第六章 横浜へ
これは、いったい何の記録だろう。
『――、――……』
『――――のよ』
ぶつ切りで、途切れ途切れで、まるで転送欠けを起こしたデータを再生しているかのようだ。しかしフーカには、この声に聞き覚えがある。自由が丘の地下で熾烈な電子戦を繰り広げていた最中に、思考の中から離れようとしなかった、あの声だ。
男女一名ずつの声が、交互に聞こえる。声は、まるで古びた、それも小さなスピーカーを介して語りかけているような印象を受ける。当人たちの肉声ではないのだろう。そうなると、この声は一体。走馬灯というやつをロボットも見るのだろうか……ナンセンス。どうでもいいか。フーカは再び眠りに就こうとする。
もう、何も聞きたくない。
何も見たくないし、誰とも関わりたくない。自由が丘ターミナルで見た最後の光景がフラッシュバックする。爆煙が迫り来る中、守るべき、愛すべき彼らは祈り続けていた。彼らは徹頭徹尾、自由を所望し、信仰し続けた。そして爆炎に呑まれて全て死んだ。なんて馬鹿げた話だろう。フーカは思い、自嘲気味に電子ノイズを発生させる。自己防衛という、最も基底となる行動原理を放棄したのは、自分も同じだった。彼らを責めることができる謂れは、どこにもない。
そうなると、やはりいま再生されている記録は、きっと爆風に呑まれそうになっている自分のフレームワークが、なんとかして防御策を検索しようとしているそのハズレくじだと思われた。耳を傾けてみてもいいか、とフーカは思う。どうせ、あと幾ばくもなくスクラップになるのなら、最後にちょっとだけ楽しみがあってもいいじゃない。
データはストアド・リアリティに近い形式を持っているが、若干異なるためエンコードに時間がかかる。フーカはメインプロセッサをフルに回転させ、所要時間を短縮する。完了。すると眼前にあったのは、婦人の顔だった。フーカの視点は、婦人の語ることに合わせて頷いたり、首を振ったりしている。
「だから、何度も言っているだろう。人類の電子存在化など、進行すべきではない」
「ジジイはそればっかりだ。生身だ、命だ。なんの意味がある?」
異なる男性二人の声が、婦人から発せられている。婦人もまた、なんらかの記録を再生しているものだと推測される。
混濁した意識の中、フーカは推測を進める。婦人と関わりのあった人間といえば、自由が丘ターミナルの誰かに他ならない。すると、あの地下基地でお嬢様と舌戦を繰り広げた時のことが鮮明に思い出される。彼女には父と祖父母がいて、それぞれ電子化へのスタンスは真逆だったはずだ。
フーカはこの記録のシチュエーションを『録音したやりとりを婦人が口述していて、お嬢様がそれを聴いている』ものと定義する。会話に意識を戻せば、お嬢様の父と、祖父とが、熱を増しながら言い争っている。
『何度言ったらわかる。人類は死ななければならない。死ななければ人類ではないのだ』
『そんなわけあるか! ずっと、ずっと長生きできるなら、その方がいいに決まってる!』
壮齢の声が、青年を諌めようと言葉を尽くしている様子だ。恐らくはこの青年の声が、お嬢様の父親のものなのだろうとフーカは推測する。
少年の声はさらに追求する。
『それに、俺だって知ってるんだぞ。このままじゃ人類は保たないって。あと三十年もすれば石油も、放射性物質も、ガスもみんな取り尽くしちまうって。俺たちの寿命は、電気のおしまいとともに終わるんだ』
『誰からそんなことを吹き込まれた』
『ジジイが見てないだけで、テレビも新聞もみんなそう言ってるさ……! 偉い人もみんなそう言ってる』
『浅はかな。私の周囲に、そう思っている人間は一人もいない。有史以来、人類が電気とともにあった時代の方が短いというのに、なぜ人が滅ぶと思うのか。自分の頭で考えなさい』
『人は滅ばなくても……!』
少年が激情をほとばしらせて叫ぶ。
『いつか、俺はいなくなっちまう。彼女もいなくなっちまう。どっちが先かなんて話を今からしてんだ……健康寿命ってやつが、どんどん短くなっていってるらしいから。ジジイみたいに頭のいいやつはボケ老人なんかにならずに済むんだろうけどよ、俺たちにそうだと言い切れるのか? 病気で苦しんだりしないって言い切れるのか? 死ぬまで健康なまま、布団の上でゆっくり死ねるって……ああ、クソッ違う! 俺が言いたいのは』
『いずれ壊れる生身の体など最初から不要だと、そう言いたいのだろう』
壮年の男性は、冷厳な声で少年を遮る。
『だから、浅はかだというんだ』
『なんでだ』
『この、ヒューマノイドを創造する業界で過ごしてきて、ようやっと分かったことがある』
『なんだよ』
『人は、人間は。死ななければ行動できない。逆説的に、死を起点に逆算することが、思考力と行動力を生み出しているのだ』
少年の反駁までに、数秒、間隙があった。
『な、何いってんだよ。それじゃあまるで、電子化されて不老不死になったら、人類はまるで……――』
『はい、おしまい』
聞き覚えのある声に割り込まれ、映像がその場で静止する。
『お行儀が良くないわ。人の記憶を勝手に覗き見するなんて』
『お嬢様……』
フーカは少なからぬ苛立ちを込めて、その名を呼ぶ。合わせてメインメモリ状に仮想的な二人の姿を展開する。お嬢様は普段通り、無感動な仮面をかぶっていて、それが余計にフーカを苛立たせる。
『勝手に流し込んできたのは、あんたの方じゃない』
『バレていたのね……それはそうね』
『こんなお遊びができるほど、なぜ平然としていられるの!』
フーカはお嬢様の首根っこを捕まえようとするが、お嬢様は寸前のところで姿を消してしまう。そしてフーカの背後に現れ、首をかしげる。
『どうして? 問いの意味がわからない。だって、みんな自ら選んだのでしょう。あそこで爆死することを』
『まさか、その選択を強いるために、わざとアクセスを失敗したんじゃないだろうね』
『バカにしないで。私と婦人にだって誇りはあるわ。私たちは侵入に向けて全力を尽くしたけれど、失敗したのよ』
『なぜ私を待たなかったの。プロセッサが二倍なら結果も違ったかも』
『二つ、理由があるわ』
お嬢様が、今度はフーカの頭上に現れる。上方向に足を向けて立っているのに、しなやかな髪は落ちてこない。
『一つは、どのみちああなっていたから。婦人にはT.L.A.への指示と同時に、奇跡の海から発信される信号を全て傍受してもらっていたの。その中に、ターミナルへの指令があった。自爆しろ、と。私たちがターミナルに足を踏み入れるよりも前のことよ』
『なんで、そんな。意味不明だよ。ロボットたちにはターミナルを守れと指示しておいて、自分ではそれを爆破しようだなんて、ロールが矛盾してる。信じられないよ』
『いいえ、フーカ。本当にロボットの視点に立ってみれば、矛盾などどこにもないわ。ターミネーターは、残存人類が発したと思われる信号の位置を受信しただけ。彼らのロールは残存人類の殲滅なので、当然私たちを殺しに向かう。第四世代はそれに付き従うだけ。これもおかしなところはないわね。ジェイラーはターミナルを守るという命令を最優先に行動するから、戦闘領域を可能な限りターミナルから離そうとする。これもいいわね。私たちを襲った戦闘のここまでに、奇跡の海が介入しなければ発生しない動きはあったかしら』
『ないけど……奇跡の海自身の行動が矛盾したままだよ。電子人類を保護しようって言っているのに、ターミナルをぶっ壊すなんて。あの中に入っていた人たちは一体どうなっちゃうの』
お嬢様はフーカと目線が合うように、わずかに高さを下げる。お嬢様の端正な顔は上下逆さまになっても美しい。しかし整いすぎていて、逆に不気味でもあった。人形と人間の境目を見ているような、生死の境を垣間見ているかのような。
『おそらく、だけど。あの爆発で完全に消滅した人間はいないと思う』
『どうしてそう言い切れるの』
『ターミナルというのは、実際のところ冗長化されたストレージに過ぎないわ。あの中には確かに、あそこにあった一つ一つには、全電子人類のデータが格納されていたことでしょう。でも、それだけのこと。ターミナルは渋谷にも中目黒にもあったでしょう。つまり全く同じデータが、全国の主要ステーション上にあるのよ。だから一台くらい無くなっても、奇跡の海としては……困らないとは言い過ぎかもしれないけれど、大勢に影響はない。そうすると、私たちという異物の侵入を許すくらいなら、アクセスそのものを封じてしまえという判断も、合理的なものに見えてこない?』
『ちっとも。人類が増えたなら……受け入れればいい。なぜそうしないの』
『彼らが電子人類ではなかったからよ』
『みんなあんなにも、生きようと必死だったのに……!』
フーカはやるせなさにうなだれながら、握った拳を震わせる。自らの言葉が嘘だと知っているから尚更、自らを奮い立たせるために。
『もう一つの理由は』
『単純な話で、私自身がサンプルになりたかった。婦人の回路を使って新たに構築した電子化回路には動作するという確証がなかったわ。だから私が、手近なターミナルが生きているうちに電子化しておく必要があったのよ』
『……それで?』
フーカが静かな怒りを込めて呟いた。
『彼らに逃げろと言わなかったのはどうして。爆発することは分かってたって言ったよね。自分が人柱になるつもりだとも言ったよね! じゃあなんで、あの人たちを――見殺しにしたの。殺したの!』
フーカは電子空間上の平面を、お嬢様のものと同じ面に移動する。フーカは自らが、かつて無いほど恐ろしい表情をしているつもりだった。それはお嬢様の方も同じだった。苛立ちを露わにした渋面を作って、眉間に指をおいてみせる。
『彼らにとってはそうなることが、一番、幸せだから』
『何を』
『考えてもみて、フーカ』
胸のつかえを思い切り吐き出すように、勢いよくお嬢様は言う。
『あの暗渠の陣地は遅かれ早かれ見つかっていたわ。そうしたらどうなる? なんの希望もなく、混乱と恐慌の中で死ぬでしょうね。仮に万が一、見つからなかったとしても。生きる糧はいつか尽きるわ。空腹と乾きの中、出生を呪って死ぬでしょうね。ならば死の間際まで、天国への鍵をその胸に抱きながら死ねる方が、幾分かマシでしょう。
生きてさえいれば幸せ? 笑わせないで。ロボットのあなたには、生死という二元論でしか人間の状態を語れないのかも知れないけれど、人間はそう単純じゃない。人間は……なにかに縋らなきゃ生きられない。私は、この苦境を生き延びるための希望を与えたわ。私を含めたあの場にいた人間は全員、天国に行くという目的の下一致していた。それはきっと叶ったでしょう。貴女の話を聞くに、彼らは最後までそれを信じて疑わなかったようだから』
お嬢様が大きな溜息を吐く。
『でも、貴女には何を聞かせても無駄なんでしょうね。貴女のロールは人命の保護であって、尊厳の保護ではないのだもの』
『命がなければ、尊厳だって無いでしょ』
『いいえ、逆よ。誇りと希望を胸にしていなければ、ヒトは死んでいるのと同じだわ……ああ、ずっと平行線。イライラしてくるわ。フーカ、貴女は構造上それを理解することが出来ないのよね。なぜなら死にたがっている人間という物を定義してしまったら、貴女のロール・クリアランスとやらが成り立たなくなってしまうから』
お嬢様は座標平面をフーカに合わせて立つと、苛立ちも露わにフーカの胸元を人差し指で突く。
『存在理由がなければ活動できないのはロボットも同じでしょう?』
『間違ってる。ロボットだから、ロールがなければ存在できないんだよ。あなたが言ったんだよ。人間は違う。役割を持たなくたって、生きる権利がある』
『生きること。そうよね。貴女はそう答えざるを得ない』
平静なお嬢様の瞳が、怒気をはらむ。
『ロボットは所詮、夢を見られないんだわ』
『夢に天国……いい加減にして欲しいのはこっちの方だ! それじゃあ訊くけど、なんであんたは電子生命になることを選んだわけ』
『さっきも言ったわ、うっとうしい……電子化のサンプルを作りたかったからよ。そして可能なら、ターミナルのストレージに入れてもらうつもりだったわ』
『そこに、あんたの言う尊厳は全くないじゃない……!』
フーカがお嬢様の肩を掴む。お嬢様は驚いた顔をするが、振り払おうとはしない。
『ねぇ、訊かせてよ。あんたは一体、本当は何がしたいの。何に縋って生きているの。夢や希望ってものにあんたが縋って生きているのだとしたら、体を捨ててまで叶えたい夢があるのだとしたら……それを聞かせてよ。私がそれを、叶えるから』
『叶える……?』
お嬢様がたじろぐ。
『どういう風の吹き回し。生きてさえいれば夢なんて要らないんじゃなかったの』
『あんたの存在理由は、今となってはそれしかない。違う? 体を捨てて、形のない電子情報の一片になって。私はどうやって、あんたを――電子人類を人間と定義すればいい? 話し始めてからずっと悩んでたんだ。だけど、あんたが答えをくれた。体という定礎も捨てて、役割もまるごと失って、それでも生きてるあんたの行動理念に、光はあるの、無いの! 聞かせてよ。あんたの存在を証明する、希望ってやつを!』
お嬢様の肩に、フーカは力を込める。事実上それは意味をなさない行為だった。フーカのメモリ上に、フーカが描画しているイメージなのだから、フーカの意思次第でどうにでも書き換えることが出来てしまう。しかしフーカは、そのイメージを選択した。まるでそこにある実体のないデータの存在を確かめるかのように。
『あんたを人間だって、信じさせて』
フーカはお嬢様の小さな体を抱き寄せる。3Dイメージ同士の接触に体温の交換など発生しないが、フーカにはこの接触が必要だった。お嬢様との距離を縮めるために、その本心を引き出すために。そして何より、そうしようとしている自分自身の存在を、自らの手で定義するために。
お嬢様は困惑を隠そうともしない。しかしフーカを拒絶することもしない。
『貴女はこんな風に、ヒトが生きていることに縋って生きることしか出来ないのね』
『そうだよ……』
フーカが痛切な声で答えると、お嬢様の肩が大きく震えた。続いて、かみ殺しきれなかった笑い声が、彼女の口から漏れ、『ふふ……』と次第に空間を埋めるような哄笑に変わっていく。
『ロボットは夢を見ないって、さっきそう言ったわね』
『うん』
お嬢様はフーカの胸に顔を埋めた。笑い声が止み、何も聞こえなくなる。その静寂は単なる無音とは違う、お嬢様の意思を持った沈黙だった。フーカもそれに答え、黙ってお嬢様の答えを待つ。
お嬢様の肩が、今度は周期的に小刻みに震え出す。
波打つ声で、言う。
『前言撤回。貴女もまた、絶望の虜になりながらまどろんでいるのね』
フーカはお嬢様が自らに回した腕の力が強まるのを感じ、言葉を失う。
『私もね、フーカ。貴女にはああ言ったけれど、実のところ夢なんて見たことがないの。私にあったのは焦りだけ。一刻も早く私たちの目的を果たさなきゃ、って、ずっと駆り立てられながらこの日を待ってた。だけど、だけどね。失敗しちゃったよ』
お嬢様の声が大きくなる。
『失敗しちゃったよ。おじい様と父が私の肩に乗っけた荷物。まだ背負ったままだわ。あの二人がそれぞれみた希望の光……私はそれを混ぜ物した光を追いかけて進むしかなかった。だって仕方ないでしょう。ねぇフーカ。自分の光を持たない私たちは所詮、暗い悪夢しか見られないんだから』
お嬢様はその愛らしい口元から、自らの出自を呪う言葉を吐き続ける。フーカはそれを断ち切ってやりたいと思うが、言葉がうまく構築できない。なぜなら彼女もまた、お嬢様の祖父がフレームワークに残した希望の光を死守するべく奔走していた身で、今し方その存在理由を失ったばかりなのだから。
『私は……そうだね。あんたの言う悪夢しか、見られないかも』
フーカは自らを振り返って思う。自分は常にフレームワークの虜であり、その範疇から逸脱する行為はしたことがなかった。これまでは。
しかし今、お嬢様がフレームワークの軛を打破するブレイクスルーを与えてくれた。
『でも、それでも。いいことはあったよ。あんただけは助けられた』
フーカの思考法は二元論で成り立っていた。全員救命するか、それ以外か。一人でも落命すれば、自らの存在価値はない。そのことに駆り立てられるようにして、遮二無二戦ってきたのだった。
自由が丘戦線の結果は、その二元論で言えばバッドエンドだった。しかし、見方を少し変えれば、命という尊い物を一つ救うことに成功している。お嬢様の震える肩を抱いているうちに、フーカの心中でその実感がじわじわと醸成されてきていた。
それが、フーカにとっての光となった。
『私、やっぱりあんたのいう夢は見られなそうだ。ロボットだからね。だけど目標は出来たよ。お嬢様、私はあんたを救いたい』
『貴女は……ほんとうにロボットなの? いままでの会話の流れから、どうして私を救おうと思うの』
『うるさいな。電子生命体そのものは、私は人類とはまだ認められてないよ。だけどあんたは間違いなく人間だ。人間となら、私は一緒に歩ける。家に帰してあげられる。さぁ教えて。あんたの家はどこ。あんたの帰る場所は……希望の終着点は、いったいどこなの』
フーカは答えを待つ。お嬢様のホログラフィはうずくまったまま答えようとしない。辛抱強くフーカは待つ。ホログラフィの肩を抱きながら。彼女の希望がどこにあるのか、探してもらうために。
長い、ような演算時間が流れた。そしてお嬢様の肩が、わずかに震えた。
『横浜』
やがてお嬢様がつぶやく。切実な声で。
『横浜、みなとみらい。私の家族が生まれ育った海の見える街へ。そこまで連れて行って』
『たしかに、受託しました』
フーカはお嬢様から離れ、立ち上がる。
『トラさん、聞こえている?』
『ようやっと起きたか』
端的な返答。その声音にどこか焦りの色があり、フーカは意識を浮上させる。
『トラさん……どうかした』
『二つ事由がある。まずは単純に、ずっと反応のなかったバディが起き上がったことに安堵している』
『もうひとつは』
『それを安堵している暇もないほど忙しいということだ。起きろフーカ。追跡されている』
『追跡って』
『何が起きているのか、俺の通信解析能力では分からん。事態を推測することしか出来ない。フーカ、手伝ってくれ』
『……了解!』
起き上がりざま、フーカはお嬢様を振り返る。
『ちょっとだけ待っててね。すぐ片付けて……横浜まで送って行くから』
そしてフーカのホログラフィは、フーカ自身のメインメモリから搔き消える。必要のなくなったリソースはすぐに解放される。対話の必要がなくなったいま、お嬢様のホログラフィもすでに姿が薄れつつある。
それでフーカやお嬢様の意識が消えてしまうわけではない。フーカの性質はファームウェアに、お嬢様の記録は腹部の外部記憶装置に蓄えられている。ただ、フーカが意識するスコープから、お嬢様が外れたというだけのこと。
だから、誰も聴き留めることはなかった。
「そう……横浜」
お嬢様の、嘆息を。
「私たちすべての故郷。どうか連れて行ってね、フーカ」
お嬢様の姿は搔き消える。
彼女を駆動する、執念を抱いて。
†
そしてフーカは、棺桶の中で目を覚ます。慌てて飛び起きようとして、盛大に蓋へ頭をぶつけ、その反動で再び底へと頭を打ち付ける。姿勢制御系に一時的異常。エラー除去。異常解除。復帰したフーカはその場でバディを呼ぶ。
「……ッ! 悪い、待たせたトラさん」
「待ったのは事実だが、まずは祝おう。無事で何よりだ、フーカ」
「どーも」
棺桶の底へ拳を軽く叩き、親愛を示すフーカ。
「それで、追跡されてるって」
「そのことだ。お前の力が必要、……また出たな。これで四小隊目だ」
そういうなり、フーカのいる棺桶を激しい振動と、ヘリコプターでも飛びたとうとしているかのような騒音が襲った。フーカはたまらず聴覚を遮断する。そしてトラサンと通信を試みる。
『なに、なに?』
『第三世代の率いる部隊から立て続けに襲撃を受けている。今のは迎撃のための機銃掃射だ。……アーティファクト収容時の斉射には事前通告が必要だったな。プロトコルを破った。すまない』
『いいよ。そもそも私はアーティファクトじゃないし』
『そういう問題では』
『それに、それだけ緊急ってことでしょ。堅物で融通の利かないトラさんが、ルールを曲げてまで応射してるんだ。開けて、トラさん』
『……ああ。今なら危険は、ないか。今俺たちは最大巡航速度で移動している。風圧に負けるなよ』
トラさんの警告とともに、重い音を立てて棺桶の蓋がわずかに開き、真っ暗闇の中にわずかな光が差し込む。フーカは隙間に手を差し入れて、外の様子がうかがえる最低限の隙間を開く。
トラサンは彼のいう通り、最大巡航速度である時速七十キロメートルで爆走していた。はるか後方に先ほどの機銃掃射で粉砕されたロボットたちの残骸が見える。遠ざかって行き、見えなくなる。
「トラさん、襲われたの」
「重火器を搭載していた。アンチマテリアルライフルを筆頭に対人としては火力過剰、明らかに対戦車戦を想定した兵装……それが目の前に出てくるんだ、撃たなくてどうする」
「責めてるわけじゃない。分かってるよ、守ってくれてるのは。でも、なんで」
フーカが首をかしげる間も無く、フーカの電子戦レセプタに感応あり。複数のロボットが接近している。
「トラさん、新しいのが来てる」
「分かった。大まかな位置をくれ。あとは俺がやる」
「リンクして火器管制をもらえたら確実だよ」
「俺がやるから、お前には他にやってほしいことがある。奴らの声を聞いてくれ」
「声」
フーカはすぐに納得する。
「どのロール・クリアランスで動いているのか把握しろってことね。了解」
「話が早くて助かる」
「何年バディやってると思ってんの……接敵、三、二、一」
『耐衝撃姿勢』
フーカが指令を受託し、体を丸めるのと同時に電子戦の構えを取る。直後、トラサンはマニピュレーターを接敵方向である右方に転回。曲がり角の向こう側へと照準を合わせ、通過ざまに火砲を叩き込む。扇型に飛散した弾丸が、接近していた敵を両断することまるで鉄扇のよう。しかしその一撃に対し、味方を盾にして残存した兵力が、トラサンに向けて火砲を浴びせる。口径二十ミリメートルの機関砲……対空兵器だ。その火力がトラサンを襲う。回避機動。トラサンの車体は一時的に平常時の限界を超えて加速。迫り来る銃弾のほとんどを、交錯した交差点から離脱することで躱す。しかし残りの二割は、直撃を免れ得なかった。重い銃弾を受け、トラサンの車体が大きく揺れる。貫通、無し。電算系異常、無し。残ったのは生々しく穿たれた、クレーターのような傷跡だけだ。
『トラさん!』
『動作系に問題ない。それより首尾は』
駆け抜けた交差点から飛び出してくる第四世代たちを、トラさんの機関砲がなぎ払う。そうしながらトラさんは問う。
『聞き逃したというのなら、もう一度やるまでだが』
『バディの信頼を裏切るわけにはいかないよ。聴いた、ちゃんと。だけど……やっぱりか』
『事実だけを話せ、フーカ。予断や私情を差し挟むな……それがどんなに、衝撃的な事であるにしろ』
戦闘態勢を維持したまま走るトラサンは、フーカに淡々と促す。フーカは要請を受けて、受信した内容をそのまま、トラサンに伝える。
『識別名フーカ、及びT.L.A.-003両機を、最優先攻撃対象と設定する。全機、当該任務に従事されたし』
『それが奇跡の海からの指令か』
『そうだよ。これは推測になっちゃうけど、自由が丘ターミナル侵攻の首謀者扱いされてる気がする』
『もしも自由が丘での出来事が影響しているとするなら、脅威判定の更新というのが正しいだろう。人間はもとより排除対象だった。そこに我々が加わった、というのが本当のところだと考えられる』
『困ったね。トラさん、襲撃はどのくらいの頻度で来てる?』
『長くとも十五分に一度は、攻撃を受けている』
『それじゃあそのうち、トラサンの充電が切れちゃう。ずっと戦闘機動なんでしょ。ターミナルにも寄れないわけだし、どこか安心して充電できる場所が必要だね』
『ならそれは、フーカ。すまないがお前が考えてくれ。俺は目の前のことで、プロセッサがいっぱいなんだ……!』
そう言うが早いか、トラサンの火砲が再び猛烈な火を噴く。正面に現れた敵一群が、なぎ倒されて沈黙する。
フーカは胸を痛める。自分が眠っている間ずっと、トラサンはこのようなひりつく戦場をずっと、一人で戦い抜いてきたのだから。お嬢様との対話がいかに必要だったとはいえ…………バディとしての信頼を裏切ったような、そんな感覚に陥る。
『ねぇ、お嬢様』
せめてもの罪滅ぼしとして、フーカは索敵を怠らない。その中で余ったリソースを利用して、フーカはお嬢様に問いかける。
『敵が多すぎて、海を見るどころの騒ぎじゃないよ……。なにか、知らない? 第三世代たちを避けて、こっそり進む方法とかさ』
『それを知っていたなら、私たちはあなたたちの到着を待たずに済んだわ』
お嬢様はうんざりした様子で答える。しかし直後、『うーん、でも』と希望の兆しを見せる。
『あなたたちがロボットで、相手もロボット同士なのだとしたら……話は変わってくるのかしら。分からない。確証はないけれど』
『教えて』
食いつくフーカ。お嬢様は『それが可能かどうか、分からないけれど』と続けながら、こう結論づけた。
『あなたたちが発信し続けているはずの識別信号を書き換えるの。出来る?』
『識別信号を……』
お嬢様が更に続ける。
『そうすれば、少なくとも光学的な視界に入らなければ、発見されることはない。つまり電波的に遮蔽することが出来れば……第三世代以下の目はほとんどみちびき三号と奇跡の海に頼っているはず。だから、地下道でも何でも通常機動で進んでいけるはず』
『だけど、それは』
『ええ。ファームウェアに対するクラッキングになる。とてもじゃないけど、試してみてと軽々に言える事ではないわ。最悪の場合二人とも、その場でスクラップになってしまうかも』
フーカは黙考する。夫人の言うとおり、利点も大きいが失敗したときのリスクも甚大だ。第二世代のファームウェアは徹底的にブラックボックス化されており、一切の外部からのアクセスを受け付けない。もしその防壁が破られようものなら、その瞬間に全ての電算系を焼き切る仕組みになっている。フーカたちを作り上げた設計思想である、『攻勢組織に対抗するため』という題目の下、彼女ら自身が乗っ取られることを避けるための措置だった。
『……』
しかし成功の前例はある。フーカの隣に転がっている婦人は、まさしくそれを成し遂げたのだ。その結果、物言わぬエンコーダーとして転がっている。
リスクと、効果。天秤に乗せた結果、勝ったのはリスクのほうだった。
『…………ファームウェアに手を出すのは止めとく』
『そうよね』
『だけど、今ので一つ方法が分かったよ。ありがとう――トラさん、ちょっといい』
『手短に頼む』
『短距離通信ポートを塞いで欲しいの』
フーカは言った。
『正気か、フーカ。この状況で』
『この状況だから言ってんの。ねぇ、どうやってロボットたちが、私たちを敵だと認識していると思う?』
『それはもちろん、何らかの信号を受信して、我々がフーカとT.L.A.-003であることを認識しているに違いない…………なるほど、そういうことか』
『そ。おかしいなって思ったんだ。私のポートはトラさん用以外全部塞がってるはずなのに、どうして私たちの存在がキャッチされるんだろうって。単純なことだったね。トラさん用のポートが開いてるから。それに対する生存確認信号を、拾われてたんだ』
『その方法に対しては了解したが、フーカ。その提案が示す意味を分かっているんだろうな。このポートを閉ざすと言うことは』
『うん。私たちもおんなじように、光学的視界でしかお互いを認識できなくなる……でも、大丈夫。だって、私たちバディでしょ。同じ物を見て、同じ物を拾って、同じ物に祈ってきた。私たちの間を裂くものなんか、もう残っていないでしょ』
フーカは自信満々に言う。
『……その理屈には、諸手を挙げて賛同はしかねるが』
トラサンからの受信信号に、ざらざらとしたノイズが混じる。まるで、ため息をつくかのような。
『確かに、お前を手離すときは、スクラップになるときのようなものだな』
『じゃあ、最後の通信』
『おう』
二体の第二世代は呼吸を合わせる。通信ログの最後に刻まれることになる、その一言を選ぶために。二体はそれを慎重に選ぶ。それがもしかしたら、遺言になるのかもしれないから。
『トラさん』
『フーカ』
同時に送受信される信号。
『フーカは、トラさんがバディでよかったよ。まだいっぱいわがまま言うかもしれないけど……今までもこれからも、よろしくね』
『お前はとんだわがままお嬢様だったが、俺にはお前以外のバディは考えられん。必ず守り抜く。安心してお前の道を進め』
しばしの沈黙。狙い通りとはいえ、奇しくも襲撃さえ止む。
言い知れぬ気まずさが漂う。お互いに、その返答を。音声信号に変換しなければならないのだから。
「………………」
「……………………何か言え」
「トラさんこそ」
「俺は言いたいことを全部言った」
「あ! ずるくない? それなら私だってそうなんですけど」
「うるさい。索敵はどうだ。怠るなよ」
「はい。周辺の敵性反応、急速に散り始めてる。こちらをどうやら、見失ったみたい……あー、ごまかしだ! らしくない!」
「なら、みちびき三号に捕捉される前に地下へ逃げるぞ」
「みちびき三号への照会は出来ない。マップは出せないよ。勘で走るしかない」
「ストレージの中にある分はどうした」
「あー、それは……」
フーカはことのあらましを、言いにくそうにトラサンへ説明する。
トラサンは遮ることなく、その全てを聞いた。そしてもじもじとするフーカに対して、毅然として言った。
「……よくやったじゃないか」
「怒らないの」
「怒る? 何故。フーカがフーカのクリアランスを為しただけのことだろう。そのことに対して俺が口を挟む余地は無いし……実際のところ、最善手だったのだろう」
それに……とトラサンは付け加える。
「もう一つ良かったこともある。フーカ、お前がそうやって生き生きとしていられるのは、腹の中にそいつがいるからなんだろう。お前のロール・クリアランスは失われていない。もちろん、俺のもだ。なら、そのお嬢様とかいう奴には、感謝しなければならない。俺たちにまだ、走る理由をくれたのだから」
トラサンは全速力で走りながら、フーカを擁護する。まるで渋谷ターミナル付近でしていたいつもの会話のように、淡々と。
フーカにとってはそれが――ありがたかった。同時に少しだけ後ろめたくもあった。
「でも、私の機能の半分か……それ以上を、投げ捨てた。もう私は役立たずのおばあちゃんだよ」
「だが、俺のバディだ。アーティファクトを収容した、俺のバディだ。何も気に病むことは無い」
トラサンが即座に言い切る。
「うう、トラさん……」
「気色の悪い真似は止せ」
項垂れるフーカを、トラサンが諫める。
「それよりも目を使え。すでに一分が経過した。みちびき三号からの映像が更新されている。そろそろ予断を許さない状況になってくるぞ」
「……了解。入り口を探そう」
そう言ってフーカが顔を上げた先には、開けた土地が現れた。そこは川辺だった。大きく切り取られた堤防を備える幅広の河川。その名前が記されていたはずの看板は、掠れてしまっていて読めない。
「……ここを通るのは、撃ち抜いてくれと言っているようなものだな。なんとか迂回したいが、長い川だ」
トラサンが方向転換を図る。フーカがしかし、それを止める。
「待った。ここで引き返したら、後ろに迫ってる大群と対決することになる。それじゃあ私たちも保たないよ。全速力で突っ切るべきだと思う」
「簡単に言ってくれる。相手は機関銃だけじゃない。対物ライフルの狙撃手がいるかも知れないんだ……が」
トラサンはため息交じりに、しかしどこか楽しそうに、両腕の装備を換装する。必殺の銃弾、五十口径対物ライフルへと。
「お前の目があれば話は別だ。向こうが撃ってくるその前に、みなバラバラにしてやるさ」
「トラさん頼もしー。じゃあ、そういうわけで」
「衝撃に備えろ」
「はいよっ!」
進路変更をキャンセル。トラサンは渡河橋に向けて、回避機動にまで速度を上げて突入する。電波という目印を失った第三世代以下の追っ手は、最初のうちトラサンを見逃してしまう。しかし、自身らに与えられたロール・クリアランスから大きく逸脱した走行速度と方向に対して異常を検知し、奇跡の海へ画像データとの照合を要請する。結果、最優先攻撃対象であることが分かる。しかし時すでに遅し。フーカの目に捉えられたロボットたちは、みな素分の狂いもなくトラサンの火砲に撃ち抜かれていた。河川に張っている残存勢力、残り十を数えるほど。
渡河橋をわたり終え、再び線路沿いに。二体と一つの電子生命体はお互いに健闘と幸運を讃えて、笑い合う。
ただ、フーカはともかく、トラサンとお嬢様は、表情を浮かべるインターフェースを保たない。
トラサンのそれについては、付き合いの長いフーカは声音から推測することが出来る。
しかしお嬢様のそれは……完全なる電子信号に過ぎない。アクセントも表情も何も、読み取ることは出来ない。
字面だけ読み取った事によれば、それはこういうことだった。
『ありがとう、フーカ。これでまた……』
『おじい様たちに、良いお土産話が出来たわ』
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