呪い
「――っ!」
ハッと目をあけると、見慣れぬ天井が視界に入った。
急に視界が開けて困惑する。確実に碧ばら荘の部屋ではなかった。辺りを見渡すと、どうやら古い洋館の中にいるようだった。目の前には暖炉の火が煌々と燃えている。それ以外の灯は、二つ置いてあるベッドサイドの洋燈だけだった。
ど、ど、と心臓が逸っている。やけに鮮明でリアリティのある夢だった。まるで本当に海の中にいるような感覚を思い出し、身震いする。。
「あら、目が覚めたようね」
声のしたほうに視線だけ向けると、ちょうど小さな人影が部屋の中に入ってくるところだった。
忘れもしない、その美しい人は。
「……ビアンカさん」
名前を呼べば、紫のドレスを纏った少女は顔色一つ変えず答えた。
「よくご存知だこと」
小さな両手で液体を張った洗面器を運んでいる。手伝おうとするが体全体が怠く、上半身を起こすのも一苦労だ。
「病人は寝ていなさい」
サイドテーブルに洗面器を置いた少女はぴしゃりと言う。だるさで反抗する気も起きないのでおとなしく横になっていた。そういえば、身のまわりがやけにさらさらとしている。確認すると、フリルをふんだんにあしらった上品なネグリジェを纏っていた。私服のありかを尋ねると、今は洗濯をしているのだという。ビアンカは小さな唇を震わせた。
「……あなた、女の子だったのね」
彼女が着替えさせてくれたのだろう。僕は男装をしているだけで女であることを隠しているわけではない。「気にしないで」と手を振れば、彼女は神妙な面差しで頷いた。
「どう? 少しは楽になったのではなくて?」
「まあ……苦しくは、ないかな」
あれだけ困難だった呼吸は今やすっかり落ち着いており、酸素を取り込む際の痛みもない。すう、と深呼吸すると、なんだか不思議な香りがした。どこかで嗅いだことのある匂いだ。
「なんだろ……この香り」
「ああ、これね」
ビアンカはセピア色のドレスを引きずりながら、洗面器を置いた場所と反対のサイドテーブルへ向かう。向かったほう、僕から見て右側のサイドテーブルには、長いドーム状の不思議な機材が置かれていた。
彼女は細やかな指でそのドームのスイッチを入れた。すると、ドームの内側がライトで照らされ、世にも美しい光景を見せてくれるのだった。
「わあ……」
ドームの中は、海のような美しい青に染まった。
ドームの中には液体が入っているように見える。ぶくぶくと細かい気泡は上へ昇っていった。そして不思議なことに、そのドームの中にはクラゲや鯨など、様々な海洋生物が棲んでいるのだった。
「これは、海の香り」
彼女は静かに告げ、僕に微笑みかけた。
「あなたから、これと同じ匂いがしていたから」
よく見れば、ドームの天辺から薄い水色の水蒸気が発されている。アロマディフューザーみたいなものだろうか。確かに言われてみれば、浜辺で一身に浴びた風の匂いに似ている気がした。
「ごめんなさいね」
少女は極めて穏やかな声音で謝る。なんのことかと視線を彷徨わせていると、やはり少女は鉄仮面の表情で頷くのだった。
「あなたのこと、臭いと言ってしまって。あのときは腐臭しか感じなかったの。まさかあなたが呪われているだなんて思いもしなかったわ。私もまだまだね」
「……呪われている? 僕が?」
なんだろう。この人の話をちゃんと聞かなきゃいけない気がする。そう思って上半身を起こせば、ビアンカは暖炉の側にあった椅子を持ってきてベッドの傍らに座った。
宝石のように美しいミントブルーの目が、僕をじっと見据える。
「あなた、前からこの症状が出ていたのではなくて?」
「う、うん……そうだけど、なんで分かるの?」
「匂いがするからよ。あなたはなにも感じないのでしょうけど」
首を傾げると、ビアンカは静かに首を縦に振る。
「少し特殊な人間は、『呪い』を感知できるの。あなたはまず間違いなく呪いを保有しているわ」
「呪いだなんて」
突拍子もない話に思わず鼻で笑ってしまう。呪いだなんて、非現実的にも程がある。しかし不誠実に笑う僕を相手にして、彼女は至極真面目な表情で続けた。
「あなたのそれはただの呼吸困難ではないわ。息ができないというよりは……海で溺れている感覚になっているのでははなくて?」
彼女の指摘にどきりとした。
そう、いつも息ができなくなるとき、僕は海の中の世界を見る。水面に浮かび上がれない、海の底に堕ちていくような感覚。そのとき決まって、海の腐臭が肺に広がる。生命の死骸が腐り果てた潮の匂い。それが現実なのか幻覚なのか分からなくなるほどリアルな体験だった。
「確かに、ぼくのこれは普通の呼吸困難じゃない。お医者さんにも診てもらったけど原因は分からなかった。だからといって、呪いだなんて……。僕は、そりゃあ、いろんな人に憎まれてるんだろうけど」
「ああ、そういうことではないの」
「やめてくれよ。慰めなんていらない」
「そうではないの。本当に……。その呪いは、『自分』がかけてしまうものなのよ」
自分がかけてしまうとは一体どういうことなのか。彼女の言っていることは、なんだか訝しい。
「自分がかけてしまうもの……?」
「ええ。私が言っている『呪い』は、自らかけてしまうものなの。他人は関係ないわ」
「一体、どういうこと?」
「過去の出来事がトラウマになった人間には、極稀だけど呪いが発現するの。症状は人それぞれだけれど……。例えば皮膚が鱗になったり、カッターの刃を吐いたりね」
「ええ……」
カッターの刃を吐くなんて、想像しただけでも身震いしてしまう。思わず顔を顰めれば、それが面白かったようで、ビアンカは薄く笑った。
彼女はあまり表情に出ない人なんだなと思った。感情が希薄なのかと考えていたが、実際はそうでもないらしい。ただ、老成した雰囲気の彼女は表情に出すのが少々苦手なのかもしれない。
ビアンカは再び笑いのない朴訥とした表情で言った。
「あなたの症状は命に関わるわ。私ならある程度症状を和らげることができるけど……一体どうしてこんな呪いが? この症状が出始めたきっかけはあるのかしら?」
「きっかけ……」
そんなの、思い当たる節はたったひとつしかない。僕は俯いて、自分の白い手を見つめた。
兄さん。彼のことを思い出すたびに、僕の胸は締めつけられる。手が白くなるほど、力いっぱい毛布を握りしめて吐き気をこらえる。
白くなった手に、柔らかくて小さい手が重ねられた。
はっとして顔を上げれば、気遣わしげな珊瑚礁色の目があった。暖炉の緋を背中に浴びた少女の髪は黄金に輝いていた。
「私に話してみなさい」
彼女の言葉は高圧的で威厳があった。でも、胸が痛くなるくらい優しかった。
僕はとんだ誤解をしていたのかもしれない。彼女の優しさは分かりづらいものだったが、今の僕にはありがたい。
目を閉じて、彼の姿を反芻する。ひどく痩せた体に、青白く光る首筋を思い出していた。
そうして僕は――なぜか彼女に、兄のことを話してしまうのだった。
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