そして同時に、焦燥した。なんでこんなにうまくいかないんだろうと悩むくらい、空回っている気がする。蓮ヶ原さんに嫌われたくないのだ、俺は。

 はい、と蓮ヶ原さんは一冊の文庫本をレジに差し出した。稲垣足穂の小説だ。受け取った俺の手は震えていなかっただろうか。

 なんとか無事に会計を終えれば、聡香さんが言った。

「十文字くん、時間だからあがっていいよ」

「はい」

 聡香さんに視線を合わせれば、彼女はなぜか下卑た笑みを浮かべている。これはよくないことを考えているときの顔だ。

うんざりしながら息を吐けば、蓮ヶ原さんは首を捻りながらも俺に提案してきた。

「それなら一緒に帰ろうよ。待ってるよ?」

「でも……」

 二人で歩くなんて、なんだか小っ恥ずかしい。しかし、少し寂しげに眉尻を下げた蓮ヶ原さんを見て、断れなかった。

「……分かりました」

 頷いて答えると、蓮ヶ原さんの表情はパッと明るくなった。まるで犬と対話している気分だ。蓮ヶ原さんは、やはり星の煌きを、そこら中に散らしているのだった。

「よかった! じゃあ、適当に本見て待ってるから!」

 はつらつとした声音の蓮ヶ原さんは、機嫌よくレジを後にした。

 その華奢な背中を見て、盛大にため息をついてしまう。

 誰の目をも惹きつけてしまう鮮やかな青のコートは、蓮ヶ原さんによく似合う。蓮ヶ原さんは肌も白く、睫毛も長い。精緻につくられた人形のように整った顔をしているが、蓮ヶ原さんの頬はいつも桜色に染まっていた。蓮ヶ原さんはいつも人間的な表情をしていて、顔色も健康そのものだ。喜怒哀楽がはっきりしていて、すぐに想ったことが顔に出てしまう。そんなところが、たまらなく愛おしかった。

 ビアンカとかいうあの女とは大違いだ。

「……ねえねえ、十文字くん?」

「なんですか?」

 顔を覗き込んでくる聡香さんをひと睨みしたが、彼女はそんなことはまったくお構いなしに俺に耳打ちした。

「あの子、十文字くんの恋人?」

 頭が真っ白になった。

「…………は?」

 さすがに言葉を理解するのに時間がかかり、思わずそっけない声が出てしまった。だというのに、聡香さんは機嫌よくにやついている。聡香さんは顎に手を当てた。

「男の子か女の子か分からない子だねー。声もハスキーだし……。でもすっごいかわいい! 今流行りのジェンダーレス男子ってやつ? 十文字くんもあんな子を捕まえるなんて、隅に置けないねー」

 蓮ヶ原さんはなにか理由があるのか、男性の格好をしている。蓮ヶ原さんが女性であることを知ったのはつい最近のことだが、理由を尋ねる気にはなれなかった。なんとなく、蓮ヶ原さんが見せたがらない気がしたからだ。実際、未だにあの人は女性であることを隠していた。

「……本当にそんなんじゃないです。下宿先が同じってだけで」

「本当にそれだけぇ?」

「それだけですよ。じゃあ、俺あがりますんで。お疲れ様でした」

 聡香さんから余計な詮索をされる前に俺はその場を後にした。

そもそも、なんで「恋人」だと思うんだ。なんかもっと……「友達」とか、あるだろ。

 もしかしたら耳年増の聡香さんからしたら、俺の想いはすごく分かりやすいのかもしれない。他人に俺の感情が筒抜けているのは、少し問題だ。蓮ヶ原さんに伝わってしまう危険がある。

 職員の控え室で急いで着替え、黒いリュックを担いで蓮ヶ原さんを迎えに行く。そんなに広くない本屋なので、すぐに見つかった。本屋の奥にあるコミックコーナーで、蓮ヶ原さんはぼんやりとした表情で平積みされている漫画の表紙たちを眺めていた。

「お待たせしたっス」

 声をかければ、蓮ヶ原さんは少し疲れた顔で微笑んだ。

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