132_剣士で策士
「おおおうるぁぁぁぁぁぁ!!」
悪。
そうとしか思えぬ、獣の如き咆哮。
ロルフが援護に向かった左翼方面とは逆方向、ここ右翼側に、それが響き渡った。
済生軍の前に立ちはだかるのは常に神敵である。
いずれも紛うこと無き悪ばかり。
したがって、いま目の前に居るのも間違いなく悪だ。
そして彼ら済生軍に、悪を恐れる理由は無い。
女神へ仇なす愚か者にあるのは、神威に焼かれる末路のみ。
悪は滅びるだけの存在なのだ。
だが、このとき彼らは心胆を凍えさせていた。
決して認めたくない。認めたくないが、恐ろしい。
目の前の暴威には恐怖を感じる。
その恐怖をまき散らす存在、シグが、さらに敵陣へ踏み込んでいった。
「どおぉらあぁ!!」
「取り囲め! まずその男を処理しろ!」
部隊長の声は、焦りから上ずっている。
この戦域の隊列は、ほかに比べると若干脆い。
最も布陣の厚い中央部分や、アルフレッド・イスフェルトが居る反対方面に比べ、戦力に劣るのは事実だ。
だがそれでも、音に聞こえた済生軍の精鋭たちである。
彼らが想定していたのは、今まで同様、神敵を成敗して勝利することだけだった。
それなのに押し込まれている。
開戦後、霧の中へ矢と魔法を射かけ、戦線を構築しようとした済生軍だったが、魔族軍は防御態勢をとりながら、じりじりと前線を上げてきた。
そして中間距離まで迫ったところで、風魔法で霧を飛ばし、一気に駆け込んできたのだ。
その際、先陣を切って走る男に、済生軍の面々は瞠目した。
魔族軍の中に人間が居ることは聞いていたが、実際に目にするとやはり驚く。
そしてその男は、マトモではなかった。
魔導部隊の杖が彼の方を向いているにも関わらず、もの凄い速さで突っ込んでくるのだ。
戦いに勝つためにはリスクも背負わなければならない。それは当然だ。
しかし彼は度を越していた。
済生軍の目に、彼はネジが飛んでいるように見えたのだ。
誰かの喉から「ひっ」と空気が漏れる。
男は、爛々と目を輝かせ、凄いスピードで襲いかかってきていた。
まるで肉食獣のような風格を全身に纏っている。
神は絶対。
信仰篤い済生軍の者たちは、当然そう信じている。
神の威が獣の威などに敗れるはずは無いと。
だが、本能を捨て去れるものではない。
その暴獣を前に、一時的ながら体を
それはやむを得ざることであった。
魔法を放ったとして、それを外せば、獣は自分たちの喉を食い破るのだ。
それを信じさせる殺気と圧力が、シグにはあった。
結果、放たれた魔法は普段より数と威力に劣るものだった。
済生軍は、剣をぶつけ合う前に、プレッシャーのかけ合いで敗れたのだ。
戦場に霧が張ったままであったら、シグの目を見ずに済んでいたら、違う展開もあっただろう。
だがシグは敵陣に踏み込み、そして暴威を
たちまち隊列を乱す済生軍。
一気に戦場の主導権を握られてしまったかたちだ。
「ぜえぇあぁ!」
「ぐぁっ!」
済生軍は斬り伏せられていく。
そして先陣を切ったシグに続き、魔族軍がなだれ込む。
「何故だ!」
済生軍の中で誰かが叫んだ。
「おのれ」でも「ちくしょう」でもなく「何故だ」。
彼らにとって理屈に合わぬ光景。それを前に出た言葉だった。
◆
「こりゃあ……冗談、キツイねえ……」
デニスの口調は軽いままだ。
だが肩で息をするその姿からは余裕を感じられない。
目の上を切り、血が顔を流れている。
「はぁ……はぁ……」
隣で剣を構えるフリーダも同様に疲労が激しい。
優れた敵手と
剣を振ることによってのみ疲れるのではない。
どの瞬間に、どの角度から振り入れられてくるか分からない剣への警戒は、人の体力をごそりと持ち去るのだ。
翻って言えば、相手の体力を巧みに奪うことが、優れた剣士の要件のひとつと言える。
済生軍の剣士スヴェンは、まさにそれを持っていた。
「思い出したよ。デニスと言えばアルテアン領、傭兵ギルドの長だ。現役ん時はブイブイ言わせてたよな」
「そうだったかな……? 昔から、謙虚なのがウリなんだがね……」
どうにか息を落ち着けながら答え、糸口を探すデニス。
彼とフリーダの名手ふたりを相手にして、スヴェンには呼吸の乱れも無い。
強かった。ふたりにとって、完全に格上の相手である。
「……大丈夫か?」
「はぁ……はぁ……だ、大丈夫」
だが、ふたりの気力に萎えは無い。
デニスは強い敵を何人も知っている。
大型の魔獣と戦ったこともあり、死にかけた経験も一度や二度ではない。
危地には慣れているのだ。
そしてデニスにとってやや意外なことだったが、フリーダも瞳に光を失ってはいない。
彼女は強きを知っている。
強い男を知っている。
今、自分より強い者に出会ったからといって、狼狽えたりはしないのだ。
「俺とこれだけ斬り結べるとはな。かなり強いよ、ふたりとも」
「そいつはどう……もっ!」
デニスが言い終わるより早く、スヴェンの下段斬りが襲ってきた。
それを剣でガードし、返す刀を狙うデニスだったが、スヴェンが放つ二の太刀の方が速い。
そこへ横合いから振り入れられる、フリーダの剣。
スヴェンは、自身の剣の軌道を柔軟に変化させ、フリーダの剣を払い落とす。
そしてすかさず後ろへ跳んだ。
スヴェンが居た空間を、デニスの剣が通過する。
コンマ何秒かの間に一連の攻防を終え、再び仕切り直す三者。
だが次の一瞬の攻撃に備え、筋肉の弛緩を許されないふたりに対し、スヴェンには呼吸を整える余裕がある。
「ふぅ。今のにも反応するか。反体制派というのも侮れんね。周りも優秀じゃないか」
三人の周囲では、反体制派と済生軍が戦っている。
ここに居る済生軍は、主力を北側に回した残りだが、それでも決して二軍というわけではない。
幾つもの戦場を知る、本物の軍隊である。
それに対し、正規の軍ではない反体制派の者たちが伍して戦っているのだ。
腕利きの傭兵たちを母体にしていることもあるが、組織を精強たらしめているのはデニスの手腕だった。
「それどころか、あんたたちが押してるっぽいな。いや、大したもんだよ」
本心からの感想。
スヴェンが敵を称賛した言葉を裏付けるように、反体制派の剣士たちが済生軍を斬り伏せる。
戦場の流れは反体制派に傾きかけた。
その時。
「でぇぇぇいっ!」
大きな体をした女戦士が踏み込み、戦鎚を振り抜く。
強力なひと振りに、数名の剣士が吹き飛んだ。
「おや、こっちにもよく働くのが居るじゃないか」
スヴェンが褒めたのは、済生軍の兵士マレーナだった。
彼女の危険性を素早く察知した周囲の反体制派が、彼女に斬りかかる。
「せいっ! であっ!」
だが、大きな体に似合わぬ機敏さでマレーナは迎え撃ち、戦鎚を振る。
その度に反体制派は跳ね飛ばされた。
スヴェンのほかにも居た恐ろしい敵に、皆が竦み上がる。
戦場の中、ふたりの目が合った。
「…………?」
フリーダに一瞬の違和感。
瞳の奥には、悲しみに縮こまる何かが見えた気がした。
あれは本当に敵なのか……?
「無理をするな! 前線を下げろ!」
フリーダの思考をデニスの声が中断させる。
彼の指示に従い、反体制派は後ろに退いていった。
押し込みつつあったが、やはりそう上手くはいかない。
それを見てフリーダは
「あらら。ちょっと弱気なんじゃないの?」
そう言って、スヴェンは再び剣を振り入れてくる。
ガードしながら、デニスも退がらざるを得ない。
そしてスヴェンやマレーナの働きに呼応するように、済生軍は攻勢に出る。
反体制派は、じりじりと押されていった。
指示を出しながらの剣戟。
デニスの疲れは許容範囲を超え、剣の振り終わりに若干の隙を生じさせてしまう。
それを見逃すスヴェンではなかった。
「そこだっ!」
鋭い横薙ぎが、デニスの首筋を襲う。
決定的なタイミングだった。
だがその剣は、がきりという金属音と共に、フリーダの剣によって阻まれる。
彼女がすんでのところで割り込み、デニスを守ったのだ。
「おっと……。お姉さんも中々やる」
「お、おお、フリーダ!」
「な、なに!?」
「フリーダに守られちゃったよ!」
いま死にかけたにも関わらず、満面の笑みを浮かべるデニス。
その表情にフリーダは呆れた。
「なんで喜んでるのさ!」
「後進の成長ほど嬉しいものは無いんだよ。お前さんにもいずれ分かる」
玉の汗が浮かぶ顔に喜色も浮かべ、デニスは笑った。
昔から親しく、時には守ってきたフリーダ。
彼女が長じてからはやや縁が離れ、アールベック領とタリアン領の件では、何もしてやれなかった。
態度の軽いデニスだが、それを悔やまぬ男ではない。
ゆえに、この戦いではそれを取り戻そうと思っていたのだ。
今度はきちんとフリーダを守ろうと。
ところがどうだ。
彼女に命を救われてしまった。
しかも、それを屈辱に思わぬ自分が居る。
「フリーダ。今日は記念すべき日だよ」
「なに言ってんの! ピンチなんだよ! あいつをどうにかしないと!」
フリーダが剣で指す男、スヴェンには、未だ息の乱れひとつ無い。
デニスもフリーダも一流なのだ。そして剣戟において、多対一の優位性は極めて大きい。
それなのに圧倒されている。
「いやぁ、駄目だろアレ。ちょっと強すぎるよ。勝ち筋が全然見えない。もう全っ然」
「なに言ってんだい! しっかりしなよ!」
デニスとしては、叱られても困る。
事実だし、本音を言っているのだ。
「デニス君。諦めるかい?」
「スヴェン君。私は別に信心深くはないが、この霊峰へは何度も訪れてるんだよ」
信心深くはないが用心深い。
それがデニスだった。
彼は事前に霊峰を自分の目で確認し、地形の把握に努めていたのだ。
首を傾げるスヴェンの前で、デニスは剣を掲げた。
それから声を張り上げる。
「今だ!」
両翼の岩場から反体制派の兵たちが飛び出る。
そして済生軍の側面を突いた。
「おおっ!?」
驚きに声を漏らすスヴェン。
侵攻した敵地で伏兵作戦に及んでくるとは、想像もしていなかったのだ。
デニスは、自陣の両翼にあらかじめ味方を潜ませ、あえて退がり、敵を正面と左右の三方から叩くかたちを作った。
敵の圧力に押されたのは演技などではなかったが、それでも退がることは既定路線だったのだ。
状況を、それも戦術的劣勢というネガティブな状況を上手く利用する、老獪な指揮だった。
「反体制派、こんなに居たのか。よく集めたもんだな」
「人望あるからね、私」
「そうだっけ?」
横で唇を尖らせるフリーダ。
この策を知らされていなかったことに若干の不満があるようだった。
「スヴェン! どうする?」
泡を食った済生軍が、この場で最も強い者に答えを求める。
後方に居る指揮官は判断を下せないようだった。
「退いた方がいいだろうな」
「そのふたりだけでも倒せ!」
兵の言うふたりのうち、特にデニスは重要だった。
一応デニスは副官を立て、指揮を任せている。
だが先ほどの伏兵への指示を見るに、やはり彼が部隊の
済生軍としてはここで倒しておきたい。
「無理だ。俺の方が強いが、殺し切るには時間がかかる。その間に敵が殺到してくるぞ」
「だが!」
「それが分かってるから、向こうも守勢に回って時間を稼ごうとする。賢いからな、奴は」
そのとおりだった。
数ですり潰せるまで、スヴェンの攻撃に耐え抜くのはデニスたちにとって難しくない。
そして自身の強さに溺れ、その事実を認めぬスヴェンではなかった。
「予想の上を行かれたら、戻って仕切り直しだ。戦略レベルで出し抜かれてんのに、戦術レベルで取り返そうとしてちゃ駄目だろ」
そう言って、デニスとフリーダへちらりと目をやるスヴェン。
それから背を向け、ゆっくりと歩き去っていく。
そこへ斬りかかる愚を犯すふたりではなかった。
去る背中を見ながら、デニスは考えた。
この戦場に、奴を倒せる者は居るだろうか、と。
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