在りし日の思い出2
二人が向かったのは若者向けの洋服店だった。この店の品は若者が手を伸ばせるほどの値段で、今はやりのものが多い。間違いなく、兄が普段着ない類の服が売っている場所だった。二人が店の中に入ったので、僕も扉をくぐった。
店の中は煩雑としていて、服をかけてあるスタンドも身長が高かった。少し膝を曲げればなんとか身を隠すことができる。僕は服と服の隙間から二人の動向をうかがった。
「お前ならこれにどんなパンツを合わせる?」
どうやら、兄が青年に相談しているのは、服の着こなしについてのようだった。兄の顔ならどんな服でも似合うだろうに。
青年は兄の容姿を褒めることなく言った。
「そうだな……セツは痩せてるから……黒か、もしくはグレーのスキニーかな」
青年が兄をセツと呼んでいることに困惑しながら聞き耳をたてた。兄はまったく気にしていないのか、もしくは普段から呼ばれ慣れているのか、からからと笑った。
「スキニーって、お前の履いているやつじゃないか。ペアルックなんてごめんこうむるぜ」
「それもそうだな……じゃあこれなんかいいんじゃないか?」
青年がパンツのコーナーで兄に衣類を手渡している。ここからだとそれがどんなパンツなのかちゃんと見えなかった。それを持って兄は試着室の中へと消えていった。
あんなふうにくだけている兄の姿ははじめて見た。
家族ですら見たことのない兄の朗らかな表情を、あの青年が独占している。そう思うと、途端に胸の内がもやもやしてくるのだった。
くる、と青年がこちらを振り返る。慌てて身を隠すが、今度はこちらに向かって歩いてきた。鼓動が早くなり、なんとかその場をやり過ごそうとするが、やはり尾行に気づいていたらしく、青年は僕の前に立った。
「さっきから俺たちをつけているようだが、なにか用か?」
近くで見る青年は、遠目で見るより更に身長が高く、まるで壁を相手にしているようだった。
「あー、えーっと、そのう……」
この状況をどう切り抜けていいのか僕には分からなかった。僕はあまり機転がきくタイプじゃない。しどろもどろになっていると、青年は目を細めて言った。
「セツの妹か?」
「え?」
「思ったより似ているな」
すぐに見抜いた青年の表情は読み取りづらかったが、とても優しい目をしていた。警戒していた僕は呆気にとられて、しばらく彼を見上げていた。
青年は落ち着いた低い声で言った。
「あんたも一緒に来ればいい」
意外な申し出に、一瞬耳を疑った。兄との二人の時間を楽しみたかったのではないのか? それに、
素直についていったら兄は怪訝な顔をするだろう。家に帰ったとき、気まずくなるのは目に見えていた。
「え、えっと、私は」
僕は断ろうとしたのだ。なのに青年は僕の腕を掴んで引っ張っていく。抵抗するわけにもいかずおとなしくついていくしかなかった。そして試着室の前にたどりついてしまった。
「一人より二人。二人より三人だ」
青年に悪気はないのだろう。しかし、兄にとっては三人より二人のほうがずっといいのだと、僕は予感していた。この青年は残酷だと、そのときの僕は思っていた。
案の定、試着室から出てきた兄は僕の姿を認めるなり怪訝な顔をした。叱られるのを覚悟すれば、兄が口を開くより先に青年が話した。
「俺が話しかけたんだ。セツによく似ていたから。聞けば妹だって言うじゃないか」
「……お前はこいつと出会ったのは偶然だと言いたいのか?」
「ああ、そうだ。偶然だ」
兄の鋭い視線に怯むことなく、平然と青年は言ってのけた。僕はただ立ちすくむしかなかったのに、たいした度胸の持ち主だ。二人はしばらくにらみ合いを続けていたが、折れたのは兄のほうだった。
「分かった。お前を信じよう」
ため息をついた兄は不満げだったが、視線は穏やかだった。いや、穏やかというよりは諦めと言うべきか。
青年は僕に左手を伸ばす。笑顔が下手くそな人だった。僕は右手でその手をとった。
「俺は優斗。欅野(けやきの)優斗、だ」
その後、優斗さんのすすめで二人のおでかけについていくことになった僕は、後ろから二人の背中を見つめながら黙々と歩いた。兄は相変わらず不機嫌そうだったが、優斗さんと話しているときはいくらか機嫌がいい。
いいなあ。僕もあんなふうに兄と話してみたい。でもきっと僕には無理なのだろう。
途方もない絶望と哀しみが僕を襲う。それでも、兄が笑っていられる場所があって良かったと思う。
二人の奢りでランチをすませ、ゲーセンに行き、本屋をひやかした。デパートでははやりのスイーツを買った。兄は普段から甘いものをよく食していた。
そうして夕方、唐突に海へ向かった。
夏と言えば海だろう。誰から言い始めたのか分からぬまま、僕たち三人はバスを使って浜辺へとやってきた。海は黄金に輝き、白波がたっている。穏やかな漣が僕たちを出迎えてくれた。
そこでも僕は二人の邪魔にならないよう、後ろからついていった。兄は珍しくはしゃいでおり、時折波を蹴ったりしている。その姿を、優斗さんは無言で見つめていた。僕のいる位置からだと優斗さんの表情は見えなかった。
そうして二人で、黄金の道を歩く。
晴れた夕方、空は奥からどんどんと紫が滲み、夜の気配を匂わせてくる。黄昏時の空気は、夏だというのに冷たかった。夕陽の色に包まれている二人が、黄昏の向こう側に行ってしまいそうで怖かった。
二人は並んで歩く。兄の生白い手が優斗さんの指を弄ぶ。兄の微笑みは夕焼け色に輝いていた。
特になんの変哲もない、男子学生の戯れ。それなのに、その光景に惹きつけられた。そうして僕は、二人の間に揺蕩う関係性に、気づいてしまった。
兄が、唯一の人を見つけられたとしたならば。
僕はなにも言わず、応援したい。心の底からそう思った。
だって兄は、僕が尊敬してやまない人なのだから。
だから兄が間違えるはずはないし、幸せになってもらいたい。それに。
――こんなに美しい二人を、僕は否定できない。
できることなら、優斗さん、兄を連れ去ってくれないか。
僕はずっと、二人の背中を見ていた。白波が星の砂のように、きらきらと輝いていた。
もうすぐ、夜がやってくる。暑かった昼が、終わろうとしている。
僕が知っている二人は、これだけ。それ以降は、優斗さんとたまに話すことはあっても、二人の姿を間近で見ることはなかった。
そうして、僕が大学に入学する直前の春。
二人は凍りつく夜の海に身を投げ、息を引き取った。
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