創作家の信念2

 ハツエさんは一人で階段を上がれない。ハツエさんが呼んだ医者が来たのだろうか。しかし、暖簾をくぐって現れたのは、医者ではなくビアンカだった。

「ビアンカ……」

「いつまでも来ないと思ったら、こんなところでたむろしていたのね。今何時だと思っているの?」

 慌てて腕時計を見ると、時刻は九時を過ぎていた。ビアンカの仕事は八時半から始まる。これは普通の職場だったらお叱りの言葉を受けているところだ。表情の変わらないビアンカだったが、案の定不機嫌そうだった。

「社会人として失格よ。社会の歯車である自覚を持って行動なさい」

「うっ……返す言葉もございません……すみません」

 ビアンカは胡乱げに息を吐いた。呆れを含んだ表情も、西洋人形のように愛らしく、艶やかだった。

「素直に謝るだけまだマシなのかしらね.。まあいいわ。それで? どうして仕事をボイコットしたのかしら?」

「十文字くんが倒れちゃってね。看病していたとこだよ」

 聞きなれない声がしたからか、十文字くんはがばりと毛布をめくって再び身体を起こした。

「……なんで勝手に部屋に入ってくるんだよ……」

「あら、不可抗力よ。雇用主が従業員を連れて行くのは当然でしょう?」

「ああ……そういや、この人のところで働いてるんでしたっけ、蓮ヶ原さん」

 うん、と端的に首肯すれば、十文字くんは両手で頭を抱えて呻いた。やはり頭が痛いのだろうか。

 そんな十文字くんに見舞いの言葉もかけず、ビアンカはすました顔で部屋を見渡した。

「狭いけれど、センスは悪くないわ」

「はいはい。そうでございますか……」

 力ない十文字くんの口調は普段の彼からは考えも及ばないほど砕けていて、そして雑だった。ハツエさんや僕にはこんなふうに適当に応えない。ビアンカや優斗さんには心を開いているのだろうかと思うと、なんだか悲しくなった。ハツエさんや僕のほうが彼と長く暮らしているのに――。

 ビアンカは机の上の台に乗っている原稿を許可なく手にすると、勝手に読み始めた。さすがの十文字くんも目尻を尖らせ、ベッドから降りようとする。

「おい、なに勝手に見てんだ」

 ビアンカをとめようと手を伸ばした十文字くんに、ビアンカは怯みもせず、原稿に注視したまま言った。

「……あなた、やっぱり善い『眼』をしているわ。ただ、誰にも読ませたことがないのかしら。少し独善的な作品になってしまっているようね」

 十文字くんの手が止まった。口をぱくぱくと喘ぐように開閉させて、観念したのか力なく手を下げた。ビアンカはしばらく無言で原稿を読んでいたが、やがて、口を閉ざして台の上に戻した。

「楽しませてもらったわ。ハツエはどうやら、善い人材を呼び寄せたようね」

「おい、なんの話だ……」

「いいえ、こっちの話よ。それよりあなた、やけにフラフラしているけれど? 横になったほうがよろしいんじゃなくて?」

「……誰のせいだよ!」

 十文字くんの叫びは盛大に掠れていた。喉も痛いのか咳き込んでしまう彼の背中をさすってやれば、「ありがとうございます」と言いながらも僕と目をそらした。そんなにあからさまに嫌がられると寂しい。

 十文字くんは再びベッドの上に横になると、ビアンカを見上げて問いただした。

「……よく分かったな。俺の作品が独りよがりだって」

「……私はなにも。表現の世界では素人よ」

「担当さんにも、注意されるんだ。でも、どう直していいのか分からなくてさ。その原稿は……まあなんとか見れる形にはなったけど」

 そう囁く十文字くんの声は、いつもより弱々しいものだった。

 暫しの沈黙。

 ビアンカも慎重に言葉を選んでいるようだった。人差し指を淡い薔薇色の唇にかけ、探り探りといった様子で口を開いた。

「……私から言えることは一つだけよ。もっと人に読ませなさい。そうすることで自然とあなたの道は拓けるわ。……多分ね」

 しん。再び静寂が部屋に降り積もる。石油ストーヴの鳴き声だけが聴こえている。

 十文字くんはどこか思案げな顔で、ビアンカを見やっていた。

 先に口を開いたのは、ビアンカだった。

「……さて。美星、行くわよ」

「え? 行くって?」

「……さっき私は社会人としての自覚を持ちなさいと言ったばかりだと思うけど?」

「あ、そういうことね」

「反対にどんなことだと思ったのあなたは……」

 呆れ口調のビアンカに笑ってごまかせば、大きなため息を返された。そう、ビアンカの屋敷でやることはたくさんある。掃除洗濯はもちろん、ドレスの管理、昼食の準備、アフタヌーンティーの支度、夕食、就寝前のネグリジェの準備などだ。最初こそ異文化の習慣に戸惑ったが、自分の性にあっていたのだろう。まだ分からないところはあるがあまり気負わず取り組めている。なにより、ビアンカが終始徹底して教えてくれるので嫌でも覚えるのだった。普段の冷たい言動から考えられないほど、彼女は教え上手だった。

「じゃ、仕事終わったらまた様子見にくるから! ちゃんとお医者さんに見てもらうんだよ?」

「う……はい」

 ビアンカと共に部屋を出ていこうとしたとき、僕の後ろを歩いていたビアンカが出る前に足をとめた。

「……そうだ、あなた」

 十文字くんはもう返答する気力も起きないのだろう。それでも聞いているのか、軽く手をあげていた。

「誰かに読ませるのならば、私の使用人を貸してあげるわ。鈍感で抜けている、私の使用人をね」

「……それって僕のこと?」

 そう言えば、少し強い力でビアンカに背中をどつかれた。

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