雨の日の逃避行

 その日、僕は持てるだけの荷物を両手と背中に抱えて、呆然と新幹線のホームに降り立っていた。

「どうしよう……」

 僕の疲れきった独り言は、駅のホームの喧騒に溶けていく。ホームの中心で立ち呆けている僕を人々は簡単に抜き去っていった。東京とは違う閑散とした駅の様子に、とうとうここまで逃げてきたのだという実感がわく。それは間違いなく恐怖や不安といった感情で、新しい生活が始まる期待なんてものは一つもなかった。

 厳しい父に反抗して家を出て、とうとう本州最北端、青森にたどり着いてしまった。

 犯罪者などは南に逃げるものだとどこかで聞いたことがあるが、僕が選んだのは北の地だった。人間は皆、北の地へ還るという先入観があったからかもしれない。

 恋人とともに心中した兄を、いつまでも「親不孝者」だと罵っている父に辟易してしまったのが家出の原因だ。

財閥の跡取りとして兄の生き方を制限してきたが故の結果だと思わないのだろうか。家には安寧などなく、尊敬していた父からは同性愛者であることを罵倒され、唯一の逃げ場所であった恋人を否定された兄。正直な話をすれば兄が死を選んだのは意外だったが、きっと自分には知らない苦しみが兄にはあったのだろう。僕の前では兄は完璧な人間であり続けていたから、本当のところはなにも、僕には分からないのだが。

 いつまでも死者を踏みつける父の言動に耐えられなくなり、大学も休学して、誰にも言わずに家を飛び出した。兄が生きていれば、「考えなしに動くな」と叱られたのだろうが、その兄はもういない。

 僕はいつもそうだ。考えなしに動いて、後悔して。しかし今回ばかりは後悔などなかった。あるのはこの先自分がどうなってしまうのか、先行きが見えないための不安だけなのだから。



とりあえず雨風を凌げる宿を探さなければならない。僕は震える足をなんとか前に進めた。

 改札口を抜けた先に、景色を見渡せる窓があった。雨が降っているのか、窓には無数の水滴が叩きつけられている。そういえば、こっちの地方は天気が崩れるとテレビが喋っていた気がする。もっとちゃんと天気予報を確認しておくんだった。後悔しても後の祭りだった。

 九月の青森は、東京と比べるとずっと涼しい。加えて悪天候もあり肌寒ささえ感じる。一度暖をとろうと待合室に避難した。

 人は疎らで、新幹線待ちをしているサラリーマンがぽつぽつと見えるくらいだ。九月も後半に差しかかり、旅行や里帰りの大学生などは既に帰っている頃だろう。僕は椅子に荷物を置き、座って一息ついた。

 一息ついて、ぼんやりと窓から見える景色を眺める。東京と比べてなにもない場所だ。建物も人もいない、寂しい場所。そんなところに僕はたどり着いてしまったのだった。

 空虚な時間を過ごしていると兄のことを思い出してしまう。最近はいつもそうだった。

 父と同じく、厳格で、何事にも妥協をしなかった兄。顔色の悪い横顔はいつも白く輝き、背筋をぴんと伸ばしている姿が美しかった兄。

 それでも僕は覚えている。恋人に見せた兄の笑顔を。

 二人のおでかけについていったことがある。嫌がる兄とは違い、快く僕を受け入れてくれた恋人の優斗さんは、いつも無愛想だったが優しい人だった。

 夕焼けに染まる世界で、僕ははじめて見た。

 兄の、心から安らいでいる微笑みを。

 ぼろ、と大粒の涙が溢れた。兄が亡くなってからというもの、思い出すと自然に涙が溢れるのだった。このままではいけないと思いつつも、兄のことを忘れられない。だからこそ、兄に無理強いし、強く非難する父が許せなかった。

 兄がこの場にいたならば、「泣くのは無駄だ」と一蹴するだろう。それでも僕は、めそめそ泣くのをやめられなかった。

 なぜ役立たずの僕ではなく兄が死んでしまったのか。死ななければならなかったのか。

 あの日の朱色に染まった兄の微笑を、兄が亡くなって半年が経っても忘れられなかった。

 俯いて涙をひたすら拭っていると、目の前に白いハンカチを出された。思わず顔をあげると、高齢の女性が僕にハンカチを差し出しているのだった。

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