洗面所にて

けたたましい目覚まし時計の音で、目が覚めた。

 耳を破壊しかねないベルをとめようと手を伸ばすが、微妙に届かない。できるだけ毛布の外側に出ないようなんとかベルをとめると、冬の朝に似つかわしい静寂が訪れた。

「んん……」

 毛布の外に出たくなくて背中を丸める。ずっと毛布にくるまっていたい。外は怖いことだらけだから、外に出たくない。

 あと五分、と頭の中で唱えて二度寝にはいろうとすると、毛布の外から低いバスの声が僕を呼びはじめた。

「美星、起きろ。今日は昼までバイトだったろう」

「う~…あと五分……」

 そうして寝返りを打って、はたと気づく。なぜ僕の部屋で男性の声が聞こえるのだろう。毛布から恐る恐る顔を出せば、彫りの深いイケメンがいた。

「ひっ」

「いい加減その反応やめてくれ。さすがの俺も傷つくぞ」

 幽霊の優斗さんはふわふわと空中に浮かびながら僕を覗いている。こんな非現実的な存在を見せられて怖がらないほうがどうにかしている。

ビアンカに助けてもらって一日経った。碧ばら荘に戻ったあとも、幽霊に付きまとわれているという状況に馴染めずたびたび声をあげている。すぐに慣れるなんて無理だ。なにせ僕は、この前まで幽霊なんてものが見えなかった人間なのだから。

「傷つくって言われても、慣れろってのが無理ですよ」

 渋々ベッドから這いずり落ちる。二月ということもあって、部屋の中は血管が収縮するほど凍りついている。体がぶるりと震えた。ルームウェアの上から青のカーディガンをはおっても寒さは変わらず、一刻も早く下の階へ降りようと決心した。



 もこもこの靴下とスリッパを履いて、部屋から出る。一階に降りて、リビングに向かう前に洗面所へ足を運んだ。曇り窓は冬の朝らしく、白い光一色だった。昨日は吹雪だったから、外には雪が随分降り積もっているのだろう。

 洗面所には、先着がいた。

「おはよう。十文字くん」

 挨拶すれば、顔を洗っていた十文字くんが鏡越しに僕を見た。

「おはようございます」

「今日も寒いね」

「はい」

 十文字くんはいつものように朴訥としていた。普段はそっけないが、話すときは洪水のように言葉が流れてくる。きっと頭の良い子なのだろう。

 碧ばら荘の洗面所は寮らしく、三つの蛇口が並んでいる。ラムネ色のタオルをとり、僕も顔を洗おうと蛇口を捻った。

「そいつ、俺のこと見えてるぞ」

「がふっ」

 突然耳元で喋られ、驚いて手で掬ったお湯を顔面に思いきり叩きつけてしまった。思わず噎せて優斗さんを睨みあげた。

「いきなり話しかけないでください! びっくりするじゃな……」

 声をあげて抗議したが、慌てて口を噤んだ。優斗さんが幽霊、ということは十文字くんにはもちろん見えていないわけで。

 絶対怪しい人だと思われた……! 

 覚悟して十文字くんを見やれば、彼はけろりとしていた。

「……ああ、視えるようになったんスか」

「……え?」

「その人、前から蓮ヶ原さんに憑いてましたよね」

 当たり前のように言う十文字くんを怪しむのは、こちらのほうだった。

「……十文字くんには、前から見えてたのかい?」

「まあ。昔から視えるんで」

「なんで教えてくれなかったの!?」

「言ったら気味悪がられますからね。蓮ヶ原さん、まったく視えないみたいでしたし」

 彼の言っていることは至極真っ当だ。しかしこれでは、優斗さんが傍にいることを自分だけが知らなかったようで煮えきらない。

 ビアンカが近所に越してきてから不思議なことばかり起きている。身近な人ですらも不思議な能力持ちだった、など言われたらたまったもんじゃない。僕はこう見えてリアリストなのだ。説明のできない出来事にはめっぽう弱いのだ。

「まさか十文字くんまで不思議の国の住人だったなんてえ!」

「なに言ってるんスか……」

「だってそうだよ! ビアンカだって不思議な人だったし」

「ビアンカさん、ねえ……」

 十文字くんは飾りっ気のない白いタオルで顔をふいた。お湯を吸ったタオルは、冷気にあてられすぐに冷たくなるだろう。十文字くんは洗面所のサイドに置いた黒縁眼鏡をかけて、物憂げに眉をひそめた。


「やっぱり、あの人になんかされたんスか?」

「え?」

 その言葉は、彼にしては珍しく棘があった。敵意だろうか。優斗さん以上に感情を見せない十文字くんが、怒っている。それが新鮮で小さく笑えば、十文字くんは唇を尖らせた。

「……なに笑ってんスか?」

「いいや、別に? えっと、ビアンカに優斗さんだけ視えるようにしてもらったよ」

「そんなことできるもんなんスか? スピリチュアルの専門的なことはよく分からねーんスけど……」

「君が分からなかったら僕にだって分からないよ」

「まあ、あの人、明らかに只者じゃなさそうですもんね」

 確かに、今の時代あんな華美なドレスを着て過ごしている人間が只者であるわけがない。近世の華やかな貴族文化の世界から飛び出してきたかのような可憐な少女は、あまりにも現実離れしすぎている。なんでこんなことになってしまったのだろうと頭を抱えたくもなるが、未知の世界に触れるのは少し楽しかった。

「この人は優斗さん。生前に知り合ってね。また姿を見ることになるとは思わなかったけど」

「じゃあ、悪霊の類じゃないんスね」

 そのあまりの言いように、腹を抱えて笑うしかなかった。優斗さんが悪霊だなんて面白いことを言う。優斗さんは、悪になろうとしても悪にはなりきれない人間だ。

 笑う僕をじとりと見つめる優斗さんの目つきは、悪霊のように見えるのかもしれなかった。あまり目つきのいい人ではないから仕方がない。僕も最初出会ったときは怯えたものだ。

「こいつ、俺を見ても怖がるどころか目も合わせりゃしなかった」

「そうなの?」

「はあ、まあ」

 曖昧に頷く十文字くんは、確かにまったく物怖じしていない。僕は気になって訪ねてみた。

「どうして?」

「それは……」

 十文字くんは一旦口を閉じ、そして珍しく不敵に笑った。普段覇気のない青年の、自信に満ちた表情だった。

「知ってますか? 幽霊とは目を合わせてはいけないんスよ」

 今日は普段見られない彼の表情を見られたから、きっといいことが起こる。そんな予感に僕は胸を躍らせた。

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