価値がないから生きている
生きる事は、損失の連続である。肉体的な若さも、記憶も、類稀な才能も、実際に失われていく中で、価値も毀損されていくものである。そうでないとしたら、それは個人的な愛着に過ぎないものであるから、普遍的に通じる様な観念ではない。故に理解される事も無いのである。
この文章を、哲学書と銘打った書物に記していたら、きっと焚き火の材料にされてしまうだろうと思う。陳腐で、胡散臭い雰囲気が漂って、誰でも言える様などうでもいい事なのだから。皆、そんな事くらいは分かっているし、分かっていなくとも生きていける。この文章に価値を持たせる者こそ、個人的な愛着を持っているに過ぎないのだ。僕の事だ。そうでなければ、他に誰もいないだろう。
価値がないというのは、こうやって個人的な愛着によって解決されるものだ。自分が価値を持たせられるのなら、それで自分には価値があるわけだから、価値がないとして命を絶つ必要はない。というよりも、命を絶つ必要に駆られている時点で、それだけの行動を起こす価値を自分に認めている訳だから、なのに死んでしまうのは少しもったいない。少しだけだ。本当に自分以外の誰も自分を気にしていないとしても、少しだけ価値が残っているはずである。それが愛着なのだ。それを大事に抱えて生きていくべきだ。死ぬまでは、生きていなければならないのだから。
自分の価値を
そして、生きる事は損失である。やがて死を切望していた理由をも失うだろう。やがて、切望していたものが何であったか思い出せなくなるだろう。それより先になれば、
価値があるのだとしたら、生きるべきである。価値がないのだとしたら、より生きるべきである。むしろ、全ての価値を有する事ができた者は、それによっていよいよ生きる意味を失ってしまうのだから、そうでない者の方が生きる目的を持ちやすい筈なのだ。それなのに、価値を保持していないから死ぬんだと、そんなのは馬鹿馬鹿しい事だ。自分に向けたハッタリだ。それを認めさせようとする事で、逆説的に生きる意味を見出そうとしているのだ。そうでなければやはり矛盾である。
しかし、こんな事を言っても逆効果なのだろう。実際のところ、死を切望する人は、何も必要とはしていないのだ。死さえもだ。ただ消えたいだけなのだから、それを止める事はできない。しかし僕にはどうしても分からない。いつか消えてしまえるのに、どうして今消えるのか? どうして明日に先延ばしにしないのか? 同じ事なら、明日の自分に任せればいいのだ。いつ終わらせても構わないのなら、終わらせなくてもいいのだ。いつまでもほったらかしにしていいのだ。僕はそうやって勉学を怠ってきた。だからこういう事を言う人間になってしまっている。むやみやたらに励ましたり、けなしたりする様な事を言って、他者を遠ざけようとするばかりである。
だからそうやって、テキトーでいいじゃないか。どうでもいいのなら、別にそこにいてもいいじゃないか。死んでしまったら、それ以上死ぬ事はないかもしれないし、むしろ何度も死ぬ羽目になるのかもしれない。どうであれ、僕は死ぬべきではないと言える。根拠などない。あるわけない。だから価値もない提言である。だから愛着を持っている。大事に抱えている。ちょっと重いから、あなたに少し分けて持ってもらおうとしている。その為に、ずっと背中に抱え込んでいる。さながら茶の栽培のようである。
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