サーカスの主役
しかし、簡単にいいことが起こればもっと生きやすい世の中になるはずで。
人生とはそううまくいかないものだな、と僕はバイトの時間を淡々と過ごしていた。
今日は十三時までのシフトが入っている。いつもよりも短時間労働であるにも関わらず、肩には既に疲労の荷物が乗っていた。
ヘマをしたわけではないけれども、従業員から疎んじられているので居心地は悪い。それもこれも、いつまでたっても仕事をろくにこなせないからなのだが。
気をつけているつもりではあるのだがそれでも場に馴染めないのは、単純に自分がホールスタッフに向いていないからだろう。家事は一通りこなせる自信はあるのだが、手際の良さと場への適応は違うことを、この職場に勤めてから知った。しかし貯金するだけの余裕もなく、なんとなく次の仕事を探すことに躊躇していた。どうせ次の仕事もうまくいかないんだ。そんなひねくれた心が僕の前に転がっているのだった。
今日のホールは平日ということもあってか、休日より混んでいない。僕に目を光らせている宮内さんの視線を感じながら震える足で接客していた。
「おい、大丈夫か?」
後ろで優斗さんの声を聞く。けれどもそれに受け答えできないほど、今の僕は憔悴しきっていた。仕事ができないぶん必死になるしかない。必死になればなるほど周りの目が気になり、失敗の数も多くなる。その悪循環から逃げ出すことができず、僕はもがくしかなかった。
カラン、とドアの開く音がする。
たまたま手が空いていたので出迎えようと入口まで急いで向かった。
そして不器用な笑顔で、一言。
「いらっしゃいませー」
普段苦もなく笑っているのに、接客になると顔の筋肉がひきつるのはなぜだろう。心と表情が乖離していて、なにも追いついていかない。あと一時間で今日の苦行も終わる。はやく、はやく終わってほしい。
「あら、つまらない顔をしているのね」
店内に入ってきたのは、小鳥の声で僕の顔をうかがうビアンカだった。
「……は?」
「ほら、ぼーっとしてないではやく案内なさい」
「は……何名様ですか?」
「見て分からない? 一人に決まっているではないの」
余計な一言が多いんだよなこのお嬢さんは、と思いつつも、あの夜と変わらないビアンカにほっとした。
外出時にも豪奢なドレスを着ている。ピンクの生地に白いレースが花開くドレスを着込んでおり、頭にはドレスと同じ色のヘッドドレスがひらひらと踊っている。周囲から好奇の視線を浴びてもまったく動じるそぶりのない彼女が羨ましかった。
席へ案内しているときも、周りから強い視線を感じていた。それはそうだろう。都会ならまだしも、こんな派手な格好で田舎を練り歩く人間はほとんどいない。サーカスの動物でも見るような視線が息苦しかった。
席へ案内すると、彼女は知らぬ顔をして「ありがとう」と席に座る。彼女は周囲に怯えるわけでもなく、かといって過度にいきりたつわけでもなく、いつものすました表情でメニューを睨んでいた。
「メニューが決まりましたらこちらのボタンで……」
「いえ、いいわ。もう決めたから。三色丼定食でお願い」
「かしこまりました」
随分と決めるのが早かった。もしかしたら外のメニュー表を見たのか。お辞儀をして席を離れようとすると、彼女は僕の服の袖を掴んだ。
「あなた、バイトが終わったら暇?」
「暇……だけど」
「ならちょっと付き合ってくれないかしら?」
「付き合う……?」
「単なるおでかけよ。それくらいいいでしょう?」
彼女の白い手は僕よりも随分小さくて柔らかい。傷一つついていない陶器のような手だ。ビアンカは働いたことがないのだろうか。そう疑ってしまうほど、彼女の皮膚は美しいのだった。
「別に、いいけど……」
「なら決まりね。こんなに天気がいいんだもの。おでかけしないなんてもったいないわ」
ビアンカが窓の外の景色を見ながら歌うように話す。僕もつられて窓の外を眺めた。空は青く、雲ひとつない晴天だ。冬の二月にはふさわしくない太陽の輝きが、暖かい風を想起させる。
そうか、外は晴れていたのか。
ずっと室内で働いていたから気にしていなかった。
天国のような明るい景色に目を細めた。溶け始めた雪道がつるつると光っていて、小さな燿きの粒が上を滑っていく。歩道の木々は今か今かと春の訪れを待ち、冬の太陽光を真剣に浴びていた。
この景色の中を彼女と並んで歩くのだと思うと、悪い気はしなかった。
「やっといい顔になったわね」
僕を見上げたビアンカは、不敵に笑って、追加のお茶をオーダーするのだった。
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