雨の日の逃避行2

「美しいお嬢さん。どうか泣くのをおやめになって」

 美しいお嬢さんとは、僕のことだろうか。当時の僕は今のように男装をしておらず、まっすぐな髪を伸ばし、赤いカーディガンと白いワンピースを着ているような娘だった。自分が美しいとは微塵も思っていなかった。だから虚を突かれてしまい、しばらく婦人の微笑んだ顔を眺めていた。

「ハンカチをとりなさい」

 柔らかく、そして強制力を持った声に、僕は「はい」と返事をしてハンカチを借りるしかなかった。

 婦人の白いハンカチは、触れてみるととても柔らかい。きっと高価なものなのだろう。そんなハンカチを差し出してくれる婦人は、いい人なのかもしれなかった。

 婦人はゆったりとした動作で僕の隣に腰をかける。

「一体どうなされたの?」

「ああ……いえ、その、実は家を飛び出してきてしまって」

 初対面の人に兄を想って泣いていたとはさすがに言えず、しどろもどろになってしまう。家出してきた事実すら厄介な身の上話だと思うが、うまく頭が回らず、そう答えるしかなかった。

 婦人は困惑せず、かと言って大げさに驚くこともなく、湖のような静けさで僕の言葉に耳を傾けてくれていた。

「それで、これからどこに住もうか悩んでいたところなんです」

 すると、婦人は目を細めてにっこりと微笑んだ。

「あら、それなら私のところに住めばいいわ」

「え……?」

 いきなりなにを言い出すのだろう。困惑したのは婦人ではなく僕のほうだった。婦人はそんな僕に臆することなく、自信たっぷりに言い放った。

「私ね、小さな寮、みたいなのをやっているの。あなたも来ればいいわ。部屋も空いているし」

「え……そうなんですか?」

「そうよお。ちょっと待ってね」

 そう言って婦人は小さな黒のバッグからスマートフォンを取り出した。どこからどう見ても後期高齢者である彼女のバッグからスマートフォンが出てくるのは驚きだ。婦人は慣れた手つきでスマートフォンを操作すると、私に画面を見せてきた。

「これがサイトよ」

「サイト……? あなたがつくったんですか?」

「ええ。あまりうまくはつくれなかったのだけれど……どうかしら?」

「そんなことないです! すごく……見やすいです」

「本当? 嬉しいわ」

 褒めたのはお世辞ではなく、純粋にサイトのレイアウトがうまかったからだ。右上に目次ボタンがついている。スクロールして見てみても無駄なところが一切ない。本当に高齢の女性がつくったとは思えない出来だった。感心していると、婦人が画面を見るために身体を寄せてきた。婦人からは陽だまりと草花の匂いがした。

「碧ばら荘というのよ。今は私とあと一人しか住んでいなくてね」

「そうなんですか……」

「薔薇を育てていてね、春になれば一斉に咲くの。良かったらこれから下見でもどうかしら?」

 婦人は白いシャツから伸びた皺くちゃの手で私の右手をとった。歳月を重ねた手はごわごわとしていたが、柔らかな手だった。陽だまり色のハットから見える白髪はふわふわとしている。きっと若い頃は相当な美少女だったのだろう。気品があって、優しい人だった。

 知らない人についていくのは気が引けたが、どっちにしろ住む場所は探さなければならない。結局本州最北端の地にたどり着いてしまったのだから、今更身の安全を考えたところでどうにもならない。僕は彼女を信用してついていくことにした。恐る恐る首肯すれば、彼女はうら若き少女のように目を輝かせて笑うのだった。

「そうと決まったら、早速案内しなくちゃ!」

 それが、僕とハツエさんの出会いだった。

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