魔女1

 バイトを十三時であがり、待ち合わせ場所に指定された近くのデパートへ向かう。宮内さんからは「あの派手な人と知り合いなの?」と怪訝な顔をされたけれど、まあいいだろう。雪が溶けてつるつると光る道に足元をとられながらなんとか前に進んでいく。どこまでも突き抜けていく冴えた青空が眩しかった。冷たい空気だというのに呼吸がしやすく、肺が凍てついてもなお深呼吸をやめられないのだった。そこでやっと、朝に感じた「いい日」を体感したのだった。

 デパートの内部へ入ると、暖房が効いていて少し暑いと感じるくらいだった。建物から見ると外はそこまで寒そうには見えないのだが、やはりこの地方特有の放射冷却とやませのせいで凍てつく寒さになっているらしい。むせ返るような暑さに、青いコートの前を寛げた。

 バイト先の飲食店を出る間際、「近くのデパートで適当に本でも物色してるわ」と言っていたので、とりあえずデパート内の本屋に向かうことにした。エスカレーターで三階を目指す。途中、掲示板に貼られているセールやイベントのお知らせをじっくり眺めた。

 このデパートの三階一帯はすべて本屋となっている。エスカレーターで昇りきると、すぐ目の前に現れた陳列棚に目を奪われた。

 陳列棚には、とある賞のノミネート作品が一斉に並んでいる。自分から小説を読むことがない自分でも知っている名前の賞だった。

どちらかと言えば詩のほうが好きなので詩集はよく読むのだが、小説は必要最低限しか読まない。最近、兄の模倣の一貫で純文学を読みはじめたくらいだ。正直なところ、純文学の良さはまったく分からない。よくこんな小難しいものを読んでいたものだと感心してしまう。

 小説は、兄がよく読んでいた。

 それこそ、純文学からエンタメまで、幅広く。特に兄が好きだったのが車輪の下やジキル博士とハイド氏といった外国文学だった。日本の文学にも通じていて、ほかの人よりも詳しかったように思える。僕が詩集を読み始めたのも、兄が中原中也の詩を読んでいたからだった。

 でも、読むことと書くことは違う。僕は、兄が小説を書いている姿を頭の中で思い描けなかった。

「買うのか?」

 兄を思い出していた僕に、優斗さんはそう尋ねる。僕は首を横に振るしかできなかった。

「なにか読んでみたらいい。結構面白いぞ」

 僕はあまり、と口にしかけたが、そういえば優斗さんの姿は周りには見えないのだった。平日と言えど人はちらほらといる。迂闊に意思表示をすることもできず、結局その陳列棚から離れることで自分の意を示した。

 本当は一冊取ってみてもよかった。確かに僕の家計は火の車だが、本一冊くらいならなんとか買える範囲だ。それをしなかったのは、ただ単純に、僕の気持ちがついていかないせいだった。


 ビアンカ探しに戻り、本屋を歩き回る。目立つ格好のビアンカをすぐに見つけられた。雑誌コーナーで棒立ちになり、雑誌に目を通している。声をかければ、彼女はややきつめの目尻を上にあげて振り向いた。

「ごめん。待った?」

「ええ。でも、退屈はしなかったわ」

ビアンカは開いていた雑誌を閉じて脇に抱える。彼女が手にしていたのはガーデニング雑誌だった。

「買うの?」

「ええ。ちょうど日本で定期購入する雑誌に困っていたところなの。これは中身もしっかりしているし、気に入ったわ」

 そういえば、彼女は外国から越してきたのだったか。日本語が流暢すぎてまったく違和感がなかった。派手で人の目につく服装をしているのに、彼女はあっという間に場に馴染んでいる。僕が想像しているよりもずっと、彼女は転居になれているのかもしれない。

「ビアンカは外国の人なんでしょ? それにしては日本語ペラッペラだよね」

「『外国』ではなく、イギリスよ。何回か日本に住んでいたことがあるから、慣れたものだわ」

「へえー……」

「答えてあげたのに、興味なさそうな返事をするのね」

「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」

 ビアンカは胡乱げに僕を見つめてそっぽをむいた後、カウンターに向かっていった。なにも言葉が出てこなかったわけだが、もう少し気の利いたことを言っておけばよかっただろうか。彼女の機嫌を損ねてしまったかもしれない。結局、その心配は杞憂に終わり、紙袋に入った雑誌を手にして戻ってきたビアンカは得意げだった。

 デパートの階をくだりながら彼女は挑発めいた笑みを見せて言う。

「次に行きましょう。あなた、どこかオススメの場所はない?」

「オススメの場所?」

「あるでしょう? 観光名所とか、おいしいカフェとか」

「ええ……突然言われてもなあ」

「じゃあ、あなたがよく行く場所でいいわ。そこに行きましょう」

 よく行く場所か、と考えるけど、街中にはめぼしいところはない。僕がよく足を運ぶところは、比較的栄えている街中から離れている。

僕はよく、海を見に行く。

特になにも用事はないが、潮騒に心が癒させるからよく足を運ぶ。兄を忘れないという自戒も、その行為には含まれていた。

まだ昼過ぎだし、今から向かっても夕方頃には碧ばら荘に戻ってこれるだろう。縦に首を振れば、ビアンカは満足そうに鼻を鳴らすのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る