共犯者2
「さあ、こっちへいらっしゃい。あなたの仕事を教えるわ」
ビアンカに導かれるまま、屋敷の中を案内される。そのついでに一日のタイムスケジュールを教えてもらった。
キッチンはリフォームしたのか使いやすそうだ。ガスコンロなのが個人的にはベストだ。最近はIHが主流になってきているが、細かな調整となるとガスコンロのほうが都合いい。綺麗に整理整頓されたシンクも好感が持てる。毎日キッチンを片付けているのだろうか。埃ひとつないところを見ると、やはり本当に使用人が必要なのか疑わしい。
そうして様々な部屋を見た後、最後にある部屋に通された。
厳重に管理しているのか、その部屋には鍵がついていた。ビアンカが持っている鍵で扉を開けると、すう、と冷たい空気が鼻腔を擽った。水場に近い匂いだ。海というよりは山奥の川のような透明な匂いだった。ビアンカに続いて真っ暗な部屋の中に入る。扉を閉めるように言われ、指示通りに閉めればとうとうなにも見えなくなった。
しばらくして、洋燈が灯る。
碧く発光したその洋燈は、蛍のように微かな光だけを放っていた。それを二つ三つと灯していくと、部屋の様相が明らかになった。
碧い光を吸いこんで光る水晶の群れが、そこにはあった。
わあ、と思わず声をあげてしまう。洋燈の光を吸収した水晶たちは自ずから碧く燿き、部屋全体をアクアブルーに染めていた。角ばった水晶、丸まった水晶と、それぞれ固有の形をしている。カットされた角が白く揺らめき、天井に水面の線を引いていた。
闇に浮かぶビアンカの白い貌は洋燈の灯のせいで碧く光っている。病的にも見えるその色に背筋が震えた。
「この部屋は……」
言葉を失った僕の代わりに優斗さんが問いただす。ビアンカは引き結んだ唇を解いて言った。
「ここは、水晶部屋」
「……水晶部屋?」
「そう。あなたにはここの管理もしてもらうわ」
六畳間の狭い部屋の奥の、一際大きい水晶を撫でて言う。角ばったその水晶はまるで台の上から生えているかのように群生している。ビアンカの腹部から頭ままであるその巨大な水晶は一際碧く輝いており、太陽に照らされた水面の下に僕たちはいるのだと思った。
さっきまでついてきていた優斗さんが部屋にいないことに気づく。どこに行ってしまったのだろう。いつも神出鬼没だから気にはしないが、辺りを見回してみてもやはりいなかった。
「どうしたの?」
「そういえば、優斗さんがいないなって……」
「この部屋の水晶は純度の高いものばかりだから、彼のような存在はもしかすると苦手かもしれないわね」
なぜ苦手なのだろうと疑問に感じたが、問わないでおいた。多分、ここから先は僕では理解のできない世界だろう。ビアンカの指が水晶に触れる。碧い光が透け、余計肌が青白く見えた。
「気分が乗ったから、あなたを助けてあげてもいいわよ」
「助ける? 僕は困っていることなんてなにも……」
「彼を成仏させたいとは思わないの?」
ビアンカの透き通る声にどきりとした。
心臓が逸る。彼女にはそれが可能なのだろうか。こみ上げる衝動をこらえながら、恐る恐る尋ねた。
「……成仏させられるのかい?」
「できるわ。しかも彼は意思疎通のできる善良な魂を持っている。安全で納得のできる成仏ができる」
優斗さんが成仏できる。 その言葉に、僕の心は沸き立った。
別に、優斗さんに憑きまとわれるのが嫌になったわけではない。家出した孤独な身からすると、彼がいてくれると心強いし、寂しさを感じなくてすむ。
しかしこのままではいけないのだ。
彼には兄がいるのだから。兄が彼を待っているのだから。
優斗さんが僕の傍にいるということは、反対に、兄は今ひとりぼっちでいるのだ。
それだけは、嫌だった。
冬の海に身を投げ入れた兄はさぞかし寒い想いをしているだろうと考えるだけで、身も心も凍てつきそうだった。
せめて、死後くらいは、兄を理解してくれた人と一緒にいてほしい。
それが、僕の願いだった。
「どうやったら、優斗さんを兄の元に還してやれる……?」
僕の声は緊張で上擦っていた。喉が乾燥して思うように口が開かない。それでもビアンカは僕の覚悟を汲み取って、深く頷いた。
「彼の未練を断ち切ってあげればいいわ」
「未練を……断ち切る?」
「ええ。彼はなんて言ってたかしらね」
幽霊になった優斗さんと再会したあの夜のことを思い出していた。
洋燈の火が燃え盛り、あの不思議なドームの中で海の波が逆巻いていた夜、優斗さんは確かに言ったのだ。
『セツの小説をお前に渡したい』
彼はまっすぐな目で、僕にそう言ったのだった。
「……小説」
「ええ、そうね。お兄さんの小説を受け取れば、彼は成仏できる」
「でも、一体どこに……」
「データであれば、実家にあるのではなくて?」
実家。それを聞いた途端、胸に絶望が押し寄せてきた。
実家に兄の小説のデータや何かしらの印刷物があるとして、手にするには僕は帰郷しなくてはならない。そうなれば必ず父と対面しなければならないだろう。あの気難しい、大嫌いな父と。
心臓のあたりの服を鷲掴み、ううう、と情けないうめき声を漏らす。ダメだ、ダメなんだ。あの人は。あの人にだけは絶対に会いたくない。兄に無理強いさせ、優斗さんとの関係を認めなかったあの男にだけは、絶対!
ぶわりと首筋から汗が噴き出す。歯の音が噛み合わず、がちがちと激しく音を立て僕を急かす。でも、兄の小説を受け取らなければ優斗さんは成仏できない。兄がずっと一人のままで、でも――。
そうしているうちに海の色が見えてくる。ああ、またいつものだ。いつもの苦しい海中だ。僕は大嫌いなんだ。兄と優斗さんを連れ去っていった海なんて、僕は――。
「――落ち着きなさい」
す、と声が胸に染み渡った。その声はどこまでも清涼で、青空の下を吹き抜けていく風のように僕の耳を撫でた。肩に手を置かれ、ようやく僕は我にかえった。
目の前には、その声に似つかわしい令嬢が立っていた。
僕の肩に手を乗せ、珊瑚礁の目で僕を見据える。視線が交わったとき、彼女は彼女は肩を竦めた。
「なにも、今すぐだなんて彼は言ってないわ。あなたが行けると思ったときに行けばいい」
「……でも」
「でも、だなんて思わないことね。タイミングというのはいつだって大事なの。それを忘れないでいて」
でもそれでいいのかな、なんて言えなかった。それくらい、彼女の顔つきは真剣だった。
「私はあなたを助けるわ。あなたが死ぬまでね」
あまりに鬼気迫る調子で言うので、なんだかおかしくて笑えてきてしまった。最初は不機嫌そうだったが、結局ビアンカもつられてくすりと笑った。
「ビアンカって案外大げさなんだね」
「あら、本当のことよ? 約束は違えないわ」
「はは……頼もしいよ」
そうして二人でもう一度目の前の水晶を眺めた。
「どうしてそこまで、僕を助けようとしてくれるの?」
ビアンカの表情は、碧白い光で照らされているのに見ることは叶わなかった。
ただ、彼女はいつになく寂しげに、言葉を紡いだ。
「さあ。もしかすると、あなたのことを存外気に入ってるのかもしれないわね」
そうして僕ら二人の、一種の共犯に近い関係は結ばれたのである。
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