面影

「すいません、ハツエさん……蓮ヶ原さんも」

 ベッドの上で意識を取り戻した十文字くんは、熱の下がらない身体を起こして小さく頭をさげた。

 膝も悪く、ご老体であるハツエさんには部屋に入らないように言ったのだが、肝心のハツエさんはまったく気にしていないようだった。柔和な笑みを浮かべたハツエさんは、「私なら大丈夫よ」と有無を言わさず十文字くんの部屋に乗り込んだのだった。

 十文字くんはどうやらストーヴをつけることすら忘れてなにかに没頭していたらしい。十文字くんはずり落ちたぶ厚いレンズの眼鏡をかけ直した。小型の石油ストーヴをハツエさんがやってくる前につけておいたので、朝の冷えた空気は幾分か暖かくなっている。灯油の燃える匂いが窓に結露を生み出した。雪はほとんど溶けているが、雪国の春はまだまだ遠い。

 ベッドの傍に椅子を置き、そこにハツエさんを座らせた。ハツエさんの後ろをついていった僕の手には、粥がのったお盆があった。米の水分が、お椀の真ん中にのせられた梅の香りと混ざって鼻の奥へ染み渡る。ただ米を煮ただけなのにどうしてこんなにおいしそうに感じてしまうんだろう。温かな水を含んだ米には光沢があり、すぐに食べてほしいとでも言いたげに柔らかくなっていた。

「ハツエさんがお粥つくってくれたけど、食べる?」

「ありがとうございます。でも、ちょっと食欲が……」

 熱が下がらないだけあって、やはり体調が悪いのだろう。声が嗄れていて弱々しい。眉を下げている表情はいつもより表情豊かだ。そんな十文字くんの前に粥をおく。ハツエさんがお椀を持って、レンゲで瑞々しい粥をすくった。熱々の粥に息を吹きかけて、十文字くんの口に寄せる。

「はい。お口開けて」

「え、い、いや、俺、子どもじゃないし……」

「お口を開けなさい?」

 にっこりと微笑むハツエさんから圧を感じる。ちらちらと僕を見やる十文字くんの目は、明らかに「助けて」と救いを求めていた。僕は見て見ぬふりをして、十文字くんのベッドに腰かけた。

 根負けしたのだろう、十文字くんはおずおずと口を開いた。困惑している様子はまだまだ年相応だ。くすりと笑うと、十文字くんの赤い耳が更に赤く染まった。

「お医者さんに来てもらいますから、今日は休みなさい」

「はい……」

 ハツエさんに嗜められ、十文字くんは素直に頷きながら餌付けされている。僕はひとまず十文字くんの部屋を囲んだ本棚に目を通すことにした。

「それにしても十文字くん、すごく本がいっぱいあるんだね。漫画が多いのかな?」

「はあ、まあ」

「あ、画集もある!」

「一応、漫画の参考になるかなと思って」

 机の上の画材たちに目を向ける。ペン軸は墨で薄汚れているものがほとんどだ。指を痛めないようにしているのか、ほとんどのペン軸には布が巻かれている。斜めの台には、床に散らばっていた原稿の束が置かれていた。さすがに床に放置したままでは踏んでしまうので、まとめて台の上に置いたのだった。

 どの画材も、よく使い込まれていた。

 机の上の世界には、端々に彼のこだわりが見てとれた。僕は絵に関しては素人なので感覚でしか物を言うことしかできないのだが、職人のような業が、机の上や画材からにじみ出ていた。どんなところがと問われたら、なにも答えられないのだが。

「すごいね、十文字くん……漫画が描けるなんて」

 ほう、と息をついて十文字くんを振り返ると、ハツエさんから粥をもらっている彼は素っ頓狂な表情で目を瞬いていた。

 白い粥を飲み込んで、一言。

「……引かないんスね」

 そう呟いた彼の声は暗澹としていた。

「え?」

 一瞬、なにを言ったのか分からず、言葉がつまった。

 「引く」って、なにを? 

 言葉の真意が分からず首を傾げるが、十文字くんは声とは裏腹に涼しい顔をして、またハツエさんから粥をもらっていた。

 ハツエさんは、子どもに諭すような優しい声で、十文字くんに言った。

「大丈夫。ここにはあなたに『引く』人なんていないわ。それに引くだなんて、ありえない。あなたは素晴らしい作品を創る人だもの」

「……なに言ってるんスか。俺、ハツエさんに読ませたことないじゃないスか」

「読まなくても分かるわ。蒼夜さんは素敵な人だもの。ね? 美星さん」

「うん! 僕も十文字くんの漫画読んでみたいな! この原稿、ちらっと見たけど、すごく気になるし!」

「あ、あれは」

 再びハツエさんにレンゲを口に突っ込まれ、十文字くんは慌てて咀嚼する。そして焦った口調でまくしたてた。

「あれは編集者さんに送る原稿で! さすがに人に読ませられないというか」

「編集者!? 十文字くん、プロの漫画家なの!?」

「いや、プロではないんスけど! まだ雑誌に載せてもらったことないんで」

「でも担当編集者がいるってことだよね? すごい! 漫画家の卵だ!」

「すごくなんかないっス……この前やっとネーム通って、読み切り描かせてもらうことになって……。でもすごい人はもっと早くに……」

「なに言ってるんだ! 十文字くんも十分すごいよ! 努力して夢を叶えるなんて、結構難しいことなんだよ?」

 そう、努力して大きな夢を叶える人間は少数なのだ。十文字くんも人一倍努力して、もう少しで夢を手に入れようとしている。

僕は努力している人が好きだ。

僕は努力ができないちっぽけな人間だから、なにかに没頭している人のことを尊敬しているし、憧れている。ずっと応援していたいと思う。

 十文字くんは、兄に似ている。

 瞬間、十文字くんと兄の面影が重なった。

 全然容姿は似ていないのに、その精神性が似通っているように感じた。見た目だけなら、兄と僕は非常によく似ているらしい。しかし、内面となると話は変わる。兄は努力できる人間で、僕は努力できない人間だった。兄は優等生で、僕は劣等生だった。努力しても兄には届きそうにないくらい、能力の差は歴然としていた。だから僕は努力をすることもなく、最初から頑張ることを諦めて、適当に生きてきたのだった。

 ……そういえば、兄は小説を書いていたのだという。

 実際に執筆している姿を一切見たことがないので信じられないが、優斗さんが言うには、兄は小説を書いていたらしい。優斗さんの願いは僕に兄の小説を渡すこと。そのために僕は一度あの家へ帰らなくてはいけない。あの頑固な父のいる家へ、帰らなくてはならない。

 そう思い返すたびに、僕の口からはため息が漏れ出すのだった。

 心に雑草が生い茂り、深い影を落とす。兄は優斗さん以外に小説の存在を教えなかった。兄にとっては、父も僕も敵なのかもしれなかった。

 兄が心の開いたのは、優斗さんだけ。

 強い嫉妬の感情が、ビアンカの家にある暖炉の火のように煌々と燃え上がる。できるだけ自分の感情を見ないようにして、そっぽをむく。そうするしか方法がなかった。

 ただでさえ愚かで卑しいのに、高潔さを失うわけにはいかなかった。

『常に気品を持って過ごしなさい』

 洋さんの言葉を反芻する。そうして僕は、ハツエさんや十文字くんの前で、ギリギリ立っていられるのだ。

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