共犯者
「今までありがとうございました!」
最後の仕事を終えて、僕は帰路についた。
結局飲食店のバイトを辞めることにした僕は、意思を店主に告げてから一ヶ月後に無事辞められた。宮内さんは最後まで「あなたがいなくなって清々するね」と嫌味たっぷりだった。
三月ははじまったばかりで、北国ではまだまだ雪は溶けない。日光だけは二月よりも暖かくなったが、寒さは相変わらずだ。やっとバイトを辞めることができた開放感で背伸びをすると、浮かんでいる優斗さんが真上から覗きこんでくる。さすがに一ヶ月もすると、優斗さんの突拍子もない出現に慣れた。
「ちゃんと辞められたな。偉いぞ」
「褒めるほどのことじゃないと思うんですが……」
「辞めるときって結構勇気がいるもんだぞ。次の仕事場もブラックな場合もあるし」
僕がバイトを辞める決心がついたのは、ビアンカから本格的に使用人をやらないかと誘われたからだ。僕を雇えば呪いの研究も捗るのだという。ビアンカの傍なら緊張することはないだろうし、給料も飲食店のバイトより遥かに上だったので僕としても都合が良かった。
「どうだろう。確かにビアンカは厳しそうだけど」
「無理そうだったら逃げるのもひとつの手だぞ」
「でも、逃げてばかりじゃいられないよ」
そう言えば、それっきり優斗さんは黙ってしまった。元々口数の少ない人だ。気にすることはないだろう。バス停にたどり着けば、ちょうどバスがやってきたところだった。
バスの中は暖房が効いていて暖かい。車窓から見える午後の陽光は、二月のものよりも強かった。
空はどこまでも突き抜け、世界を青く染め上げている。
青空の下、ぼろぼろになったビアンカの姿を思い出していた。
ビアンカの目はなぜあんなに生を渇望していたのだろう。一人だけ時代に取り残され、一人だけ生き残っても、彼女は死にたいとは思わないのだろうか。
尋ねてみたいけれども、不躾に聞いてみてもいいものなのか、いまだに判断がつかなかった。
青空に溶けるピンクのドレスが、花のように散っていく。
僕は確かに、彼女が生き返る瞬間を美しいと感じたのだった。
バスから降りて、住宅街を歩く。
溶けた雪はぐしゃぐしゃと足の下で崩れていく。雪解け水をコンクリートの車道が吸って、黒く変色していた。僕はビアンカの血の色を思い出していた。
「今日はこれからビアンカのところに行くんだよな」
「うん、そうだよ。作業服ができたんだって。どんな感じか試しに着てもらいたいから来てくれってさ」
優斗さんと話しながら歩いていると、ビアンカの屋敷に着く。そのすぐ隣は碧ばら荘だ。僕はバイトから帰った足でまっすぐビアンカの屋敷の庭に入るのだった。
少しずつ庭の整備をしているのだろう。二月のときよりはある程度片付いていた。たまにビアンカが庭を整備しているのを見かける。さすがに一人で庭を片付けるのは大変だろうから、僕も何度か手伝っていた。
庭の整備をしていると、ビアンカはいつも「手際がいいわね」と褒めてくれるのだった。僕もハツエさんから習ったのだけれど。
玄関のインターホンを押せば、ここ一ヶ月で慣れた声が聞こえてくる。
『……はい』
「美星です」
ざざっとノイズが走り、それっきりインターホンからはなにも聞こえない。しばらく待っていると、かちゃりと重々しい扉が開いた。
「よく来てくれたわね。あがって」
ビアンカは暖かそうな赤いカーディガンをはおって僕を出迎えてくれた。珍しく動きやすそうな白いフリルの部屋着のままだが、やはりそれでも飾りつけされた人形のようだった。スカートの裾から覗く白いくるぶしはまるで雪のようだった。
屋敷の中を案内され、部屋に通される。昼のうちは暖炉に火を灯さないらしく、代わりに水蒸気で部屋を暖めるストーヴが起動していた。太陽光と水蒸気で暖めた小さな部屋には、机とソファ、鏡とベッドがあった。以前ビアンカが介抱してくれた部屋だった。
ベッドの上には黒い服が畳まれている。ビアンカが僕に来てほしい作業服はこれなのだろう。優斗さんに部屋から出ていくように頼もうとすると、既に幽霊の姿はなかった。
「彼、結構紳士的よね」
ビアンカは外から見えないように薄いレースのカーテンを引いた。ベッドサイドの洋燈を灯せば、薄ぼんやりと彼女の白い指が浮かび上がる。その指で畳まれていた服をベッドの上で広げた。
「これ……燕尾服じゃないか」
黒い作業着……もとい燕尾服は、実家でよく目にした形状のものだった。普通の人ならまず目にしないそのデザインは、父に仕えていた執事が着ていたものと似ていた。
「もっと普通なやつはないの?」
「なにを言っているの? 私の使用人なのだからこれくらい着てもらわなくては困るわ」
ビアンカが輝く目を向けてくるので、はっきり嫌だと断れなかった。結局流されるまま、僕は燕尾服を着つけられることになってしまった。
姿見の前に立つよう言われ、コートを脱いで鏡を見つめる。後ろでせっせとビアンカが小間使いのように動いていた。手際のよい動きに、本当は使用人などいらないのではないかとも思う。鏡越しにビアンカを見つめていると、「ほら。さっさと脱ぎなさい」と急かされた。
長袖シャツとデニムのパンツを脱ぐと、すぐに白いシャツを渡される。燕尾服といえども着心地はよく、着る工程はスーツとあまり変わらない。ビアンカの手伝いもあって難なく着替え終わると、目の前の鏡には執事の少年が立っていた。
女性らしいシルエットは隠されているが、清潔で小粋な印象を受けた。どこからどう見ても少年にしか見えない。中学生の頃の兄さんの生き写しだった。
「やっぱり、私の目に狂いはなかったわね」
僕の格好がよほどお気に召したのか、ビアンカはふんと鼻を鳴らして顎をあげた。自信に満ちた笑みを浮かべ、僕の隣に並んだ。
鏡の中の僕たちの姿は、タイムスリップしてきたかのようだった。
近世の英国じみた僕たちは、まったく現代日本にそぐわない。そのことに気恥ずかしさを感じながらも、今まで見たことのない自分の姿にどきどきした。
「似合ってるぞ」
脱ぎ捨てた服をハンガーにかけていると、突然背後から声がかかる。振り向けば、優斗さんがベッドに腰をかけて微笑んでいた。
「なんだか、兄さんに似てますよね」
そう言えば、優斗さんは少しだけ眉間に皺をよせて、曖昧に笑う。
「……そうだな。お前はセツによく似ている」
「そんなに美星とお兄さんは似ていらっしゃるの?」
「ああ。写真でも見せてやりたいくらいだよ」
「美星。お兄さんの写真くらい持っているでしょう? あとで見せなさいな」
ビアンカに無茶を言われ、僕は苦笑する他なかった。
「申し訳ないけど、写真の類は一切持ってきてないんだ。全部実家さ。どうせつまらない家族写真ばっかりだしね」
「そう」
ビアンカは残念と言うこともなく、ただ淡々と頷き返しただけだった。そんなビアンカの態度に安堵していると、ビアンカが手を伸ばし、僕の右手を引っ張った。
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