第二部 十文字蒼夜の恋情
秘密基地
「美星さん、蒼夜さんを呼んできてもらえる?」
雪のちらつく三月。気候は二月と比べて穏やかになり、雪も積もるほど降らなくなった。今日の朝も冷えるが、雪がパラパラと降るだけだ。窓から見える庭の地面を白く染めることもなく、音もたてず溶けていく。静かで優しい朝だった。
朝食の時間だというのに十文字くんの姿はない。仕事が休みでゆっくり寝ているだけだと思ったら、どうやら違ったようだ。ハツエさんが眉尻を下げて右手を頬にあてて喋る。
「昨日ちょっと体調が悪そうだったから、心配ねえ……」
そう言われて、昨日の十文字くんを思い出す。そういえば鼻水もずるずると啜っていた。本人が「アレルギーっスよ」と言っていたので鵜呑みにしていた。ハツエさんは僕とは違って風邪だと疑っているのかもしれない。
ハツエさんがつくってくれたなめこのお味噌汁を一気に煽って腰をあげた。
「ちょっと様子を見てきます」
意気揚々と立ち上がったのはいいが、廊下に出ればすぐに消沈してしまう。暖かくなってきてはいるが、やはり東北だからか、暖房のないところでは足のつま先がかじかんでしまう。ルームウェアのままでいるせいだが、朝と夜は東京と違いひどく冷えた。凍てついた空気を吸い込んで吐けば、白い煙があがった。
二階にあがり、十文字くんの部屋の扉をノックする。返事がない。聞こえなかったのだろうか。
今度は強めにノックしたが、やはり返答はなかった。まだ寝ているのだろうか。十文字くんはよく時間を忘れて部屋にこもっているときがあった。
以前の夕餉のときもそうだった。その日の当番は十文字くんだったのだが、それをすっぽかして部屋にこもっていた。ハツエさんからやんわりと注意を受けた十文字くんは、朴訥とした声で「すいません」とだけ謝って、その日はいつも以上に静かだった。時間を忘れてしまうのは彼の特性なのだろう。そしてその特性に彼自身も困っているようであった。ハツエさんも僕も迷惑ではないし、もっと頼ってくれてもいいのにと思っている。
十文字くんは反省を繰り返しているのか、最近は時間を忘れてしまうことが少なくなっていた。しかし、忘れた頃になんとやらだ。確認のために一応ドアノブを回すと、鍵が開いている。彼は秘密主義なので扉の鍵を開けておくことは滅多にない。す、と胸の内が冷えていった。
いつまでも返ってこない声。鍵のかけられていない部屋。
「……十文字くん!?」
名前を呼んでみるが返事はない。十文字くんになにかあったのかもしれない。 慌てて扉を開け、十文字くんの部屋に突入した。秘密主義の彼の部屋に無断で入るのは躊躇われたが、もし倒れていたら放っておくのは危険だ。
案の定、十文字くんは部屋の真ん中でひっくり返っていた。
「……え?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。十文字くんの顔は真っ赤で、大の字にのびている。意識を失っているのか目は固く閉じられていた。椅子から転倒したのか、椅子が床に無造作に転がっている。
しかし、なにより目に飛び込んできたのは。
「……漫画?」
弱った彼の姿を多い隠すように、漫画原稿と思しき紙が床に舞っていた。試しに一枚拾って見てみれば、星空を見上げている少女のシーンが描かれている。素人目から見ても迫力があり、上手な絵だ。
僕の呟きで意識が戻ったのか、十文字くんの目は微かに開いている。朦朧としているのか、呆然と天井を見上げるだけで身動(みじろ)ぎすらできないようだった。
十文字くんは普段より更に抑揚のない声で呻いた。
「……はす、がはら、さん」
「十文字くん!? 大丈夫!?」
彼を起こそうとしたが、その瞬間、彼は僕を制止させた。
「おれのことは、いいんで……げんこうを……おねがい、しま……」
そう言い終えると、彼は再び瞼をゆっくりと落とした。息は荒く、顔も赤いままだ。彼の息は冬の風のようにふきすさんでいた。名前を呼んでみるが返事はない。どうやら気を失ってしまったらしい。
とりあえずベッドに運んでおこう。幸いにもベッドがすぐ近くにあり、彼の体躯も細かった。引きずればなんとかなりそうだ。そのために部屋を見渡した。
そこには僕の知らない、楽しげな世界が広がっていた。
部屋を囲んでいる本棚には漫画や画集、小説や写真集など、様々な種類の本がつめこまれていた。机は広く、左側にはパソコンとコピー機、見たこともない機材が置かれている。そして右側は、墨やペン、定規など、画材が敷き詰められていた。机の中央には斜めの台があり、その上には漫画の描かれた紙が置かれているのだった。
「すごい……」
思わず感嘆した。彼にはこんなすごい秘密があったのだ。その秘密は、僕の目にはとても魅力的に見えた。彼の世界は、こんなにも光り輝いていた。
彼の意識が戻ったら詳しく聞いてみることにしよう。今はとにかく、彼をベッドへ運ばなければ。
僕は一度深呼吸をして、ふん、と身体に力を入れた。
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