求めるはインスタント

 毎日更新であったり、短いながらも高頻度な更新であったりを、読者は求めているのだろうと思った。そうでなくて、一週間程放っておかれたようなのは、そのまま頓挫とんざしたように見られると。


 まるで、作者はそれ以外の時には生きていないかの様な言いぐさではないか。だったら読者は、作品に触れている時以外は消えてしまっているのか? そんな筈ないだろう!? なのに、作者はそうではないらしい。全く不思議だ。そこに何者かが通らなければ、そこには道など存在していないと、そう発言しているのとどう違うのだろう。あるいは、佇んでいる木々は死に絶えてしまったとでもいうのか?


 何もしていない時にも、人というのは生きている訳だろう。生きているのは内臓の働きであって、脳みその働きであって、自分が生きようとした結果ではないのだから。もちろん、その結果だって大事だけれども、それだけでは生きていけまい。読者だって、作品に触れるだけでは生きていけないだろう。むしろ、それをする為に生きている訳だから、作品に触れる自分というのはおまけであって、自分の人生というか、日々というか、そういう連続した所に生きている訳だろう。


 それを、まるでそれ自体は大したことではないとでも吹聴ふいちょうするかのように考えているのであれば、僕はそれを否定せざるを得ない。間違ってはいないのかもしれない。それでも、自分には価値がないと、自分から発言したら、誰がその損失を補填ほてんしてくれるのか? 自分というのは、自分が生きさせなければならないのだ。


 例えば、これを見ている人の中には、日々労働にいそしむ者もいれば、事情を抱えて働けずにいる者もいるだろうし、作家稼業に精を出す者もいれば、学生の身分でもって平身低頭して学ぶ者もいるのだろう。だが、そんな事は僕にとって何の関係もない事だ。だからこそ、自分というものを、その人格を、自分から保とうとしなければ、僕になんか頼れない訳だから、がむしゃらになるしかないのだろう。


 そうして、結果、作品が更新される時を求めているのだとしたら、僕はそのインスタントな、即時に叶えられる自己の補填への渇望かつぼうを、どうにか癒してやらねばならないのだろう。僕がその様なに対してできることなんていうのは、蝸牛かたつむりの様に緩慢かんまんな動きでしかないのだが。それでも求める者がいるならば、僕はそれに少しでも応えなければならない。


 僕という若輩者じゃくはいものが、それだけの役目を担う程に認知されているとは思えないが……それでも、続けなければ。止めてしまった僕を担保する者は、どこにもいてくれないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る