在りし日の思い出1

「お二方、常に気品を持って過ごしなさい」

 僕ら兄妹の世話をしてくれていた使用人の日向洋子(ひなたようこ)さん……僕は洋さんと呼んでいたが。彼女は僕たちの視線に合わせてそう言いつけていた。

 絵に描いたメイドの作業服を着た洋さんは、母を亡くした僕たちの母親役でもあった。僕たちは財閥の子息として申し分のない教養を身につけなければならなかった。そこまでならまだいいのだが、母を亡くした父は更に頑固になり、特に跡取りである兄の雪月には必要以上に厳しくしていた。それでも兄は弱音を吐かず、反対に父親に出来の良さを見せつけて勝ち誇っていた。僕の目からは、兄は勝気で聡明な人物に見えていた。

 その反面、彼の体躯は痩せ細り、顔色も悪くなっていったと、今なら思い出せる。薔薇色の頬をしていた兄から血の気が失せ、いつも真っ白い唇をへの字に曲げて過ごしていた。その姿がまた妖艶で、儚げな容姿が大人だけでなく子どもをも魅了させた。兄の姿を見た僕の同級生たちはよく「かっこいいお兄さんだね」と褒めてくれた。

 父が厳しくなればなるほど、兄もそれに呼応して僕につらくあたった。それは単に僕が努力をしない怠惰な人間だったからなのだが、当時の僕は兄も父も怖くて、できるだけ息を潜めて暮らしていた。

兄と父のいない日はそれはもう楽園だった。当時、冒険小説ばかり読んでいた僕はよく人の部屋の鍵を針金で開けて歩きまわっていた。洋さんに見つかって怒られるまでがセットだったが、そのスリルを味わいたくて何度も繰り返した。洋さんにとってはどうしようもない悪ガキだっただろう。

 それでも洋さんは僕が鍵を開けてまわってることを兄や父には報告しなかった。なんだかんだで洋さんは僕に優しかったし、僕は洋さんが大好きだった。僕は家を出てもなお、洋さんのことを信頼している。

 では、兄や父とはうまく関係をつくれていたのかと言われると、僕は口を閉ざしてしまう。

 父は僕に見向きもしなかった。兄からも疎んじられていた。僕は二人と食事をしているときにお喋りした記憶はない。いつも重苦しい沈黙が白い陶器の皿に盛りつけられていた。

 兄にどんどん強くあたってくる父を見てきたせいなのか、僕は父が大嫌いになった。かといって兄と仲が良いわけでもなかった。

 ただ、兄は時折、夜にさめざめと泣く僕と一緒に眠ってくれた。

 母が死んでから、稀にだが、夜に情緒がかき乱されるときがあった。僕は母のことを覚えていないが、小さい子どもだったからやはり寂しかったのだろう。そのとき、兄はいつも僕に添い寝をしてくれるのだった。

 なにも言わず、顔色の悪いまま。

 僕の背中を一定のリズムで叩く兄の手は幼い僕には心地よかった。

 兄は勉強も運動もなんでもこなし、賢く、美しい人間だった。兄とは仲良くなかったが、密かに憧れていた。彼は、僕が望む「完璧」そのものだった。そんな手の届かない存在の彼が僕の傍に寄り添ってくれるだけで安心した。

 兄は母が亡くなってからまったく笑わなくなった。

 いつも父の命令に忠実に従っているだけ。家にいるときの兄がなにを考えているのか、僕には分からなかった。



 そんな僕が久しぶりに兄の笑顔を目にしたのは、ある年の夏。僕が中学三年生で、兄が高校三年生の頃だった。

 兄が珍しく友達と息抜きに遊びに行くと言うのでこっそり尾行した。兄はそれまで友達との遊びを理由に時間を空けたことがなかった。疑問に思った僕は、兄に内緒で後ろをついて歩いた。

 じりじりと肌を焦がす、九月はじめの昼下がり。

 駅前で誰かを待っている兄は白いシャツから伸びた手を翳し、太陽を遮ろうとする。僕も兄も肌が白いから、変に焼けなければいいのだが。僕は日焼けどめを常備しているから問題ないが、いつも室内にいる兄は持っているのだろうか。 兄を観察しながら心配した。

 それにしても、おでかけだというのに白いワイシャツとスラックスなのはどうかと思う。あれではただの学生ではないか。 不満に思いながら観察を続けていると、赤いシャツにスキニーを履いた青年が手をあげて兄に近寄ってきた。

 高身長の青年だ。兄と並ぶと体格差は歴然としている。兄もバスケ部の主将だからそれなりの筋肉はあるのだろうが、痩せ細っている兄と比べて青年のほうは骨格がしっかりしていた。まだ幼さが残っているが精悍な顔つきで、なかなかの男前だ。モデルか若手俳優かと思ったが、背が丸まっているところを見るとそうではないのだろうか。そんな見目の良い二人が並んでいると、自然と周囲の視線が集まってくるものだ。

 兄は今でもスキップしそうな勢いで彼の背中をどついた。同じ学校の友達なのか。それにしても、兄が年相応の反応を相手に見せているのははじめて見る。なにもかもはじめての感覚に、胸がどきどきした。

 二、三言話したと思えば、兄が青年の腕を引っ張ってどこかへ向かう。兄の楽しそうに笑っている顔が印象的だった。家では見せたことのない顔だ。僕は慌てて二人の後ろをついて歩いた。

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