菖蒲の匂い

 仕事帰りに寄ったスーパーで、菖蒲を見ていた。二本ずつビニールに包まれて、水を張ったバケツの中、無造作に突っ込まれている。


 一束手に取って、これって何だっけと考える。ニラと似ているし、食べられるのだろうか。でも、得体のしれないものを料理に使うのはハードルが高い……と、悩んでいたら、後ろからどやどややってきたおばちゃんたちに押される形で、レジに並んでしまった。



「ただいま」


「お。おかえり」


 テーブルでレポートを書いていたらしい薫さんは、顔を上げるなり、エコバッグから飛び出た菖蒲を見て噴き出した。


「菖蒲!買ってきたの?」


「え?うん」


 でもこれ、食べたことなくて。薫さん、どう調理するか知ってる?と、人が真面目に聞いているのに、同居人はまだ楽しそうに笑っている。


「んー、食用にもできるらしいけど、5月5日といったら、菖蒲湯に使うやつなんじゃねえかな。子どもの無病息災を願って風呂に浮かべるやつ」


 なんだ、食用じゃないのか。僕は少しがっかりする。


「まあ、お前は都会っ子だから、知らないのかもな。俺んとこだと中学に上がるまで毎年入ってたよ」


 お前は「親がいなかったから」ではなくて「都会っ子だから」という言葉をさらっと使えてしまう、見かけによらず繊細な男。彼は故郷の記憶を思い出したのかふと遠い目をしたが、振り払うようにおどけた笑顔を僕に向けた。


「しっかし、菖蒲湯知らなかったのかー。風呂でエロいことしようぜってお誘いかと思って、期待したのに」


「いいよ。する?」


「え」



 普段はシャワーしか使わないので、浴槽をよく洗った。お湯を張って、ビニールから菖蒲を取り出すと、独特の匂いが狭い浴室に広がった。


「う、この匂い、懐かし」


 彼はそう言って顔を顰めた。嗅いでから思い出したけど、この匂いは僕にも覚えがある。それが、まだ母が家に居たときのことなのか、親戚のどこかの家にいたときのことなのかはわからないけど。


 湯に菖蒲をぱらりと落とす。すぐに熱さでしんなりしてしまった。


 湯舟は男ふたりと水と菖蒲だけでぎゅうぎゅうになってしまい、思わず苦笑した。なんだか滑稽で、とてもエロいことをする雰囲気じゃない。


 向かい合って浴槽の中心にある菖蒲を眺めていると、薫さんがぽつりぽつりと語り出した。


「昔さ、ばあちゃんに寝るときしてもらった昔話に、菖蒲が出てきたんだよ。ものぐさでけちな男がやっと理想の嫁を見つけて、さんざんこき使うんだ。嫁は口が小さく食も細いから、飯代もかからない。それなのに、米が妙に少なくなっている気がする。どうもおかしいと思っていたらある時、誰もいない台所に嫁が立っていて、お櫃に後頭部を押し付けた。数秒後、お櫃は空になっていて、嫁がこちらに背を向けた時、後頭部の髪の間から大きな口がのぞいた。嫁は化け物だったんだ。男が思わず声をあげると、化け物は振り向いて、「見たな。お前も食ってやる」と言って追いかけてくる。家を飛び出した男は、命からがら近くの菖蒲畑に逃げ込む。すると、菖蒲の根の赤色が化け物を溶かし、足元からずぶずぶと畑に沈んでいった。それからというもの、男は心を入れ替えて、真面目に暮らしましたとさ」


 めでたしめでたし。浴室に反響した声を、彼の健康な膝小僧を眺めながら聞いていた。湯煙の中には、菖蒲が根の赤を見せながら浮いている。


 なんとなく、祖母が亡くなったあと、弟や妹にも語り継いだのだろうと思わせる淀みのない語り口だった。思わずうとうとしてしまう。


「この話を聞いた後、化け物に会った時に備えて、菖蒲畑の場所をチェックしとこうと思ったけど、近くにそういう場所はなかったんだよ。こういうのって、どこで収穫してんだろうな」


 僕は洗い場から水滴のついたビニール袋を取り上げる。産地は関東の某所。小さく説明が書いてある。


「菖蒲畑もあるみたいだよ」


「へー。今度行ってみるか」


「うん」


 返事をしながら、ふと不思議だな、と思った。僕の知らない昔話。僕の知らない彼の祖母。彼の実家の風呂。そういうものを零さず全部、頭の中に飼っている彼。その火照った身体の中に、あとどれくらい僕の知らないことが詰まっているのだろう。引き出したい。彼が知っていること、覚えていること、見えているもの、聞こえているものを。


 ということが、うまく言えないのでキスをした。顔を離すと、彼の複雑な表情が見えた。


「なんつうか、思ったよりこの匂い、子供の頃を思い出して背徳感がやばい。純粋だった頃と邪まな今と……俺も溶けたりして……」


 繊細な男、菖蒲の根っこにビビる。僕は笑った。


 もし明日、二人が消えて、風呂の中に菖蒲の赤が溶けた水だけが残されていたら面白いね。と言ったら、お前の思考はいちいちホラーなんだよと笑われた。



 夜中、目を覚ますと、知らない間にバイトから帰って来ていた薫さんが隣に寝ていた。ぐっすり眠っている。こどもみたいに。でも僕らは、もう子供ではないのだ。いつの間にかそうなっていた。


 東京に男二人。金なし、身寄りもなし。それでもお互いがいればなんとかなる、と思ってしまうのは、若さゆえの傲りだろうか。


 僕は恋人の頭をそっと抱いて、再び目を閉じた。髪から居酒屋の煙たい匂いと、菖蒲の匂いがした。


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海鳴り 絵空こそら @hiidurutokorono

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