第八章 愛
『お嬢様! 何をしようとしているか、本当にわかってるの!』
フーカはお嬢様の襟首をつかんで迫るが、お嬢様の反応はどこ吹く風だった。もう自分の役目は終わったといわんばかりに、安堵のため息。
『もちろんよ。鳥かごに囚われた哀れな人たち。解放してあげるの』
『それがどういう意味か分かってるの。皆殺しにするってことだよ!』
『殺し? ……そう、フーカ。貴女の人類の定義は、もう更新されてしまったのね』
フーカは激高する。
『そうだよ。あんたのために更新した。だから私は、あれを止めに行く』
お嬢様を突き放して、フーカは紫色の瘤に追いつこうとする。しかしそれは、生半可にはいかなかった。瘤自身が、フーカの接近に対してきわめて強固な防壁を大量に展開しているのである。その強固さたるや、一枚の突破には第三世代のファームウェア書き換えよりもはるかに多いリソースを割く必要があった。
それでもフーカに撤退という道はなかった。
『くそ……っ、どけ、どけ!』
真っ赤に髪を振り乱して、追いすがらざるを得なかった。
あれを通してしまったら、電子人類はすべてこの世界から消滅してしまう。
婦人が設計し、お嬢様がその身に抱いていたウィルスは、三つの機能を持っていた。
まず、ターミナルが持つ強固な攻性防壁を無視して侵入できる、歌の経路に自身を複製する機能。これを以てウィルスは、ターミナル内部に侵入する。
次に、ネットワーク上で検出可能なストレージすべてに自身を複製する機能。これを以てウィルスはすべての電子人類に感染する。
ターミナルから流れる子守唄に擬態したそれは、ターミナルのレイヤーでは防ぐことができない。気づけるとすれば奇跡の海のほうだ。それが異常を検知することができれば、自由が丘ターミナルがそうされたように、ネットワークを遮断し自爆させることでほかのターミナルを守ることができる。
そうさせないための仕組みが、最後の機能だった。
『一つのターミナルに配備されているストレージは、およそ五万個程度。その中におよそ一千万人が格納されているわ』
お嬢様の、笑いを抑えきれない声が届く。
『おじい様のおっしゃる通り、とこしえに続く命を得て電子人類は外に興味を示さなくなった。ターミナルが流している子守唄はその状態を維持するためのものよ……念のための、セーフティネット』
フーカには返事をする余裕などない。ウィルスを追ってさらに深部へと潜っていく。
遠くにうすぼんやりと、巨大な門が見える。おそらくは、ターミナルの入り口。
『うふふ。さぁ、フーカ。いうなれば実行ファイルであるところの電子人類……今はストレージのなかで眠っているけど……。一千万もの巨大な実行ファイルを一斉に実行したことはある? 奇跡の海は、耐えきれるかしらね? この負荷に』
ストレージに存在する電子人類を、実行ファイルとしてメモリに引きずり出す。それが最後の機能だった。
お嬢様の問いに答えるまでもなく、たとえ奇跡の海が持つ処理能力をもってしても、それを処理しきることは不可能だ。お嬢様一人分ですらフーカが三十年間ため込んできた膨大な映像データと引き換えにしなければ格納できなかったのだから。ましてやストレージ一つ分ともなれば、メモリ上に展開するなど到底考えられない。
ウィルスが横浜ターミナルに到達すると、ターミナルはすべての人類を保護するべく冗長化されているので、すべての人類がストレージからメモリに引きずり出される。そのメモリとは、冗長化ストレージであるところの奇跡の海が持つそれだ。
横浜ステーションからの一撃だけならば、致命的な破損は免れるかもしれない。しかし、ほんのわずかな間かもしれないが、処理が停止する時間が生じる。その隙にウィルスは、冗長化ネットワークを介して全国に広がる。全国のターミナルから、一斉に同等のメモリ負荷が生じてしまったら……機能停止は免れない。
『完璧だわ、婦人。貴女を犠牲にしただけの価値はあったわ。だって、見て。あのフーカが、あんなにてこずってる!』
フーカとウィルスの間の距離は、手を伸ばしたその時から変わっていない。むしろ、少しずつ離されているようにすら見える。フーカは真っ赤に髪を燃やしながら奮闘しているが、それは実るまい。
『フーカ。ここから見下ろしている分には面白いのだけど……無駄なことはやめて。もう貴女にはどうにもできないの』
『そんなことない……! 絶対に』
『いいえ、無理よ。だってあなたからのアクセスだけは絶対に遮断するように作ったもの』
お嬢様は冷ややかに言った。フーカは振り向かなかったが、ウィルスを追う足を止めた。
『……婦人か。抜け目ないね。自由が丘の暗渠で襲撃を受けて、私からデータを抜こうとしたときだね。MACアドレスとか、通信の暗号化プロトコルとか。私の個体を識別するIDを全部抜いたんだね』
『そうよ』
『完全に拒絶したつもりだったけどな。F.U.C.A.相手だとそうもいかないか』
『私がそういう風に改造したのよ。貴女と違って、攻性の電子戦に特化させたの』
『周到な用意だね。でも婦人はそのせいで、索敵や協働のための通信ができなかったんだね。だから、どうしても追加で一体F.U.C.A.が必要だった。それが、私か』
フーカの赤髪が、その先端から色を失って白髪へと戻っていく。お嬢様はそれを見て、満足げに腕を組んだ。
『諦めてくれたのね』
『……』
フーカはすぐには応えなかった。
振り乱した白髪の間に、顔が隠れて見えない。
お嬢様は、目的の完遂を確信した。この場に居合わせたフーカが、必要よりもはるかに電子戦に強かったことには肝を冷やしたが、それも婦人の慎重かつ完璧な設計によって退けることができた。
もう、あれを止められる存在はいない。
お嬢様は天を仰いだ。感謝を叫ぶために。
その時だった。
『お嬢様。海が見たいって言ってた、あれはウソ?』
『……は?』
フーカが、お嬢様に語りかけていた。きわめて平坦な、何の感情もない声で。
『答えて。私のロールと、存在意義とを、最初から利用するつもりだったってこと』
『この期に及んで何を。そうよ。……正確には、第一世代の火力を突破して、これにアクセス可能であればなんでもよかった』
『どこからどこまでが、本当のことなの』
『どういう意味』
『最初から行くね。帽子をなくしたっていうのは』
『本当よ。イエス』
『おじいさんとおばあさんが私を作ったっていうのは』
『イエス』
『彼らが電子化を拒んだっていうのは』
『イエス。そうじゃなきゃ私はここにいないわ』
『じゃあ……お父さんとお母さんはどうして亡くなったの』
『ありふれた病よ』
『ウソはやめて』
フーカが鋭い声を出す。
『ノイズが乗るからすぐにわかるんだよ。それで、どうして』
『殺した』
お嬢様は開き直ったのか、あっけらかんと答えた。
『あなたを発見した六の隊長が、父よ。彼には帰投を許さなかった。だから表を巡回していたロボットに、きっと殺されたのでしょう。暗渠が発見されたのは、あれが最期に吐いてしまったのでしょうね。本当、死に際まで自分のことばかりで浅ましい男だわ』
『お母さんは』
『母は私を産んだ時に、失血でこの世を去ったと聞いているわ。それ以上のことは知らない』
『自由が丘ターミナルへのアクセスに失敗したのは?』
『イエス。前にも言ったわ。自爆シーケンスに入ったのは奇跡の海からの指令で、私たちのせいじゃない』
『じゃあ、あの時ターミナルにいた生身のみんなを、電子化させてあげるつもりはあったの』
『……イエス。装置が残存していれば電子化する予定だった。爆弾は多いほうがいいから』
『そう。最低』
『どうとでも言いなさい。私は』
お嬢様はそのとき、自身の視界を疑った。一瞬、フーカの躰がぼやけたような気がしたからだ。
『どうかした、お嬢様』
『フーカ、何をしているの』
『何もしてないよ』
フーカは、前髪を掻きあげて、何ともない風に答えた。
外皮が溶け落ちた金属質の顔を顕わにして。
『……馬鹿な、放熱を顔面から』
『何もしてないよ。私はね』
答えるなり、フーカの頭髪が、これまでにないほどに熱せられる。それは赤を超えて、むしろ白。発光しているのだ。あまりの処理負荷に、間に合わない熱量によって。
その処理結果は、フーカの背後を疾走していた。
美しい黒髪に、いまにも折れそうな細い腕と足。美しく整った相貌。しかしそれは、涙の痕に歪んでいる。
『……まさか』
『今閃いたんだ。お嬢様一人ならメモリに展開できた。だったら二人目も行けるんじゃないかって』
『まさか、私を複製したの』
『完全な複製じゃないよ。そしたらウィルスが二倍になるだけ。私がコピーしたのはね』
フーカの頭髪はもはや燃え上がり始めていた。フーカはそれに意も介さず、焦るお嬢様の目をにらみ返して言った。
『海が見たいって。おうちに帰りたいって、言った。人間のあんただよ。ウィルスのあんたじゃない、おじいさんとおばあさんが好きで、お父さんのことはちょっと嫌い。でもみんなに天国を信じさせて導いた、人間のあんただ!』
ウィルスはすでに、ターミナルの正面にたどり着いている。しかしその直後に、お嬢様の複製が、涙を振り乱しながら追いすがっている。
複製がウィルスを抱きとめる。その進行を引き留めて、停止させる。
「お願い……行かないで。私は、違うの。そうじゃないの!」
『今の会話は、私の組成を走査するための時間稼ぎ』
『そうかもね。時すでに遅し、だけど』
『くっ……!』
お嬢様は敗色を悟り、突破口を探す。当然、複製を消せばよいという結論に達し、膝をついたフーカを置き去りにして飛んだ。瞬きをする間にそれはお嬢様の複製に追いつき、自身の持つ人類起動作用によって複製を多重起動する。そうすれば、フーカは限界を超えて熔解する。それで勝利だ。
その、はずだった。
疾駆するお嬢様の視界を、ふわりと横切るものがあった。
真っ白な、つばひろの帽子だった。
「……え」
それを追って顔を上げたお嬢様の、耳に飛び込んできたのは潮騒。目に飛び込んできたのは、視界の上下に広がる青の世界。
かつて展望フロアとして世界最高を誇った、ランドマークタワー。
帆船の帆を模して作られたインターコンチネンタルホテル。
それらに代表される、海岸線に並ぶビルディングの数々。
あれほど見たいと望んでやまなかった、祖父母の育ったみなとみらい地区の光景が、電子の地平いっぱいに広がっていた。
「……なに、何が起きたの」
こんなことが可能なのはフーカだけだということはわかっている。お嬢様が混乱しているのは、フーカの意図が読めなかったからだ。体の組成が読めるのであれば、それを破壊するウィルスを作成するのも容易なはずであった。お嬢様は瞬時に意味をなさない電子データになっていておかしくなかった。そうしなかったのは、いったいなぜ。
「フーカ、フーカ! 出てきなさい。貴女の仕業だってことはわかってるのよ」
それは唯一の、お嬢様にわかっていることだった。逆に言えばそのほかのことは一切わからない。
この景色にしたってそうだ。フーカがこれを見せているのだとしたら、これだけの解像度を持つ映像のデータソースはいったいどこにあるのか。最も安直な答えはストアド・リアリティの投影だが、あり得ない。その仕組みについては婦人から聞いて知っていた。奇跡の海が、敵として認定したフーカに情報を渡すとは思えない。
風が吹き、お嬢様の長い黒髪をなでた。潮騒が聞こえる。そのいずれもループしている様子はない。まるで、現実の模倣をしているかのように。
唯一物理法則を無視しているのは、歩道にたたずんでいる真っ白な帽子だった。
それは、お嬢様がなくし、フーカが持ち帰った帽子に相違ない。しかし時折吹く風に対して微動だにしない。まるでお嬢様が近づいてくるのを待ち構えているかのようだった。
罠か。それとも。油を売っていては勿体ない。もう一人のお嬢様は、せっかく送り込んだウィルスを消し去ってしまうだろう。そうなったら、もう一度やり直さなければならない。
「……っ、ちっ。乗るしかないってわけね」
お嬢様は一歩ずつ、白帽子に向かって近づいていく。
すると、これまでになく強い風が後ろから吹きこんで、それに乗っていくかのように白帽子が飛んだ。
「近寄らせたくないってわけね。何らかのキーと見たわ……。捕まえてやる」
お嬢様が舌なめずりした、その直後だった。
『この、ヒューマノイドを創造する業界で過ごしてきて、ようやっと分かったことがある』
お嬢様の祖父の声が、突如耳元でささやかれた。
「なっ」
『人は、人間は。死ななければ行動できない。逆説的に、死を起点に逆算することが、思考力と行動力を生み出しているのだ』
それは周囲を警戒するお嬢様の動作とは関係なく、ただ再生されているだけのように思えた。お嬢様はそれで、すべてに合点がいったのだった。
「……意趣返しってわけ。私の記憶を覗いたわね、フーカ!」
疑問は残る。地図でしか知らないみなとみらい地区をこれほど鮮明に映し出すことのできるデータソースは依然不明だ。しかし帽子も、祖父の声も、お嬢様の記憶に或るものと相違ない。したがってそこからとってきたものであるならば、耳を貸す必要はなかったし、追う必要もない。
髪が燃えるほどの高負荷処理を行っているフーカを自壊させる手段は、常にお嬢様の手の中にあった。ほかならぬ電子人類である自分自身を多重起動すればいい。第一世代の中にお嬢様が一体でも残っていれば、フーカが壊れてお嬢様のデータが消失しようとも大望は果たされる。
「そうよ、おじい様の言う通り。人間は死ななければならないわ。子守唄の中で眠りこけている電子人類の醜態がまさにその証左よ。機械にその命を預けた時点で、人間から檻のなかの愛玩動物になり下がったんだわ」
自己複製が完了していることは、フーカの腹から出てきたときに確認している。後は起動するだけ。その一言を挙げるだけ。
「さぁ、目覚めなさい……!」
だったのに。
『だが、目覚めの時は今ではないぞ』
「……え?」
記憶に一切ない一説を、祖父の声が読み上げた。否、意思を持って話している。そうでなければ、フーカへ語り掛けるようなこの口調は存在しえない。まるで額を抑える渋面が浮かんでくるかのようだ。
「おじい様?」
『……フーカ、よくやってくれた。よくぞこの子をここまで連れてきてくれた』
「なぜ、嘘よ。嘘よ! どうしてあなたがここにいるの、おじい様」
その声は実体を持ち、風を束ねるように収束してその姿を現した。
あのモノクロ写真にあった老紳士その人が、飛び去ろうとする白帽子を捕まえて大事そうに胸へ抱いた。
『本当に、よくやってくれた』
「……わかったわ。これもフーカの幻影ね。舐めないで。この程度で立ち止まるくらいなら」
『最初から穴倉の中で死を待っていた、かね?』
十メートルほど先に現れた紳士は、その一言を皮切りにお嬢様のほうへと歩み始めた。レンガ舗装の道に、足音が響く。
「そうよ、婦人を介しておじい様が教えてくださったんだわ。人間は死ぬべきだって。そうでないと天国には行けないって! 私にとってのおじい様はそれが最初。それが最後! 今更現れた幻影なんかにほだされたりはしないわ」
『そうか……F.U.C.A.のストレージに欠損があるなど、設計上はあり得ない』
「そうよ。だから婦人は」
『ならば、婦人はロール・クリアランスに従って、それを消去したのだろうな』
老紳士は歩きながら指を鳴らす。すると彼の脇に、四角く映像が映し出される。それを一目見て、お嬢様は息をのむ。
どことも知れないビルディングの一室。申し訳程度に設えられたベッド一式。その上に横たわっているのは、やせ細り、息も絶え絶えな。
「……おじい様、ご自身の、今わの際」
『婦人は、良いパートナーだったろう。君の言葉をよく聞き、君の言葉には何でも従っただろう。それが、私が書き換えたロール・クリアランスだったからだ。『孫娘を支えてやってくれ』というのが』
老紳士はゆっくりと、しかし確実にお嬢様へと接近している。しかしお嬢様は、避けも、隠れもしなかった。正確には、できなかった。祖父の臨終に、目と心を奪われてしまったから。
「おじい様……、これから、亡くなられるの」
『少し、複雑な気分だな。うれしいような、悲しいような。私がこの世を去っていることは過ぎ去った事実だというのに、今こうして孫娘に、改めて看取ってもらえるとは』
「黙って。何かおっしゃっているわ」
老紳士はそれで、ぴたりと足を止めた。臨終の床にある老人が漏らす声を、聞き漏らすまいと耳をそばだてるお嬢様を気遣って。
《婦人》
《はい》
息絶える際。吐息のような声。婦人はそれを、間違いなく聞き取ったに違いない。
《……謝っておいてくれないか》
「……!」
《もうこの世を去ろうというときに、浮かび上がってくるのはあの子のことばかり……。私が電子化の列に並ばなかったがばかりに生まれ落ちた、可哀想な子。だが…………それゆえに、まばゆい希望の光》
せき込む老人。
《こうして死を目の前にしてしまっては、できることは悔悛……ばかりだ。だが、婦人。どうか伝えてくれ。生まれてきてくれてありがとう。私の光。この荒れ果てた地に舞い降りた天国を告げる使い。
そして、どうかこれからの生を呪わないでくれ、と。これを伝えてくれ。あの子のことを思っているおかげで、こうして、こうやって、心穏やかに》
ひときわ大きな咳。老人の全身から力が抜ける。婦人は、指示通り微動だにしない。
最期の、一息。
《……死してなお、永遠に生き続けられるのだ》
映像はそれで途絶えた。
「なによ……」
『……泣いてくれているのかね』
「ええ、そうよあまりの情けなさに!」
お嬢様は老紳士に駆け寄って、その焦げ茶色をしたジャケットの襟をねじり上げた。
「死ななければ人間足りえないのではなかったの!」
『そうとも。そのことに二言はない』
「ならその口で、どうして」
お嬢様は涙で閉ざされた口を、思いきりこじ開けて叫んだ。
「その口でどうして永遠を語るのよ!」
『その涙が、何よりの証だ』
「意味わかんない! わかんないわ!」
お嬢様は老紳士の胸に顔をうずめた。電子存在であるにもかかわらず、それは糊がきちんと利いていて、几帳面であったおじい様らしい装いだった。
「永遠を生きることを、否定するために! 私はずっと、ずっと!」
婦人と邂逅して、あの暗渠に父親と流れ着いて。
「みんなを巻き込んで、天国があるなんて嘘までついて!」
ターミナルを襲撃して、爆破して。
「そのために生身の体まで捨てて! 天国への鍵を捨ててまで、私は、私は! 戦ってきたっていうのに!」
細い腕とか細くなっていく慟哭が、老紳士の胸を打つ。
「わからないわ! おじい様がこうやって、私を待って永遠を選んだのはいったいなぜなの……!」
老紳士はそう言われた瞬間、お嬢様の体を強く抱きしめた。お嬢様は体をこわばらせたが、すぐに老紳士の、これも折れそうな細い腕に身をゆだねる。
しばらく、お嬢様がすすり泣く声だけが、潮騒にのみ込まれて消えていった。
『直接会うことは、今までついになかったが。こうやって機会をもらえたことは、感謝しなければならないな』
小さな、低いところにあるお嬢様の頭を、老紳士は優しくなでる。
その足元から、ゆっくりと金色の風となって消えながら。
『それは婦人からは、どうしても教えられなかったことだ。人間と人間が生きていれば自然と生じて、つながりを作って、時に切り離しては人と人との営みを、永遠につなぐもの』
お嬢様のほうもまた、足元から金色の砂粒となって風に乗り、海へと消えていく。互いに、そうやって訪れる終わりなど意にも介さない。
「おじい様……寂しかった」
『そうだろうね。すまなかったね』
終わりは、老紳士のほうから訪れる。お嬢様を抱きしめる腕が消え、胸まで消え、口が消えるその直前、彼は、おじい様は。
この上なく優しい声で、そういったのだった。
『愛している。風香』
誰もが持つ、天国への鍵を。
お嬢様は涙を隠そうともせず答えた。
「私も、といえばいいのかしら。おじい様」
老紳士は声を出せなかった。しかし、最後に残った目元は、慈しみに満ちたほほえみを浮かべていた。
それもすぐに掻き消えた。
残されたのは、静寂と、消えゆくお嬢様の躰。
「最後に、卑怯だわ。フーカ。こんなの」
大粒の涙。それも金色(こんじき)の粒子となって風に乗る。
「……こんなんじゃ、死んでも死にきれないじゃない」
そのただ一言だけを残して。
お嬢様は一陣の風となって、消え去った。
†
壮絶な射撃戦の果て、趨勢はT.L.A.-006のほうに傾きつつあった。彼の射撃は執拗なまでに正確で、留まるところを知らなかった。誰の手によるものか、アーティファクトの収容部を廃してまで搭載した数多の火器が、第一世代を追い詰める。射撃体勢に入った砲塔は、即座にT.L.A.-006の攻撃対象になり、対物ライフルやロケットランチャーの餌食となった。
今や第一世代の躰は、無事なところを探すほうが難しい。崩落は時間の問題と思われた。
『遂行。遂行。任務遂行。進行度、およそ九十パーセント』
T.L.A.-006は接近していく。第一世代の心臓を、撃ち抜くことができる距離へ。
ターミナルを自爆させるための火薬庫。それを撃ち抜くために。
『自己防衛……放棄。より上位のロール・クリアランスが存在する』
捨て身の弾丸と化したT.L.A.-006は、もはや多少の被弾すらものともせずに突撃する。
他の兵装はすべて撃ち切った。残るはボロボロになったブレードと、虎の子の九連装ミサイルランチャー。
『僚機』
背後から飛来した第一世代からの誘導兵器に、T.L.A.-006はブレードを投げつけ破壊。その爆風を受け加速。ミサイルランチャーを構える。
『観測不能かつ応答不能と思われるので、当機が代弁するものである』
射出。九本の凶弾が、糸を引きながら第一世代の心臓へ迫る。
避けようもない。それは、互いに。第一世代の巨体を丸ごと吹き飛ばすような爆発に見舞われては、たとえいかなる装甲を備えていたとしても……。
『僚機。僚機とともに職務に当たることができて、当機としてはこの上ない光栄であった』
着弾。爆発。
『ゆえに、当機はその継続を強く望むものである。僚機、どこにいるのか。天国という場所にて、任務を遂行中か』
牙をむいた火が、まるで蛇のように第一世代の装甲を食らいながら、火薬に至る。
『ならば』
着火。
音よりも早い衝撃と、まばゆい光が、T.L.A.-006の装甲を打つ。
『当機は、僚機のそばに向かうものである。それが、当機のロールである』
轟音が追い付いた。
そのときには、かつて横浜と呼ばれていた都市は、文字通り真っ赤な火の海と化していて。
何物も等しく、炎の下で焼かれていた。
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