第2話


 ある日俺がアパートに帰ると部屋に吸血鬼が居座っていた。

 吸血鬼、なのだと思う。不健康そうな白い肌とたまに口から覗く長い犬歯を除けば彼は普通の人間にしか見えない。俺は彼と出会ったその日の内に彼に噛みつかれ、血を吸われた。それ以来、彼は我が物顔で俺の部屋に住み着いている。

 吸血鬼だろうがなかろうが普通に不法侵入だし、すぐにでも俺は彼を部屋から追い出そうとした。だが、何故だかわからないが、彼を部屋から追い出そうと考えた途端形容しがたい嫌悪感に襲われるのだ──強いて例えるなら雨の日にずぶ濡れの捨て猫を見つけてしまって、見て見ぬ振りをして通り過ぎた気分、そんな感覚に近い。

「僕は出来れば君と友好的な関係を築きたい。だから催眠術で無理強いするのは本意ではないのだけど、折角落ち着けそうな住処を見つけたというのにすぐ追い出されてしまっては堪らないからね。君が力尽くで僕を追い出すことがないよう、ちょっとした暗示をかけさせてもらったよ」

 彼はそう言った。彼曰く、目を合わせただけで相手に催眠術をかけることが出来るのだとかなんとか。真偽のほどは定かではない。ただ結果として、こうして俺が彼を部屋に住まわせてしまっていることは確かだった。

「お前って本当に吸血鬼なのか? 犬歯が長いただの人間じゃないだろうな」

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

「いや、今朝お前が寝ている隙に押し入れから引っ張り出して日光浴びせても何ともなさそうだったから」

 その瞬間彼の表情が固まり、食べかけのバタートーストがポロリと彼の手から落ちた。幸いトーストはバターを塗った面を上にしてパン皿に着地したが、彼は目を見開いたままガタガタと肩を震わせて俺を指さした。

「き、きみ、君ってヤツは! なんて、恐ろしいことを……! 君がそんな酷い輩だとは思わなかった。これだから人間は。生命を侵害し搾取することしか頭にないのか! 野蛮だ、なんて野蛮なんだ! もし僕がその時うっかり目を覚ましていたらどうなっていたか。恥を知れ恥を!」

「勝手に他人ん家に居候して飯食ってるやつに言われたくない」

「だからって吸血鬼を陽の光に晒すなんてあまりにも残酷だ!」

「だからちゃんとお前が起きる前に元通り押し入れに戻してやっただろ」

「それはどうもありがとう!」

 彼は怒気を込めた声のまま投げやりな様子で礼を言った。そして思い出したようにバタートーストを口に突っ込んでもっしゃもっしゃと咀嚼する。陽の光を浴びせたことを残酷だの野蛮だのという割には随分と元気そうだ。

 部屋の外に追い出すのがダメなら陽の光に当てるのはどうだろうと軽い気持ちでやったのだが何も起こらず、彼は気持ちよさそうに眠るばかりだった。小一時間は陽の光に当てたはずなのに彼は灰になるどころか日焼け一つしちゃいない。

「別に火傷もしてなさそうだし、陽の光の何がダメなんだ?」

「陽の光を浴びたからって灰になったりはしないさ。ただ僕らの瞳は繊細でね。光の届かない真夜中でも辺りを見通すことが出来る代わりに、太陽のような強い光を目にすると失明してしまうんだ。だから昼間に活動することができないのさ」

「モグラみたいだな」

「せめて蝙蝠みたいだと言ってくれないか」

 モグラもコウモリも大差ないように思えるが、彼にとってはモグラ扱いされるのが不服らしい。

「そんなに文句ばかり言うならさっさとここから出ていけばいいだろ。寧ろ出ていってくれ」

「断るね。君の血液は非常に美味なんだ」

 彼はバタートーストを綺麗に食べ終えると、ご馳走様、と言った。人のことを野蛮だのなんだのと罵った割には、こういうところは何故か律儀なのだ。自称吸血鬼、不法侵入者、彼の素性も名前もさっぱりわからないが、存外育ちは良いのかもしれない。

「規則正しい食生活を送っているようだし体格が良いから血液量も多い。別に僕は君を傷つけたり殺したりするつもりはないんだ。君に迷惑をかけるつもりもない。そんなに邪険に扱わないでくれないか?」

「お前の食費や生活費を俺が負担してる時点で十二分に迷惑なんだが」

 トーストを囓ったり割と簡単に陽の光に晒せたり、漫画やフィクションの世界などでよく目にする姿と比べて随分と間抜けな気がするが、一応彼は吸血鬼らしく定期的に食事と称して俺の血を吸う。死ぬほどの量ではないが、貧血でしんどくなる程度には吸われる。なので俺はなるべく血以外で彼を満腹にさせようと日々奮闘している。

 彼は好き嫌いが激しいがそれを指摘すると心外だとばかりに否定してくる。吸血鬼なのだからそもそも血液以外のものを口にすること自体不自然な行為なのだとかなんとか。

「……食費なら無理に出してもらわなくとも、僕は君だけで事足りるのだけどね」

 ぽつり、と彼が呟いた。はっとして俺は彼の方を見る。まずいと思ったときには遅かった。

「トーストをご馳走してくれたのはありがたいが、……すまないね、君の血の味を思い出したら喉が渇いてしまった」

 彼が舌なめずりをする。逃げなければ、と思うのに、何故か体が動かない。片手で軽く頭を引き寄せられ、首筋に鋭い痛みを感じる瞬間、俺は否応なく思い知らされるのだ。

 あぁ、彼は本当に吸血鬼なのだと。

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