第五章 天国の鍵
高くそびえるターミナルの麓にたどり着いたとき、フーカは大きな溜息を吐いた物だった。警戒に警戒を重ねながらの進軍だったが、幸いなことに、あれ以降接敵することは無かった。
「……これが、ターミナルなのか?」
アーティファクトの一人、フーカが先導した少年が尋ねる。その声からは行軍の中で生じた疲弊がにじみ出ていたが、それを上塗りしてあまりあるほどの希望に満ちあふれていた。
他のアーティファクトも、概ね似たような感慨を抱いているようだった。フーカはその様子を見渡して、達成感と共に、一抹の寂寥を覚える。
これから、この人たちは生身の体を捨てる。捨てて、奇跡の海と一緒になろうとしている。今まで必死に戦ってきた相手の傘下で庇護を受けようとしている。それでいいのかと問いたい気持ちに、フーカは襲われるが口をつぐむ。彼らにとっての希望とは、それしか無いのだということを、奇しくもフーカはこの戦闘の中で知ったのだった。背後からの急襲という絶望的な窮地に立たされたときに、彼らはなんと言ったか。「ターミナルへ」と一致して叫んだのだ。彼らがターミナルに託す思いの丈は、計り知れない。
――ねぇ。本当にこれでいいの。
そしてフーカは、成し遂げた成果と、自己の存在意義との矛盾に気付く。意味をなさない問いが頭の中を過って、消えていく。フーカにとっての人間の定義は、未だ更新されていない。つまりフーカは人間を人間以外にするために必死で戦ってきたことになり、それは人命の保護という目先の命題が解消された今になって、フーカを苛むのだった。
我先にとターミナル内部へ呑み込まれていくアーティファクトたち。彼らと生身の対話を交わすことは、二度と無いのだろう。
「ちょっと、寂しいかな」
こぼれ出た独白を、拾ってくれるのはいつもの無機質な声だった。
「そうだな。彼らは体を捨てに行くんだろう?」
「トラさん。無事でよかった……」
フーカは勢いよく振り返る。そしてトラサンの姿を見、口をつぐむ。
トラサンを覆っていたモスグリーンの塗装は、残っているところを探すのが難しいくらいにはげていた。見えるだけで三カ所、大きなへこみがある。榴弾砲を受けた痕跡だと思われた。
「体を張って守った甲斐がない。そう思っているんだろう」
満身創痍のトラサンが言うと、言葉の重みがまるで違う。
「違うって言うの」
「ああ、違う。俺たちの行いは無為じゃない。きちんと人間を守れたさ」
もっとも、とトラサンは付け加える。
「守った人類がその後どう言う行動を取るか。それは俺たちの関与するところではない。妙なところでまた頭を悩ませているようだから、指摘しておく。だってそうだろう。俺たちが干渉出来ることでもないし、するべきでもない。俺たちはロボットだからだ。人間の意思決定を最大限尊重するべきだ」
「それが例え自殺でも」
「仮に自殺だったとしても、それは止めるべきではないさ。人間の選んだことなのだから。それにフーカ、間違うなよ。今回の大移動は自殺のためではない。生きる為に選択された行動だ」
「トラさんが持ってる人類の定義には、電子化された状態も含まれているって言うこと」
「厳密には違う。それに活路を見出した人類をサポートしたい、というフーカの決定を支持したいだけだ」
「トラさん的には、そうだよね」
「的、もへったくれもない。俺たちがロボットである以上、それ以上の思考は無意味だ。あとは彼らを救うと宣った、お嬢様たち次第だろうさ」
トラサンはしばしば、フーカが陥ってしまう思考の無限ループを断ち切ろうと諫言を差し込むことがある。実際にそれはよく効く事が多い。しかし今、トラサンが言ったのは「思考を停止せよ」というのと同義の戒めだった。フーカは納得できない。しかし、トラサンの言うとおり、フーカがいくら考えたところで、アーティファクトたちの望む幸せが変わらないと言うのもまた事実だ。
「…………うん。仕方ない」
言葉に出すことで、そう自らの内にある定義を更新しようと試みる。
一朝一夕には、どだい無理な話だ。胸の中にしこりはどうしても残る。
フーカはしかし、別の引っかかりを覚えてトラサンに尋ねる。
「ねぇ、T.L.A.は居たよね。婦人は? お嬢様は見なかった?」
「どういった存在だ?」
フーカは簡単に、彼女らの特徴と役割を説明する。トラサンは唸った後、答えた。
「観測範囲では、見ていない。安全に脱出出来たのなら、あの砲火飛び交う戦場にわざわざ飛び込んでくる意義は薄い」
「存外、薄情だね……」
「そうとも限らん。彼女らの目的を鑑みるならば、脱出した後に向かうのはターミナルのはずだ。何らかの下準備が必要なのかも知れない。そこで邪魔になるジェイラーと事を構えるつもりであった可能性が、極めて高い」
「一番面倒なのを、一人で相手取るつもりだったんだ……。でも、みんなを置いて行った」
「そう言うな。T.L.A.を送ってよこしたあたり、そいつらもこちらのことが気がかりだったのはそうなのだろう。気が急いたと言うやつじゃないのか。どこかの誰かさんと同じだ」
「私はっ……! アーティファクトのことを置き去りにしたりしない」
「だが道路掃除婦としてのロール・クリアランスは置いてきた。そうだろう? 人のために動くものの、習性みたいなものじゃないのか」
「でもそのおかげで、トラサンはそんなに」
「無関係だ。そいつらが帯同していたとしても状況はさして変わらない。フーカ、気に入らないからと言って奴らを悪者にしようとするのはやめろ。志は一緒……ではないにしろ、共通していたじゃないか」
「犠牲も厭わない一点突破を立案するような人と一緒にしないで」
「悪かったよ、この話は終わりにしよう。そもそもが、全て推測でしかないのだから。お嬢様と婦人とやらに、問いただしにいくのが先だったな」
トラサンはターミナルの入り口へと車輪を進める。ターミナルの入り口や通路はジェイラーが出入りできる高さがあり、トラサンでも多少無理をすれば通行することができそうではある。
「俺も行くか?」
「気が進まないって感じだね」
「どこかでスタックしそうでな」
「じゃあいい。私だけで行くよ」
フーカが、ふい、とそっぽを向いて、トラサンから飛び降りる。
しかし、その時だった。
その着地を待ち構えていたかのような、大音量のアラームが鳴り響いた。
とっさのことに音源を同定できない。その警告音はあまりに大きく、あまりに広範囲にわたって発せられていた。耳を塞ぎ、顔を上げ、音量が一番大きくなる方向を向く。するとそこには、ターミナルがあった。
ターミナルが啼いている。傷を受けた幼子のように。
「「不正アクセスを検知。不正アクセスを検知」」
不正アクセス? フーカに心当たりは一つしかない。
「「不正アクセスを検知。情報保全のため、当該施設は奇跡の海冗長化システムより隔離」」
婦人だ。婦人たちがなにかをしたのだ。それがこの結果を招いた。
泣きわめくようなアラートの渦と、それから絶望の宣告を。
「「情報保全のため、当該施設は五分後に爆破されます。当該施設は五分後に爆破されます。当該……」」
「バカ! 言わないで!」
アラームの音量を殴り返すように、フーカは叫んだ。そして駆け出した。ターミナル内部へ向かって。
「フーカ!」
トラサンが止める隙もなかった。全てのリミッターを解除した人工筋肉は肉食獣ばりの疾走を可能にする。走りながら、うろたえるアーティファクトたちを横目に捉える。救ってやりたいと思う。しかし今は、婦人とお嬢様が先だ。
何をやっているんだ、命はあるのか。無事を祈りながらフーカは走る。そうでなければ殴れない。せっかく守った命を、彼女らの手前勝手に窮地へ陥れるこの行為を、糾弾できない。
フーカはターミナルの最深部に至る。かつてここでは、この入り口でジェイラーに追い返されたのだった。今は立ちはだかる敵はいない。メンテナーと目されるロボットが、残骸になって転がっている。
そこは、まるでデータセンターのようだった。無数の記録媒体がラックに突き刺さっていて、それぞれのアクセスランプがチカチカと点滅している。しかし、当然通信を行なっていてしかるべきLANケーブルのランプは、沈黙している。これが『冗長化システムより隔離』と言うことなのか。
ラックは十メートル近い天井まで伸びている。それが、どうやら円形をしているらしいこの部屋いっぱいに、人が通れる程度の隙間のみを残して林立しているのだから、この部屋にストアできる電子記憶はいかばかりの量になるのだろうか。あまりに膨大であることだけは間違いないし、それに圧倒されている暇もない。
フーカは走り出そうとしたが、その前に冷静になる。この広大な記憶装置の森の中を、二分半足らずで走査しきるのは無理だ。代わりにフーカは目を使う。彼女にしかない目を。電波探知、反応なし。X線透視、当然のごとく無意味。残された手段はただ一つ。
「どこにいやがんだバカヤローっ!」
憤りを爆発させると同時に、音波によるアクティブソナーを試みる。反応、あり。存外近くにいたが、フーカが駆け出そうとした方向とは逆方向だった。落ち着いて正解だったのは間違いない。フーカは憤りを再び燃やして二つの影の元へと馳せた。
二人とも、記憶媒体ラックに寄りかかってうなだれているのが気にかかった。ただ侵入に失敗して、落ち込んでいるだけならまだマシだが、そうでなかった時、二人を同時に助け出すことはできない。フーカの行動原理に照らし合わせるなら、婦人には犠牲になってもらうことになる。
音波探知のとおり、アイカメラもまた、うなだれる二人の様子を捉える。一目見るだけで明らかな異常が見て取れた。婦人の頭髪である。フーカと同じく豊かな銀髪であるはずのそれが、垂れた頭から下がっているはずなのに、今や彼女のつるんとした頭部殻が、ところどころ焼け焦げて丸見えになっている。足元を見れば、涙粒にも似た銀の滴りが無数に落ちていた。
「婦人……」
ヒートシンクが全て溶け落ちたのだ。フーカは駆け寄りながら婦人を苛んだ苦しみを想って背筋を凍らせた。放熱機構が溶け落ちるほど、高負荷を長時間かけられるような処理が、途中で中断できるはずがない。当然、逃げ場のなくなった熱は婦人のメインプロセッサをじかに焼いただろう。それが痛いのか、苦しいのか、実のところフーカは知らない。確かなことは、お嬢様の語った天国の感触とは程遠いだろうということだ。
フーカはお嬢様に目を移す。彼女の方は、安らかに眠っているように見えた。しかし様子がおかしい。まず、役立つまいと閾値を絞っていた嗅覚センサが感覚超過を起こし遮断。感じた匂いは、一番近いものがあるとしたなら、焦熱に焼かれた肉の匂いだ。それがどうして、この無機質な空間に。答えはすぐに明らかになった。
お嬢様を抱き起すフーカ。するとその鼻孔から、ぼたり、と真っ黒な液体が立て続けに落ちる。
「……何、これ。お嬢様、ねぇ、お嬢様」
頰を押さえながら呼びかけてみるが、お嬢様は目を閉じたままだ。フーカは恐る恐る、バイタルを確認。脈拍なし。呼吸なし。脳波、一切無し。
死んでいる。
お嬢様もまた、死んでいた。
一体この場で何が起こったのか。フーカは知る必要があった。そうでなければ、外で待っているたくさんのアーティファクトたちに説明ができない。証人となりそうなものは、この場にはわずかだ。婦人がまだ通電しているなら、メインメモリとストレージに、なんらかの記録が残っている可能性がある。
フーカは婦人に寄り添い、わずかにためらったが彼女の腰椎コネクタに自らのケーブルを直接接続する。攻性防壁の類は全て解除されていた。直前まで行っていた処理がそれほどまでに高負荷だったことが裏付けられる。
フーカは婦人の内部に侵入し、電子戦の速度であらゆる情報の収集を開始する。
婦人がメルトアウトした時刻は、警報が発せられた時刻とほぼ一致する。彼女らが高負荷の処理をなにかやらかした結果、この事態が引き起こされたことは間違いない。では、一体なにを。メインメモリに展開されていた情報の羅列はそれだけでは意味不明で、なんの形も持ってはいなかった。フーカは婦人のストレージを探索する。おびただしい量のファイルの中で最も更新が新しいものから順にダウンロード、展開。すると一番上に、とってつけたようなタイトルのファイルが存在する。
『フーカへ』
自分宛のテキストファイルだ。
『どういうつもり……まるで遺書じゃない』
フーカはしかし、ためらうことなくファイルを開く。
『まず、あなたに謝らなければならないことが三つございます。どうか、ご容赦くださいますよう。貴女がこのテキストを読んでいるということは、私はもはや用立たない存在と成り果てているでしょうから』
テキストは懺悔から始まった。パラグラフが三つある。それらを三つの謝罪とみなし、フーカは読み飛ばす。今は一刻一瞬が惜しい。なにを心残りにしていたのかは、あとで確認すれば良い。
『お嬢様のことが、気がかりでしょうね』
核心らしき部分に近づく。
『順序立てて説明致しますね。まず、人類を電子化するデバイスは、すでに破壊されていました。随分古い破壊痕であったので、三十年前にあった総電子化の直後に、用済みとされて処分されたのでしょう。ですが私どもとて諦めるわけには行きません。このデバイスは三つのパーツで構成されています。人間の脳にアクセスするためのハードウェア、吸い出した意識をエンコードする装置、そして奇跡の海と呼ばれる、今貴女の目の前にある記憶媒体に接続するためのバッファです。破壊されていたのは、幸いにも――ええ、幸いにも――エンコード装置のみでした。つまり、エンコーダーの役割さえあれば、お嬢様方の悲願は達成されると。そういうわけでございました。
もしかするとお分かりかも知れませんが、私はこれから、そのエンコーダーの役割を担うべく、この全身全霊を込める所存です――貴女に言わせれば、ヒューマノイドが全霊などと、おかしな事かも知れませんね。そう言った意気込みで臨むと、捉えて下さい。即ち、私のファームウェア、カーネル、その他私を私たらしめていたプログラムは全て、私自身のクラッキング能力を以て書き換えられ、私はこちらと奇跡の海を繋ぐ渡し守となります。貴女が悲しんでくれるとは思っていません。それほど良好な仲ではなかったと、自覚はあります。
しかし、それを承知で、この私一生のお願いをさせて下さい。もし、あなたが間に合ったとしたなら。なんの返事もしない私をどうか連れて行って下さい。もはや私はただの機械に過ぎませんが――きっと、全人類の、貴女の言うところのアーティファクトの、希望となれることでしょう』
婦人の遺言を読み終えたフーカは、叫び出したい気持ちでいっぱいになった。導いてきたアーティファクトたちを放り出して、彼女らは何をしていた。後続がきちんと電子化できるようにお膳立てをする、と言えば聞こえはいいが、結果として一人と一体が死んだ。ターミナルが自爆しようとしている過誤は、本当に致し方ない物だっただろうか。せめて、フーカが到着するまで待っていてくれれば、別の結末にたどり着けた可能性が少しは上がったのではないか。婦人たちの身勝手さにフーカは憤りを隠せないが、プロセッサの冷静な部分が、まだやるべきことがあるとアラートを鳴らす。
電子化したお嬢様は、どこへ行ったのだろう。
不正アクセスを検知したことでこの警報が鳴っているのだとしたら、奇跡の海内部への侵入は弾かれていて、成功していないはずだ。どこかにその残滓である電子データが残っているに違いない。人間一人分を収めたデータがどの程度のサイズを持つのかフーカには想像も出来ないが、巨大な物になるだろうと思われた。通常のF.U.C.A.には、大容量のストレージは搭載されていない。
そうすると、お嬢様のデータは――意識とでも呼ぶべきだろうか――バッファに託されている可能性が高い。フーカは即座にバッファへと接続、内部に保存されているデータを確かめる。ものすごい容量だ。それは巨大な容量を持つ記憶媒体上にあり、常にめまぐるしく値を変動させている。まるで人間や、ロボットたちの意識のようだ。
『お嬢様? 聞こえる?』
基底となる言語インターフェースで、フーカはお嬢様であろう電子データに問いかける。すると答えがある。
『フーカ。やっぱり来たわね』
『訊きたいことはたくさんある。でも今は脱出するよ』
『脱出ね……、貴女らしい。それなら婦人のことを助けて上げて。私のことは捨て置いてくれていいわ』
『そんなわけにはいかないよ……!』
『じゃあどうするつもり。この巨大なストレージ付きのバッファを持ち上げて、運び出せる?』
フーカはバッファを少し押してみて、それが微動だにしないのを見て取って、運び出すのは無理だと悟る。
『でしょう。私はここから、どこにも動けない。せっかく理想の体を手に入れたって言うのにね。どこにでも行けるはずの、理想の体を……皮肉な物じゃない?』
『自虐気取りはやめて。どうしてそんなに楽しげなの』
フーカは会話に割くリソースを最低限に抑えながら、お嬢様を救う方法を模索する。物理的運搬は不可。そうであれば、情報として運び出すしかない。しかし先ほど見積もったデータ容量はあまりに巨大だ。収容できるデバイスなどそうそうない。それならその辺の記憶媒体を一個引っこ抜いて――それはだめだ。彼女らの話によれば、この中には『人間』が入っている。自ら人を殺すことは、出来ない。
カウントダウンは二分半を提示している。そろそろ戻り始めなければならない時間だ。フーカはコレまでマッピングしてきた情報を展開し、帰り道を再確認する。フーカの外部記憶装置が、僅かにカリカリと音を立てる。その音が、気づきとなった。
「あ……これか」
フーカは着ていたTシャツをたくし上げ、腹部を露出させる。そこにはちょうどへその辺りに、外部記憶装置へのコネクタが存在する。フーカはバッファから伸びている接続ケーブルを、そこに接続。フレームワークがバッファを、記憶媒体として認識する。
フーカは僅かに驚く。未知のデバイスに対する認識を持ってくれるなどと、ダメで元々の挑戦だったが、今は都合がいい。外部記憶装置のフォーマットを要求され、フーカは躊躇うことなく承認する。
「……ばいばい、今までのみんな」
それは、今まで記録してきた全てのマップデータや、請求してきたストアド・リアリティが全て消滅することを意味する。フーカにとっては、生きてきた証、あるいはF.U.C.A.にとっては存在の意義とも呼べる唯一無二のデータだった。フーカは一切の躊躇なく、それを捨てた。お嬢様をこの場から救い出すために。
フーカは放熱髪を最大限に働かせて、フォーマットの効率を上げようとする。結果、フォーマットには二十秒かかった。続いて転送……フーカはお嬢様に声を掛ける。
『私の中へ』
『フーカ? どういうこと』
『喋ってる暇ないんだよ……! 転送開始。ちょっと気持ち悪いのかも知れないけど、堪えて』
転送に要する時間は、一分と表示されている。こればかりは端折ることが出来ない。データのロスが生じてしまったら、お嬢様を完全に復元することは困難だ。じっくりと、過ぎゆく時間を眺めて待つしかない。
なぜ、こんなことになってしまったのか。婦人が地上と電子世界の橋渡しとなるために機械と成り果てたのは、まだいい。お嬢様の、恐らくは脳が焼き切れてしまったのも、電子化の過程で避けがたいことだったのだろう。アクセス失敗だけが解せない。奇跡の海やそれを取巻くロボットたちに関する知識を持っている風に見せていたお嬢様と婦人が、そのような初歩的なミスを犯すとは思えなかった。その原因は、お嬢様に訊いてみなければ分からない。今フーカがしなければならないことは、他にあった。まずはアーティファクトたちに、無念の報告。
『フーカより全アーティファクト――人間たちにお願い。婦人とお嬢様は失敗しました。聞こえているとおり、この施設は間もなく爆破されます。速やかにこの施設から退避して』
電信を全ての通信機に対して送信する。一人でも多くの命が、救われるように。
『繰り返します。人間たちにお願い。婦人とお嬢様は失敗しました。速やかにこの施設から退避して下さい。お願いだから逃げて。通信終わり。頼んだからね……!』
続いてトラサンに伝令。
『トラさん。ちょっとマズい。出発がギリになるから、出来るだけこっち側に寄っておいてもらえる?』
『了承。何があったのかは、後でゆっくり聞かせて貰う』
長年連れ添った僚機は話が早い。そうこうしているうちに、転送は終了していた。
『……おえ。フーカ、どう言うつもり』
フーカの思考野に、お嬢様の思考が割り込んでくる。フーカはそれを一時的にシャットアウト。
『今喋ってる場合じゃないの。黙ってて!』
お嬢様の声は聞こえなくなる。カウントダウンは、残り一分。全力で走らなければ間に合わない。
フーカは婦人の遺言を果たすべく、彼女の躰を背負う。そして駆ける。記憶装置の森を抜け、出口へ向けて、まっしぐらに。
しかしその途中で、フーカは足を止めざるを得ない。そこにいるはずの無い者たちが、いたから。
残敵か。それならまだ良かった。記憶媒体の森を抜けてすぐのところにある広間には、祈りの姿勢を取ったアーティファクトたちが、ほとんど全員残留していたのである。
「な……なんで」
フーカは手近にいた一人の首根っこを捕まえる。彼は抵抗もせず、フーカの手にぶら下がった。
「逃げろって言ったでしょ! なんでこんなところで油売ってるのよ。なんで、なんで!」
「お嬢様が、亡くなられたのでしょう」
男は無機質な声で答えた。
「お嬢様が亡くなられたのなら、楽園への扉は閉ざされたも同然。ならば我々はせめて、お嬢様と一緒に天国へ赴こうと思います」
「バカか! お嬢様の望みは、みんなが生きながらえるようにってことだ。電子化して奇跡の海に入れてもらう事なんて、手段の一つに過ぎないでしょ! それをどうして、こうやってお嬢様の気持ちを無碍にして……」
「いいえ、違いますよ。フーカさん。我々はお嬢様の目的を、きちんと理解しています」
「そんな訳あるかぁっ! 死ぬことが目的だなんて、絶対にあり得ない。じゃないと私が、トラさんが、してきたことはいったい何だったのよ!」
フーカは再び、感情を放熱するために頭髪を赤く染める。頭の中にビープ音が鳴り響く。カウントダウンの数値、二十秒を切る。どんなに走ってももう間に合わない。
フーカは出口の方に向かいながら、座っている人々それぞれに、外に出ようと声を掛ける。しかしみな一様に首を振る。「お嬢様と共に」と。
結局、フーカに続く者は誰もいなかった。
フーカは脱力を覚え、膝をついてしまう。自らのロール・クリアランスを思い出し、それが結局果たされなかったことに思いを馳せ、途方もない無力感に襲われてしまったのだった。
「私、なにやってんだろ」
もし、この先に。爆発して四散した先に彼らの言う天国というものがあるとするなら、それについて行くのも悪くないとフーカは思う。だって、もう疲れてしまった。どんなに人を救っても、こうして死を望まれるというのなら。人を救いたいと思った行動の結果が、人の死を招くというのなら。
あんまりな現実だ。私はただ、人に生きて欲しいだけなのに。
カウントダウンが終わりを刻む。五、
四、
三――
「フーカ、何してる!」
通路をドリフトしてやってきたトラサンに、フーカが駆け寄ることも、目を向けることもなかった。
二、
一、
閃光、
轟音、
崩落……そして、何もかもが、いなくなった。
†
自由が丘ターミナルの崩壊を、決定したのは奇跡の海だった。
それは、ターミナルをこうまで決定的に害する存在が、未だ地上に残留しているのだということを初めて認識した。
それの行動原理は、ターミナルの保守・運用であった。新しい形に移行した人類を、保護するために。
なればこそ、それが取る次の指針は、一つしかなかった。
地上勢力の完全討滅。
特にその中心にいた、二つのロボット。
奇跡の海から発報。脅威情報の更新。
『識別名フーカ、及びT.L.A.-003両機を、最優先攻撃対象と設定する。全機、当該任務に従事されたし』
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