第七章 役割

 川を渡ったフーカたちは、お嬢様の指示の下、線路沿いに南下の一路を辿る。お嬢様が抱く最後の希望である、『みなとみらい地区を見てみたい』という願いを叶えるためだった。

 すでに一つのターミナル――武蔵小杉ターミナルを通過している。大した戦闘は発生しなかった。フーカたちが身を切る体で採択した、通信ポートを塞ぐ作戦が大いに功を奏した形になる。

フーカはそのことに安堵しながらも、哨戒と、それから警戒を怠らない。みなとみらい地区に至るまで通過しなければならないターミナルは二つある。菊名ターミナルと、恐らく最も困難な通過点になるであろう横浜駅周辺だ。かつて神奈川県と呼ばれていた自治体の中でもっとも大きな規模を持っている。当然配備されているロボットの数も、恐らく質も、これまでとは比べものにならない。

その上、お嬢様が言うには、菊名から横浜に至る過程でフーカたちが道しるべとしている線路は地下へと潜る。フーカとトラサンの意見は、この点を巡って、アプローチは違えど一致する。線路伝いに進むのは、危険に違いない、と。

「トラさんもやっぱりそう思うよね……。どう考えても、たくさんのロボットが駅で待ち伏せしてる」

「そう考えるのが妥当だろうな。連中の当座の目標は俺たちの排除だが、根本的なロール・クリアランスはターミナルの保護にある。その警備が薄くなっているとは、考えにくい」

「正面突破は?」

「ネガティブ。先ほど痛感したが、敵の密度が上がれば前衛のロボットを盾にすることで活動可能性を維持する個体が出てくる。そうなれば当然撃たれる。フーカ。お前の格納スペースを対物ライフルから護れる保証がない」

「ありがとう、トラさん……となると、別のルートを考えないとだね……とはいえ」

『それなら、私に任せてちょうだい』

 考え込むフーカの思考野に、割り込んでくる声がある。お嬢様の思念だ。

『お嬢様……任せるって』

『私、みなとみらい地区までの道のりを知っているの。だから道案内をさせて』

『そうなの? 行ったことがあるとか、なの。でもお嬢様は自由が丘で生まれて、そこで育ったんだよね』

『だからよ。憧憬のおかげ、とでも呼ぶべきかしら』

 お嬢様は、感慨深げに言葉を切る。

『いつか自由が丘から離脱できるその日のために、何度も何度もルートを見せてもらっていたのよ。婦人に頼んで、ね。あれはもともとおじい様方のお世話をしていたから、横浜から海浜地区にわたっての地理を精密に把握していたの』

 どことなく漂うのは、哀愁のニュアンス。お嬢様はそれに呑まれることなく、毅然として言い切る。

『だから……道案内は任せてちょうだい。大丈夫、何度も地図を見て、覚えているから』

 フーカはトラサンに、お嬢様からの提案を伝える。トラサンは渋ったが、最終的にその案を承諾した。

「虎口に飛び込んでいくよりは、少しばかり路頭に迷うリスクを負う方がマシと言えばマシか」

「トラさん、それお嬢様にも聞こえてんだからね」

「分かっている。聴かせているんだ」

 トラサンがその合成音声に、僅かな警戒心を乗せているのがフーカには分かる。

「お前はフーカが確保した、最初の生きたアーティファクトだ。だからお前の意向には全面的に従う。フーカがそうしたいと言い、フーカのロール・クリアランスがそうだからだ。だが、俺のは違う。フーカに危険が及ぶと判断したその時は…………」

 ここまで言っておいて、しかしトラサンには、その先のプランが思いつかない。この先にどんな結末が待っていようとも、フーカの腹の中から、お嬢様を引きずり出すことは出来ない。彼女の離反に対する報復の手段を、トラサンは持たないのだった。トラサンはこの時、久方ぶりに歯がゆさを覚える。目の前で起こる、あるいは起こりかねない理不尽に対して何の方策も打てないという事態は、『漂白』の折を除いて他にない。

「その時は……フーカの活動可能性を優先させてもらう。海浜地区行きも無しだ」

「トラさん」

「御託はいい。それが俺の存在理由だ。それ以上に理由が必要か、フーカ?」

 トラサンは暗に問う。自身もまた、フーカと同じように役割を遂行しようとしているだけなのだと。フーカは言い返すことが出来ない。同時に、トラサンに対して反発する必要は無いのだという事に気付く。なぜならそうすることはお嬢様の純心を疑うことであり、お嬢様が寄せてくれた信頼を裏切ることになるからだ。

『そちらのT.L.A.は随分と、貴女にご執心ね』

『……嬉しいことなんだけどね。でも、大丈夫。私はあんたを信じるよ、お嬢様』

「トラさん。そういうわけで。私はお嬢様を全面的に信用することにした。お嬢様が自分の目的を達成するのに、嘘を吐く理由はないし……地下路より安全そうなのは分かったから。助けてあげようよ」

 フーカはトラサンの内装を撫でながら、優しく言う。そこにはアーティファクトを収容している状態かどうかを判定する重量センサが付いているはずで、トラサンにその手の動きは伝わっているはずだった。まるでなだめるかのような、その手つきが。

 トラサンは走行を継続しながら、しばし沈黙する。

 やがて、諦めを滲ませながら言う。

「好きにしろ。俺も好きにする」

「了解。じゃあ、お嬢様……ナビゲートよろしく」

『任せて』

 そう言うが早いか、フーカの体内でお嬢様の、肉体や意識といったお嬢様を形作るデータはいったん消失する。代わりに現れたのは、位置情報と高精細な地図であった。お嬢様が保っている記憶の一部分であるに違いないが、フーカはその精度に目を剥く。なにせ細い路地の一本、建物一つの形状に至るまで、はっきりと記述されていたのだから無理もない。

『人間はものを記憶できるの……こんな粒度で』

『……時間だけは無尽蔵にあったもの。ヒトだってやれば出来るのよ』

 お嬢様が言い返すのに、少しだけ時間が空いたのがフーカには気がかりだったが、今この時は、地図の出自についても、人間の能力の限界についても議論するべきではない。みちびき三号がいい加減、フーカたちを捕捉しているはずだった。目的地へは急ぐべきだ。その位置はマップ中に、真っ赤な丸い点として表示されている。

 みなとみらい海浜地区、その海へと長く伸びている大さん橋。そこが、お嬢様の目的地として示されている。そこに至るまでの最短経路も。フーカはトラサンにそれらの位置情報を伝えようとして、しかしポートを塞ぐ必要があることを思いだし、口頭で経路を指示する。トラサンはフーカの指示をいつでも受けられるように、最大戦速の七割ほどで走行する。

 フーカの体内では、お嬢様が気の抜けたため息を吐くのが聞こえる。彼女が強いられた状況と、心情を鑑みれば、無理もないことだった。彼女は一日にして、彼女を支えていた何もかもを失った。彼女を慕って付いてきた、たくさんの配下も。存在意義も。そして大切な友人……あるいは、母親に近い婦人をも。心細かったに決まっている。

フーカは、彼女のために出来ることがあれば何でもしてやろうと心に決める。彼女が唯一のアーティファクトだから……? 違う。憐憫から? それも少し違う。

お嬢様の状況は、彼女を収容できなかった時にフーカ自身が陥っていた状況そのものだからだ。

 利己的な理由だとは思う。わがままだとも思う。自分と重ね合わせなければ、お嬢様のことを思いやることが出来ないというのは。

『随分高いビルがあるんだね。109より高い』

 フーカは雑談を挟むことで、自己嫌悪を逃がそうとする。

『ええ……遠い昔には、展望台としては日本一の高さを誇っていたそうよ。おじい様方は誇りにしていた……そうね。婦人が保存していた映像で見たわ。高さ自慢だなんて、意外と子どもっぽいところもあったのね。なんとかと煙は高いところが好きって』

 お嬢様は呆れたような口調で言うが、その調子は柔らかく弾んでいた。祖父母の話をするのはまんざらでもないのだというのが、フーカにも手に取るように分かる。

「トラさん、次の太い交差点を左。川を渡るよ」

「……やりづらい。フーカ、位置情報を転送してくれ。要するに電波通信を行わなければ良いのだろう。ケーブルで直接繋げば、その点は問題ないはずだ」

「それはそうか……お嬢様のデータからその一部分だけコピーできるか、やってみるね。あとはトラさん側でデコードできるかだけど」

 トラサンの提案は、至極もっともだった。ケーブルを腰に繋ぎながら、フーカはお嬢様のマップを展開しているメモリ領域をまるごとコピー。そのままトラサンへと転送する。するとトラサンが『う……』と呻く。即座に転送を中止。

「大丈夫?」

「……続けてくれ。まさかこんなに大容量だとは、思っていなかったんだ」

「……分かった」

 転送を再開。二分ほどで終了する。トラサン側でもマップの展開が完了する。

「この、赤印に向かって走れば良いんだな……了解」

 短いやりとりの後、フーカはケーブルを引き抜いてトラサンとの接続を解除する。マップの参照とナビゲートに意識を割かずに済むようになった分、索敵とその回避ルートの探索に力を注ぐことが出来るようになる。接敵の回数は劇的に減った。大規模な戦闘は無し。どうしても回避不能な場合には先制攻撃が可能なルートをトラサンに指示することで、一方的な蹂躙で片付けた。

 そうして必要最小限の戦いのみを行ってきたフーカたちだったが、横浜ステーションへ近づくにつれて、敵の密度は必然上がっていく。

 燃えるような夕景の中、横浜ステーションは、遠景にその威容を示しつつあった。増改築を繰り返して肥大化したそれは、まるで一つのドームのような広さを誇り、その背中にはかつて駅ビルと呼ばれた超高層ビルを構えている。

「トラさん、残弾!」

「あと半分と言ったところだ。このペースで戦闘を行っていては、みなとみらい地区まで保たないぞ」

 火砲を放ちながら、トラサンはフーカに答える。姿勢を低くしながらポイントマンの役目を負うフーカは、頭を押さえて別プロセスを起動。お嬢様との会話を開始する。

『お嬢様。横浜駅を迂回することは出来ない? このままじゃジリ貧』

 お嬢様から出力されているマップは、横浜駅を縦断する経路を示している。これでは、敵陣の真ん中に突っ込んでいくようなものだ。

『他に理由がなければ……そのマップデータから私がもうちょっと楽な経路を探索してみるけど』

 フーカは現実的な案として、迂回路の探索を提案する。

お嬢様は、難色を示した。

『……いえ、このままで』

『なぜ』

『婦人から聞いたことがあるの』

 お嬢様は口ごもる。自らが言おうとしていることに対して、自分自身確証が持てていないような、そんな印象の沈黙。しかし、やがて言う。


『足元を通るのが一番安全、って』


『…………え?』

『詳しいことは私にも分からないわ。ただ、婦人はそう言ってた』

『婦人が……』

 フーカはそこで閃きを得て、婦人からダウンロードしたファイルを検索し始める。爆発までのあの少ない時間の中で、取るものも取りあえずかき集めた婦人の残滓。その中に、有益な情報が入ってはいまいか。答えはすぐに見つかった。『フーカへ』の中、フーカが読み飛ばした最初の弁明に、その答えはあった。

 衝撃的な、答えが。

「――トラさん! 緊急命令! 左の建物に隠れて!」

「なんだと」

 トラサンは戸惑うが、フーカの指令に従い左へ急旋回。横浜駅から遮蔽される方向へ舵を切る。直後、大爆発の爆風がトラサンの車体を襲う。

「……何だ!」

「レールガン!」

「なんだと?」

「横浜ステーションからの砲撃!」

「詳細な説明を求める、フーカ」

「横浜ステーションは、あそこは」

 婦人は、何という情報を遺したのだろう。読み飛ばしたフーカにも責はあるが……重要度に対して見出しが噛み合っていないのは事実だった。

「第一世代。要塞型防衛システム。それが横浜ステーション、らしいよ」

 トラサンは急停止しようとする。しかしフーカがそれを諫める。トラサンは速度を緩めずに走行。するとまさにトラサンが停止しようとした位置に、再び爆風が巻き起こる。

「……第一世代?」

「らしい、よ。『テロ対策として真っ先に講じられた案。防衛する対象を巨大な要塞で覆って、圧倒的火力で侵攻者を殲滅する。そのために作られた要塞。それが第一世代。ステーションの中でも特に主要なものに施された、忌々しい仕掛け』……だって」

「初耳だな。お前が読みあさっていたアーカイブにも、その記述はなかったはずだ」

「無かった。けど」

 再び爆発。

「けど、アーカイブのデータになんとなくほころびがあるのは分かってた。私に漂白の記録が隠匿されていたのと同様に、第一世代に関する記述はあらゆる情報端末から秘匿されていたんじゃないかな。だって、最重要防衛拠点なんでしょ。所在とかばれちゃったら、お話にならない」

「まぁそれはいい。問題はどう対処するかだ。劣化しているとは言えビルディングを貫通してあまりある威力だ。当然食らえばひとたまりも無い」

「それでか。それでお嬢様、足元を通るのが一番安全だって」

『より正確に言えば、喉元に飛び込んでステーションを無力化する。それがみなとみらい地区にたどり着くための、唯一の手段』

 お嬢様は言いにくそうに、文字列を紡ぐ。

『これは婦人の言葉なのだけど。横浜ステーションを駅ビルまで数えると、この周辺のどのビルよりも高いそうよ。そしてレールガンはその頂上に備え付けられている。つまり、横浜ステーションに死角は』

 再度の衝撃。

『足元以外に死角はないってこと。今まさに、撃たれているように』

「ネガティブ。これだけの遠距離兵装を備えた施設に、接近された際の対処が存在しないとは考えにくい。接近すればするほど、苛烈な攻撃を受けることが予想される。やはり迂回路を取るべきだ」

「いや、トラさん。婦人の遺書に書いてあった。あれは誘導兵器を持ってる。海浜地区の開けた場所に出てしまったら、それで爆破されて終わり。第一世代はみちびき三号の映像を参照する…………正気? あの映像をリアルタイムでデコードして兵器の管制までするの。どんな処理能力」

 また撃たれた。次第に、着弾点とトラさんとの距離が縮まっている。

「……どんな処理能力よ。でも、遮蔽しているはずのこっちの位置をほぼ正確に把握して撃ってきてるのも納得がいった。みちびき三号にリアルタイムに見られてるんじゃ、隠れようがないか」

「納得している場合か。どう戦う」

 やり過ごすには危険が過ぎる。しかし接近するにもリスクを伴う。フーカは吹き荒れる衝撃に耐えながら、策を練る。天を睨む。かつてあれほど頼もしかったみちびき三号が、今となってはフーカたちを捉えて放さない。離そうとしない。

 橙色に染まったあの空の向こうにある、あの、目さえ。欺ければ。

「……そっか」

「何か思いついたか。なら急いでくれ」

「悪いんだけどさ、トラさん」

 フーカは言いにくそうに、しかしはっきりと言った。


「……完全に日が沈むまで、逃げ切れるかな」


「……なるほど」

「そうしたら、少なくともみちびき三号の視野は使えなくなる。勝算は、ある」

「それまでの時間をどうやって稼ぐ」

「それは」

『……現実的じゃないわ。二手に分かれたら、どうかしら』

 お嬢様が厳かに言った。フーカはいぶかしげに尋ねる。

『二手に……』

『気付いているでしょう、なにが言いたいか。いま、あなたたちを追うに当たって。空から見えるのは誰の姿? トラさんの姿でしょう。奇跡の海が追っているのは、トラさんだけ。第一世代が追尾しているのも、当然トラさんだけ』

『待ってよ』

『つまり、いったん適当な屋内に入り、貴女とトラさんが別れて行動すれば』

「そんなことは分かってる。分かってるよ!」

 説明されるまでもなくフーカにも、その選択肢は想定できていた。

トラさんを囮にすれば、フーカはノーマークだ。

「……できない」

 それは同時に、長い時をともに過ごしてきたバディとの別れを意味する。

 おそらくは、永遠の。

「フーカ」

「できない……けど」

 トラサンが言いかけて、フーカが遮ったことは、きっと同じロールを定義する言葉に違いなかった。長く連れ添ったバディなのだから、その行動理念はきっと通じている。断腸の思いで捻り出そうとする言葉に対しても、トラサンは二つ返事で応じてくれようとしている。

「トラさん」

「なんだ、早く言え。悠長にうだうだしている場合でもないだろう」


「……トラさん、頼める?」

「もちろんだ」


 回避機動を続けながらトラさんは即答するが、すぐにもう一度、口を開く。

「……と言いたいところだが、一つだけ約束してくれ」

「いいよ」

「絶対に、……死ぬな」

「わかった」

「お前がお前のロール・クリアランスを果たすまで、絶対に死ぬな!」

「約束する」

「なら、さっさと行け!」

 トラサンは平時では絶対に出さないような大声を出力しながら、手近なビルディングの壁面を榴弾で爆破、空いた穴に突入して急停止する。

「ありがとう、トラさん」

フーカは、収容スペースから飛び降りるのを躊躇わなかった。

駆け出すにあたって振り向きもしなかった。

そうすることが、バディの決意に応える唯一の手段だと知っていたから。

残されたトラサンもまた、それを理解してもらえると信じていた。

「……礼を言うのはこちらのほうだ、フーカ」

 わずかな静止は、合理的に敵を撃ち抜くことを旨とするトラサンのフレームワークには存在するはずもないもの。

「俺に、俺のロールを守らせてくれてありがとう」

 最大戦速で発進。砲撃に撃ち抜かれたビルが脆くも崩壊する。

「絶対に死ぬな。お前はお前の望みを果たせ」

 空から見下ろしている視界に入りやすいように、大通りを選んで走る。

 それがバディの、特別なロボットの。

 ただ一人、お互いに全権を委任できる相手の、助けになるのなら。

「俺がどうなろうと構わん。お前の願いを叶えるのが、俺のロールだ」

 届くはずもなく、届ける気もない告白。それは轟く爆音にかき消されてしまう。

 しかしトラサンを駆動する、何よりの原動力。

 俺は、ゴミ箱だ。

 フーカとともに、存在するかもわからないアーティファクトを探しては一喜一憂していたあの日々は、もう二度と戻っては来ない。アーティファクトは見つかった。そしてフーカのロールは回り出した。彼女が切望し続けたロールが。

 そうなれば、ゴミ箱にできることは。彼女に付き添い続けたバディにできることはただ一つだけだ。


「共に追いかけた夢だった……その現場に立ち会えないのは、少し……寂しいがな」

 


 トラサンと別れ、全力疾走するフーカ。お嬢様のナビゲートに従い、横浜ステーションにつながっている地下道を目指していた。

「トラさん、頑張って」

『砲撃が続いている間は無事と言うことよ。今のうちに急ぎましょう』

 その入り口は無数にある。かつてこの地に暮らしていた人類が、交通の要衝として利用していた駅だ。アクセスするための道が、地上は勿論のこと、地下にいたるまで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。その範囲は年々拡大の一途を辿っていた。人類が電車を必要としていた最終段階では、横浜ステーションから一キロメートルの位置にもっとも離れた入り口があった。フーカたちはそれを目指して走っている。

 次第に近づいてくる、横浜ステーションの威容。歪に飛び出した砲塔、建造途中で放棄されたのか、自重で落ちたのか分からない欠落痕。フーカの超視力は稼動するレールガンの台座が、軋みをあげる粉塵を捉えている。

かつて人を運ぶために増改築を繰り返され続けた駅は、第一世代という余人を拒むための怪物と化した。レールガンが何度目とも知れぬ火を吹く。それは彼にとって、雄叫びか……慟哭か。

『……長くは保たないかも』

『貴女の足が?』

『いや、第一世代の砲塔、経年劣化からの超連続稼動でかなり無理がきてる。レールガンそのものは、もしかしたら日の入りまでに壊れるかも。希望的観測だけど』

『じゃあトラさんの方は安心そうね』

『だと、いいんだけど。道はあってる? 余計な時間は一瞬たりともないんだからね』

『ええ。このまま、まっすぐ。右手に地下への入り口が空いているはずよ』

『了解……、ちぇ、やっぱり出てきたか』

『防衛用のロボットかしら』

 フーカは視界で捉えるよりも先に、電子索敵によってその存在を捉えていた。みたこともないような増加弾倉を抱えて、徹底的に装甲された、超重武装のムーブクラフトが一両。それをさらに守護するようにジェイラー級と目される二足歩行ロボットが六体。その一団がちょうど、地下への入り口付近を哨戒……というよりも待ち構えている。

『第一世代も備えは万端か……。トラさんの言う通りだった。たとえトラさんの力があったとしても、あんなのをたくさん相手にしてたら弾がいくらあっても足りないよ』

『どうするの』

『言ったよ。余計な時間はない。だから避けない。突っ切る』

『自分で言ったばかりよ。トラさんですら敵わないって。どうやって』

『黙って』

 フーカの銀髪が、その時にはすでに真っ赤に熱せられていた。

(可哀想、何の罪もないロボットたち)

 どこにも出力しない懺悔。

(でも、謝らない。私は謝らない。謝らない!)

 決意を支えるのは、ただ一つの柱。

(だって私はF.U.C.A.だから。フーカだから……)

 重装車両のアイカメラと、目があったような気がする。その砲塔がこちらを向く。銃口と、確実に目があう。

「だから、どうした!」

 フーカは目を逸らさない。逃げも隠れもしない。全速力で相対する。彼女を支える、唯一の矛を携えて。

「どんなライフルだって、私のロールは撃ち抜けやしない! 私は道路掃除婦フーカ、人類を連れたF.U.C.A.に不可能なんてあるものか! 私は私のロールを果たすんだ!

『そこをどけ!』」

 フーカが声の限り叫んだ音波が、レールガンの砲撃よりも声高に、荒れ果てた横浜エリアに響き渡った。

 それを皮切りに、ロボットたちの様子がおかしくなった。フーカを爛々と狙っていた銃口は降ろされ、全ての兵装を再ロック。それが可能な二足歩行ロボットたちは、文字通り道を開けるようにして地下通路の前から避け、両脇に跪いて恭しくフーカを迎え入れている。

 フーカの髪は、いまだ赤熱したままだ。炎赤色の疾風が、ロボットたちの脇を駆け抜けて地下へと突入する。

 作戦としては成功に近い。だがお嬢様としては納得できない。

『……フーカ、貴女何をしたの』

『難しいことはしてない』

『戦闘態勢に入ったロボットを無力化することが、簡単だとは思えない』

『……ロール・クリアランスを追加した』

『なんですって』

 フーカはさらりと言ってのけたが、お嬢様は聞き逃さなかった。その行為がどれほど困難なことか、知っていたから。

『それは……わかったけれど、不可能だわ。ロボットのロール・クリアランスはそれこそファームウェアのレイヤーで定義されているんだもの。熟練した攻撃者が、直接デバイスを接続した状態ならまだしも、貴女は叫んだだけだわ……』

『全部やったことあるし、見たことある。音声信号に強制割り込みを入れ込むのも。ロボットのファームウェアをいじるのも。仲間をハッキングするのも。初めてじゃない。だから出来た。それだけのこと』

 フーカは同じようにロボットを無力化しながら応える。

 試製一号機、フーカ。こと電子戦の処理能力において、彼女を上回る電子存在は、奇跡の海を除けば存在しない。

(おじい様、おばあ様。なんてものを遺していかれたのですか)

 お嬢様は戦慄する。

『すごいわね、試製一号機フーカ』

 同時に、感嘆に打ち震えてもいる。

『貴女さえいれば、私の願いは必ず叶うわ。ありがとう』




その頃、トラサンは苦境に陥っていた。

全兵装解禁(フルアームド)。四脚を展開した機動戦闘形態。高速で走行するには安定性に欠け適していないこの形態で、トラサンは全力疾走せざるを得ない状態にある。

「的にならないだけでも精一杯だと言うのに」

細い路地を選び、進入しようとする。しかしトラサンを拒むのは銃弾の嵐。トラサンは急制動からの旋回で回避し、舌打ちをする。

行く先々で待ち構えているのは第三世代のロボットたちだ。横浜ターミナルに配備されている警備のものと推測される。

「ターミナル総出とは、とんだ歓迎だ……」

 目下、奇跡の海にとっての最大の脅威であるところの、トラサンとフーカ。それを狩り出そうと出した全力は、トラサンのプロセッサへもすでに非常に大きな負荷を与えていた。車体全体がヒートシンクとなる構造になっていなければ、すでに焼き切れていてもおかしくない。明らかな過負荷。しかしトラサンは、逃走を、闘争をやめない。

「だが、ありがたい」

 横浜ターミナルにどれほどの兵力が配備されているのかは計り知れないが、敵との遭遇頻度と数を鑑みるに、トラサンの方に大きな比重を置いていることは間違い無いと思われた。つまりフーカの方には、敵はほとんど気付いていない。囮としての陽動は、成功していると言って良い。

 トラサンは自らのロールを果たすことができている。

 誰あろう、フーカのために。

 それは幸いなことだった。

トラサンにとって唯一の、幸いなことだった。


「……だが、流石に逃げきれんか」


 破壊を免れ得るかという希望は、おそらくとっくのとうに潰えている。

 何度目かの接敵を回避した時、トラサンは敵の意図をはっきりと理解した。

 路地という路地を全て潰され、トラサンは次第に太い道の方へと誘導されていた。走り始めてからずっと避けていた大通り。横浜ターミナルへと伸びる、一切遮蔽物のないジャンクション。そこに、トラさんは追い詰められている。

「誘導兵器、があると言っていたか。まさに、広場にうってつけの兵装だな」

 それを見越しての配備だったのか、それとも反対側に広がっているはずの海からやってくるなにかを想定していたのか。今となってはそんなことを考える余裕も、答え合わせをする機会もない。後ろからは第三世代の大群が迫っていて、いま、最後の路地が潰された。

 駅前の大通りに、トラサンは躍り出る。

 悲壮な決意を、ガトリングガンに込めて。

「……フーカ」

 バディの名を思わず呼んでいた。

「……うまくやれよ」

 しかし後ろ髪を引くようなことは、たとえ聞こえるはずがないとしても言わなかった。

 それがトラサンの存在を証明する何よりのことであったから。

 フーカのバックアップ。それこそが。


 横浜ターミナルから、火炎の帯を曳く飛翔体が飛び立った。

 それは鉛筆のような形……おためごかしは必要ない。地対地ミサイルだった。

 垂直に飛び立ったそれは、大きく上空を旋回している。トラサンを背後から追尾する軌道を取ると思われた。それが、視認しただけで十数発。


「……獲ったつもりか、ロートルが」

 

 トラサンはガトリングガンを咆哮させながら、最後の抵抗を試みる。ミサイルを撃ち落とす……ことではない。前に立って進路を阻もうという第三世代たちを薙ぎ倒しているのだ。

 何のために。

 少しでも、第一世代に接近するために。誘導兵器に搭載されている火薬量は相当なものだ。爆発の威力も当然それに比例する。

 十分に接近すれば、第一世代を爆発に巻き込んでやれる。最善の結果を得られれば、痛み分けにはできる。

 そのつもりで駆動していた車輪が突如エマージェンシーを発報する。レッドアラート。走行不能。姿勢維持負荷。気づいた時にはもう遅かった。転倒し、無様に転がる。

「……くそ! 古典的な兵器を」

 機械の兵団が用いたのは、ローテクだがタイヤ付きの車両に対して極めて有効な兵器、スパイクストリップだった。そうだったと気づいたところで、車輪を失ったトラサンにできることなど何も無かったが。

 アイカメラはレールガンの充填が完了するのを捉えていた。背後にはミサイルが迫っている。


「……ここらが、年貢の納め時か」


 せめて、その時を見届けよう。

トラサンはアイカメラを止めなかった。

音響マイクも切らなかった。


 だから、その轟音が両方同時に襲ってきたことを、はっきりと知覚した。


 爆発が起きた。

 それは二つの方向からトラサンの音響マイクを打った。

 一つは背後。

 もう一つは。

「……なに?」

 トラサンを狙っていたはずのレールガンの砲塔が、大爆発を起こして崩落していた。

 背後からたてつづけに爆発。何が起きているのか、リアカメラを起動。

 ミサイルもまた、次々と撃ち落とされてあらぬ場所で爆発を起こしている。その爆音の間を縫うように疾駆するのは,トラサンと同じゴミ箱型ムーブクラフト。左手に大口径ライフルがあり、それを持ち替えようとしている。右手には分厚く無骨な、しかし彼の走る速度を以てすればロボットを両断するくらいは容易い、鉄板。

 刻印、T.L.A.-006。

「……婦人とやらの」

『報告。T.L.A.-003は戦闘継続不可能。僚機応答されたし』

 その報告は端的で、極めて機械的だった。しかしトラサンが傍受できるほどに広域化され、暗号化も最低限のその通信は、まるで誰でもいいから受信してもらえることを期待しているかのようだった。

叫びに近かった。

その、婦人を呼ぶ声は。

『僚機応答されたし。戦況の更新と新たな指示を乞うものである。僚機、僚機応答されたし』

「本当はもう、わかっているんだろうな」

 それでも、ロボットはそれをやめられない。

 彼のロールは、婦人の指示に従うことで。

 それは現状では、『フーカたちへの直接火力支援(ダイレクトカノンサポート)』で。

 それを更新してくれる婦人は、トラサンの棺桶の中で眠っている。永遠に。

 トラサンは彼を、哀れむことができるだろうか。

 否、彼はフーカを失ってしまった、その時のトラサンの鏡写しだ。

『……T.L.A.-003より、T.L.A.-006へ要請』

 だから、トラサンは彼に語りかけた。可能な限り優しい声で、彼を労るように。

『内容を送信せよ』

『お前の想定通り、婦人は作戦行動を続行不能である。しかし婦人を指揮していた女性……お嬢様と呼ばれていた娘は、現在当方の僚機であるF.U.C.A.とともに作戦行動中である』

『要件を端的にして要求する』

『火力支援を継続して欲しい。スペアタイアへの換装が完了するまででも構わない。俺の作戦行動と、お前のロールは一致しているはずだ。共闘を申し入れる』

『拒否する』

 即答。トラサンは凍りつくが、同時にT.L.A.-006の方も停止する。

『一応、理由を聞いておこうか』

『蟀ヲ莠コ縺ッ縺ゥ縺薙□』

『受信不可能。再送を要求する』

 トラサンは、嘆息する。

ロールを失った彼は、壊れかけているのだ。その思考にぽっかりと空いた空白を埋めるために、無限ループに近しい演算を行なって、すでにそのプロセッサは焼き切れそうなほどに過熱しているのだった。

『お前は婦人ではない』

『そうだろうと思ったよ』

『婦人は、ターミナルの爆発にて作戦継続不能となった。ゆえに当機はターミナルを敵性勢力と認定する。作戦行動に移る。T.L.A.-003は戦闘続行不能であり、足手まといである。当機が、当機が』

『……そうか。わかった』

『当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、当機が、

……』

『ああ、行ってこい』

『……婦人の仇討ちをなすものである。作戦行動を開始する』

 T.L.A.-006は、婦人になんというサインネームで呼ばれていたのだろうか。彼は結局、この短い会話の中でそれを口にすることはなく、ただ単身の『当機』として最後の戦線に臨んだ。左手には鉄板を構え、次々とロボットたちを屠っていく。同時に右手にはレールガンにとどめを刺したのだろう長射程ロケットランチャーがあり、常に第一世代へと砲撃を続けていた。

 あの中には、フーカがいるはずだった。

 トラサンは、自身のロールを果たす必要があった。

『全兵装パージ』

 車輪換装。そして車体を起こし、全速力で走りだす。

 T.L.A.-006よりも先に、フーカの元へ。

 兵装を捨てて、ただのゴミ箱と化したトラサンは、今までのどの時よりも速く駆ける。

 その速度をもってしても、間に合うかどうか。

 追い越せるかどうか。

あのT.L.A.の執念を。



「ついた。メイン管制室」

 一方のフーカたちは第一世代の内部に潜入し、当座の目的である第一世代の無力化を果たすため、彼を制御する一番の頭脳であるコンピュータの前までたどり着いていた。

そこまでに無力化してきたロボットの数はもはや数えようとも思えないほどで、フーカは激しく消耗している。

『フーカ、あと一歩よ。やれそう……』

「やる。トラさんが危ない」

 問われるまでもないことだった。フーカは満を持して、堅牢に守られているはずの第一世代の頭脳に、有線での接続を試みる。

 攻性防壁……。突破。

 暗号化プロトコル同定……。完了。

 見た目の威圧感から比べればあっけないほど簡単に、フーカは第一世代の内部への侵入に成功する。ハッキング対象のメモリ空間と命令フローを擬似的に可視化、目の前に展開する。どちらもぎゅうぎゅう詰めで、許容限界を迎えるのは時間の問題であるように思えた。

『……なんか変だな』

 フーカは僅かな違和感を覚える。みちびき三号からのデータをリアルタイム処理し、火器管制まで行うだけの高性能な処理系統を備えていながら、セキュリティがこんなに雑であるわけがない。それにキャパシティに関しても、もっと余裕があって然るべきだ。そう思った瞬間に、お嬢様の言葉が割り込んでくる。

『第一世代は製造された年代の技術的限界から、電子戦性能についてはほかのロボットたちよりもはるかに劣る。その代わりに、自身に対する不正アクセスを試みる者を物理的に排除するための殲滅能力を常に増強しつづけることで、安全性の担保とした……そうよ。貴女の電子戦能力なら、圧倒できるはず』

『セキュリティが雑な理屈はわかったけど、……じゃあこの異常な量のトラフィックはいったい何なの』

『余計な詮索はよして。ターミナルまで急ぎましょう』

『いわれなくても、発信源はターミナルだから』

 フーカはさらに深く、第一世代の中へ潜っていく。攻性防壁の類はほとんどなく、たまに見かけたとしてもフーカの小指の先で無力化できるようなお粗末なものだった。

 海を臨む横浜ステーションは、まるで貝のようだった。外殻こそ頑丈だが、その中身は突けば崩れるほど弱いのだった。

フーカはあらゆる方向に伸びている命令系統を可視化しながら、その集中する方向へと潜っていく。すると、第一世代の肝心かなめである火器管制システムまでやすやすとたどり着くことができた。

『通信経路の暗号化すら放棄しているの』

『そういうことなのでしょう。さぁ、トラさんが危ないわ。早く無力化を』

『……うん』

 フーカはうなずき、命令系統の収束する場所、太い光の束に手をかける。

 さらに下へと延びている太い束。プロセッサとファームウェアをつなぐ経路であることが通信内容を傍受することで分かる。人間に対して言い換えれば、首根っこをつかんだのと同じだ。第一世代の命脈は、フーカの手の中にある。

『どうしたの、フーカ。早く』

『……いや、ちょっと待って。何か他のものと通信してる』

 フーカがそう気づいたのは、彼女の類まれな電子戦能力の賜物だった。ファームウェアまで続くと思われていた経路、それが途中で分岐している。

『意思決定にファームウェア以外のものが、同じ優先度で関与してる……いや、逆向きだ。プロセッサから、ものすごい情報量が向かってる……?』

 苛立ちを隠さないお嬢様を無視して、フーカはその内容を傍受する。そして、耳を疑うのだった。

『……なんだろ、音程の様々な音の羅列』

『歌、でしょう』

 お嬢様が口を開いたのは、その時だった。彼女が仮想空間に現れた。それはお嬢様の電子データもまた、第一世代の中に移動してきたことを意味する。

『歌よ。それは。ターミナルに向けて届く子守唄。自由が丘ターミナルではついに聞けなかった……第一世代の処理能力を借りて、ターミナルが実行しているのね』

『……! お嬢様、危ないよ。転送を許可した覚えはない』

『許可を取る必要などないわ。貴女が定義したのよ、私は人類だって』

『それは……そうだけど。でも危ないのは間違いないよ。貧弱とはいえいつ攻性防壁が張り直されるかわからない。すぐに戻って』

『ありがとう、フーカ』

 お嬢様はそう言いながら、しかし戻ろうとはしなかった。代わりにお嬢様は、フーカの隣に座って、フーカが見出した歌の経路を、見つめている。

『お嬢様、触っちゃダメだよ。……自分が死んじゃった時のこと忘れたの。アラートが発報されて、横浜ターミナルごと爆発しちゃう』

 しかし、お嬢様は薄く微笑んだまま聞く耳を持たない。業を煮やしたフーカは、ついにお嬢様の手を取って、脱出を試みる。

 それは、失敗に終わる。

 お嬢様の華奢な腕のどこにそんな力があるのか、勢いよく振り払われたせいで。


『フーカ。ありがとう』


 そう言ったお嬢様は、振り返って微笑んだ。初めてお嬢様が浮かべたそれは、純真無垢な笑顔。しかし微笑みの隙間から漏れ出た声は、これまで聞いた冷静な彼女の声よりも何よりも冷たく……。


『私をここまで連れてきてくれて、ありがとう。

電子防壁の薄い第一世代のところまで連れてきてくれて、ありがとう。

この歌を見つけてくれて、ありがとう。

これで、ようやく私のロールを果たせるわ』


 そういうが早いか、お嬢様は歌の経路に触れた。すると、お嬢様の触れた部分が、まるで炎症でも起こしたかのように、瞬間真っ赤に膨張する。それはすぐに、打撲痕のような紫色に代わり、ゆっくりと下に向かって……ターミナルに向かって落ちていく。

『……お嬢様?』

『貴女、私のロールは何か、って尋ねたことがあったわね』

 お嬢様の声音は、薄氷のように鋭いものから、溶鉄のように粘ついて熱い、愉悦に歪んだものに変わっていた。

『あったわね、フーカ? それに対して私はなんて答えた?』

 フーカは、瞬時にその意味を理解する。

『あの人たちを、天国へ。だったよね』

『そうよ』

 紫色の瘤が落ちていく、お嬢様は高笑いする。当惑するフーカを置き去りにして、心底楽しそうに。

 フーカは、その可能性に気づく。

 いままで、疑いもしなかったその可能性に。 

 お嬢様は電子人類になるための先駆けに、なりたいものだと思っていた。

 そのために婦人も、自分自身の命をも賭したのだと、信じ込んでいた。

 だからお嬢様の、電子的な肉体の中に、そんなものが仕込まれているとは思いもしなかったのだ。


『なん、で。この組成、完全にウィルスじゃない!』


 フーカがお嬢様に駆け寄るが、お嬢様の笑いがやむことはない。

 紫色をした瘤は落ちていく。極めて強い毒性を帯びて、ターミナルに向かって。


『今がその時よ、フーカ。どうぞその目に刻んでおいて。全人類が再び真っ白になって、天国への階段を登る、その瞬間を!』 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る