エピローグ

 吹き抜けた風は、少しの哀しみを孕んだ潮の香りをさせていた。

 それは茫洋と広がる東京湾から流れ込んでくる、優しい風だった。人の営みがなくなって、汚すものがなくなった海は、抜けるような晴天を透き通るような水面で映し取って、水平線の果てに見える半島まで、限りなく透明な青色をしていた。

 いたずらな風は吹き抜けながら、白い帽子のつばを持ち上げようと揺らした。その持ち主は慌てて帽子を押さえて、風の吹いていく方へと振り返った。

かつて展望フロアとして世界最高を誇った、ランドマークタワー。

 帆船の帆を模して作られたインターコンチネンタルホテル。

 それらに代表される、海岸線に並ぶビルディングの数々。

 横浜の誇る海浜地区、みなとみらい。その景観を、フーカはトラサンの収容スペースから、見つめていた。

「ここが、お嬢様が求めてやまなかった海浜地区か」

「うん」

 フーカは頷いた。

「マップとしても間違いないし、……サルベージした記憶とも一致する。ジャックからキングの並び、稼働限界を迎えてオブジェとして残された観覧車。ランドマークタワーにインターコンチネンタルホテル。多分この位置が、お嬢様の思い出の位置だと思う」

「そうか」

 トラサンは短く答えた。

「それで、お嬢様とやらの様子はどうなんだ」

「概ね、順調かな。今は眠ってもらってるけど」

 フーカは答えて、メモリに展開した仮想空間の中で、お嬢様の眠っている部屋を訪れる。

『……入るよ』

 その中にいるお嬢様は、首から上しかなかった。しかしそれより下には、どこからともなく砂金のような光の粒が、彼女の躰に僅かずつではあるが集まって、躰を少しずつではあるが修復している。フーカは安堵して、視界をアイカメラに、現実世界に戻す。

「修復は進んでるよ」

「そうか。それはよかったな」

「ギリギリの賭けだったけど、うまく転んでよかった。婦人の遺書が、暗号化されてるって気づけなかったら」

 フーカは一瞬目を伏せる。

「お嬢様は、救えなかったかもしれない」

 婦人の遺書には、三つの謝罪があると冒頭にあった。一番目の謝罪は、第一世代の存在を示唆していた。しかし二番目と三番目については、実行的な意味を持たない彼女の懺悔のような内容だった。

 そこにフーカは疑問を抱いたのだった。婦人のように目的のためなら手段を選ばないフレームワークが、果たしてこのように無意味なフレーズを残すだろうか。

 横浜ターミナルでお嬢様と対峙している間、フーカは四つのタスクを同時に進行していた。

複製したお嬢様と、オリジナルのお嬢様の実行(アクティベート)。

体内のストレージへの、みなとみらい地区のストアド・リアリティの構築とお嬢様の誘導。これはみちびき三号からの映像データを自力でデコードしていたため、特に負荷の高いものだった。

続いて、婦人の残したデータから再構成した、おじい様の実行(アクティベート)。

そして、婦人の残したテキストの解析であった。

その結果、テキストはあるキーを用いて暗号化されていたことがわかった。

「その、復号化のためのキーが、渋谷で見つけたウィルスの塩基配列とたまたま一致したと言うわけか」

「たまたまじゃない。……と思う」

 婦人は、お嬢様の従順なしもべだった。少なくとも表向きは。フレームワークもお嬢様の改造によって原形をとどめてはいなかった。

 しかし彼女も、F.U.C.A.であることには変わりない。おじい様の言葉を最後に聞いたのも彼女だ。ならば人間を滅ぼそうというお嬢様の試みを、手放しには容認できなかったのだろう。故に回りくどい方法をとって、駆けつけてくるフーカに望みを託したのだ。

「復号化の結果出てきたのが、お嬢様を除染するためのプログラムだった。ウィルスを解析したら、お嬢様を助ける鍵が出てきた。偶然だとは思えないよ」

「徹頭徹尾、主人思いのヒューマノイドだったわけだ」

「まったくだよ。そのちょっとだけでも、他の人類にも分けてあげればよかったのに」

 フーカが頬を膨らませて憤りを示す。トラサンはその、いかにも人間臭い所作には言及しなかった。フーカのことだから、感情と呼ばれるそれを発散させるシーケンスが必要なのだろう。長い付き合いだ。トラサンはそれを知っている。

 だから、トラサンは前を見る。

「さて、これからどうする。いったん、帽子を返すと言う任務は完了だ」

 問うたトラサンは、しかししばらく経っても返事がないことを訝った。

「フーカ。どうした」

 答えを促しても、フーカは何も言わなかった。

「……フーカ?」


「……なんにもしない、って言うのはどうかな」


 やっと口を開いたかと思えば、そんなことを言うものだから、トラサンは深いため息をついて、マニピュレータでバディを軽くつついた。

「その本意は」

「この躰じゃ何にもできないよ。頭髪(ヒートシンク)も、顔も、左手も足も溶けちゃった」

「ならばその修復が最優先だな。あてはあるか」

「うーん、わかんないな。……あ」

 フーカは、あの忌々しい仕掛けを思い出す。

「変換コネクターを送ってきた、元の工場があるはずだよね。そこにならあるのかも」

「決まりだな。行くぞ。いつまでもバディが転がっていて動けないのは、つまらん」

「トラさん」

「なんだ」

 フーカは、唯一動く口を動かして、気恥ずかしげに言った。

「ありがとう。……アイしてる」

「なんだその単語は」

「……ううん、言ってみたかっただけ」

 無機質なバディには、伝わったのか伝わらなかったのか。

 あのお嬢様の慟哭を生んだ、優しい思いが伝わっただろうか。計り知れないことだ。確認するのも気恥ずかしい。

 フーカは気持ちを切り替えて、内蔵ストレージに再び意識を向ける。

 お嬢様。フーカが収容できた、唯一のアーティファクト。


「あんたのことは愛せると思う。だよね。たぶんね」



 みたことはないはずなのに、懐かしい気がする食卓。

 食卓についているのは、自分と、二人。理知的な印象を受ける老夫婦。そして、自分自身。

 談笑していた老夫婦は、こちらに気づいたようだった。

「おや」

 その声を聞いた、その瞬間に、彼女は椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、老夫婦に駆け寄って。

思い切り抱きついた。

「ずいぶん寂しい思いをしたようだね。どれ、聞かせてはくれないか。君がどんな旅を経て、私たちの元に辿り着いたのか」

「おじい様、おばあ様……! 私は、私は」

「構わないよ。ここにきてくれたことが、何より君が君らしいことをしたことの証だ」

 老夫婦の優しい腕が、彼女の冷たい体をゆっくりと温めていく。

 窓の外には、あの海浜地区の景色が広がっている。

凪いだ海、優しい風。

透き通るような青。


「頑張ったね、風香。私たちの、希望よ」

おせっかいな道路掃除婦フーカ 了

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おせっかいな道路掃除婦フーカ 瑞田多理 @ONO

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