「自分」が行うということ

 これこそが、自我にとって重要な事なのだ。他の誰でもない……まさしく自分自身がこれを行うという必要性が、自我にとって欠けてはならない概念なのだ。それはつまり、行動そのものに対する理由付けの軽薄けいはくさをも意味しているのである。


 行動自体は、誰でも始められるということだ。あるいはその個人にとっては不可能であったとしても、始めることはできるのだ。問題は、できるかできないか、というところではないと言いたいのだ。問題というのは常に、「自分がそれをする必要があるのか?」という疑問の方にあるのだと。


 そして、その必要とやらは、常に存在しないのだ。極端に言えば、この文章も別にあなたが寸分違わず書き連ねる事ができれば、同じ意味を持った文章となるし、僕と同じ生き方をすれば、同じ感性を持つようになるだろう。同じ選択をすれば、同じ決断をすれば、同じ景色を、同じような気持ちで見ていれば……全く同じではなくても、全く異なった人間にはならないだろうし、だからこの文章だって同じ事だ。


 だからこそ、「自分」が始めるという事の重要性が存在しているのだ。「自分だからこれをしている」と、表明こそしなくとも、自分の中でその様に理解していなければ、自分の行動の全ては、他者によって代替される事になってしまうだろう。自分に必要性がなければ、ここに生きているのは、他者でも良かった訳である。


 なら、そこでこそ自分というものを誇示するべきではないか!? そこで自分を重要視しているのはここにいる自分一人だけかもしれないけれど、なら、だからこそ自分を誇示するんだと!! それでいいじゃないか。それで、何も不足はないじゃないか。お金は足りないかもしれないけれど、友達がいなくても、誰にも理解されない事をしていても、自分がそれをする必要性を持っているのなら、それでいいじゃないか。いつからそうではなくなったんだ。大人になったからか。大人になったら、自分は失われてしまうのか?


 なら、大人が自分を失わせたのではないのだ。大人になって、自分が自分を失わせたのだ。それが合理的だと、自分勝手に判断したからだ。それだけの事だ。そこまで分かっているのなら、するべき事は一つだ。自分を、を取り戻す他にはない。そう思わずに行動しないのなら、それも自分の決断ではないか。僕が言いたいのは、胸を張って生きていればいいし、張っていなくてもいいという事だ。それに必要性があると思えるのなら、そうしていればいいだろう……それって、僕に言われてする事ではないはずだ。

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