邂逅1

「そう、お兄さんを亡くしているのね」

 椅子に座り背筋を伸ばしたビアンカは、僕の話を静かに聞いてくれていた。

 壁にかけられている古い振り子時計の針は、既に夜の十二時を過ぎている。月の沈みゆく夜更けを、暖炉の火だけが明るく照らしていた。

 鮮烈な赤い炎に照らされた彼女の表情は、おとぎ話に出てくる女中のように静謐であった。彼女の表情に、僕は洋さんを思い出していた。

「僕の男装は父親から逃げるためでもあるんだ」

「お父さんと喧嘩しているの?」

「そういうわけじゃないんだけど……兄がいなくなったから、後継ぎを僕にする気でいるんだあの人は。なにがなんでも僕を連れ戻したいはずだから、せめて外見だけは性別を変えて偽装しようかと思って」

 そう、と彼女は頷く。そして彼女の爽やかな珊瑚礁の瞳は炎の色と混じり鋭く煌いた。

「でも……それだけではないでしょう?」

 なんだか彼女の目を見ていると、なにもかも見透かされている気分だ。隠しごとができない愚かな性分であることを見破られているようで気恥ずかしい。僕より小さな娘に気圧されていた。

「……否定しないで、聞いてくれるかい?」

 僕の気弱なお願いを、少女は冷たく突き放した。

「さあ、それはどうかしら。私は優しい人ではないから、もしかするとあなたを否定するかもね」

「……結構はっきり言うんだね」

「昔からそうなのよ。私は」

 そう言う彼女の眉間には少しだけ皺がよっていた。遠くを見つめる彼女の表情から、僕が読み取れることは数少ない。結局僕は深く息を吐いて、彼女に言うことにした。

「……僕がやってることは、ただ兄を模倣しているだけなんだ」

「模倣?」

 ビアンカはかわいらしく首を傾げて反芻する。彼女の金のカーテンがさらさらと揺れた。

「うん。わざと兄と似たような服を着て、兄の喋り方をできるだけ真似して、身の回りのものも兄が持っていたものによせて……。本当に、しょうもないことなんだけど」

「なぜそんなことをしているの? お兄さんはお兄さん、あなたはあなたでしょう?」

 彼女の口調は僕を咎めるものではなく、あくまで確認するためのものだった。そのことに僕は少しばかり安堵して、話を続けた。

「僕にも分からないんだ。ただ、兄になりきればなりきるほど、すごく……なんていうかな、安心するんだ」

「そう……」

 彼女は自分の両手を固く握りしめている。濡れた金の睫毛を何度も伏せ、相変わらず感情の読み取れない目で僕を見返した。

 炎の光が、なぜか神聖なもののように思えた。

「あなたは……そうすることで、傷ついた心を癒しているのね」

 言葉を紡いだ少女は一言だけ、

「分かるわ」

と口にした。その言葉は今にも消えそうな、海の泡によく似ていた。すぐに弾けて消えてしまう、海の泡に。

 深い夜に似合いの沈黙が訪れた。しかしその沈黙は重いものではなく、涼しくてひんやりとしていて、心地のよいものだった。夜の静けさが、僕の心を慰めてくれていた。

 ふと、ハツエさんが、ビアンカのことを優しい人だと言っていたのを思い出す。彼女の優しさは傍目では分からないけれど、今僕は感じ取っている。彼女の優しさは花弁のように静かで冷たく、柔らかいものだった。華のような外見に似つかわしい心根の持ち主だった。

 しばらくして、少女は小鳥の囀りに似た声で言うのだった。

「……見せてあげましょうか?」

 突然の提案に僕は固まった。なにを見せようというのだろう。彼女の意図をはかりかねずにいると、ビアンカはやはり有無を言わさない口調で話すのだった。

「会わせてあげるわ。あなたのお兄さんに」

「……え?」

 そう言うなり彼女は椅子から立ち上がって、僕の両目に手をかざす。細い指の間から彼女の姿が見えた。

「目を閉じなさい」

 言われるがまま目を閉じると、彼女の呼吸を身近に感じた。目を閉じた暗い視界の中で、彼女の吐息はよく聞こえる。次第に僕の呼吸と彼女のリズムが合ってきた。

 銀河の世界が瞼の裏に広がる。蒼白の結晶体の群れが暗闇で渦巻いていた。きらきら、きらきらと、白波の輝きが音をたてて迫りくる。無数の星の濁流が視界を襲い、目が眩む間もなく光に飲み込まれていく。目の前の宇宙に言葉を失っていた。

「目をゆっくり開けなさい」

 そのとき、ビアンカの指示が聞こえた。す、と瞼がゆっくり開いていく。薄ぼんやりとした視界では、少女の姿を視認することすら難しかった。

 何度かまばたきすると、視界が明瞭になる。先ほどとは変わらぬ、暖炉の火で照らされた室内があった。

 いや、変わらない、というのは少々違う。先ほどとは目に見えて違う変化があった。

「え……」

 ビアンカの後ろには、端正な顔立ちの、筋肉質の青年が立っていた。いつもは感情の見えないその顔からは、困惑の色があからさまに滲み出ていた。

 それは、僕があの夏の日に出会った青年だった。

 ビアンカに首を横に振って、そしてなぜ彼が見えるのか動揺して、僕は口にするしかなかった。

「この人、兄さんじゃない」

 その青年は、兄のパートナーであった優斗さんだった。

「あらそうなの。残念ね」

 ビアンカは平然と言いのける。

「あなたにずっと憑いて歩いていたから、あなたのお兄さんなのだと思ったのだけれど。確かにあまり似てないわね」

「憑いて、って……え、ええ?」

「要するに幽霊よ。あなたとの繋がりがありそうだったから、その人だけ見えるようにしてあげたわ。感謝することね」

「感謝って……幽霊なんて見たくないよ!」

「だからその人だけしか見えないわよあなたは。関係者なんだから問題ないでしょう?」

「それにしても突然すぎるんですが!?」

 そう言っても、ビアンカはどこ吹く風だ。人に幽霊を見せることができるって一体どういう原理なのか。もしくは幻覚の見える作用の薬を飲ませられたのだろうか。動揺しかできない僕に、優斗さんはどうすればいいか迷っているようだった。

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