122_王女の決断
「がっ……!! ああああぁぁぁぁあああああ!!」
第五騎士団本部。
幹部が居住するフロアの廊下を歩くエミリーの耳を、獣のような叫びが刺した。
「また、か……」
悲しげに言葉を漏らし、エミリーは叫び声がした方へ向かう。
そして一室の前に立つと、そのドアをノックした。
「シーラ。入るよ」
返事を待たず、ドアを開ける。
部屋の主、シーラ・ラルセンは、ベッドの上で仰向けになり、はあひいと浅く呼吸していた。
目を見開き、左手が何も無い空間を掻きむしっている。
「はっ……はひっ……!」
左手が掻きむしるのは、本来右腕がある場所だった。
だが彼女の右腕は、肩口から失われている。
「はっ……あ、があああぁぁぁぁぁ!!」
シーラが右腕を失ってだいぶ経つ。
失ってしばらくの間は精神の均衡を失っていたが、今では平静を取り戻しつつあった。
だが、時折このように、激しい幻肢痛に襲われる。
無いはずの右腕が痛むのだ。
「はぁっ……あ、ぐ……!!」
失った右腕に痛みを与えるのは、屈辱の記憶である。
体の一部を失うのは当然
個人差はあれど、誰でもいずれは順応するものだ。
だがシーラは、しばしば憎悪に叫び声をあげる。
腕を奪われた時の屈辱が蘇るのだ。
自分より遥か下に居たはずの加護なし。心底から見下していた無能者。
そんな男に敗れたのだから。
あの日。
負ける可能性などまったく無く、むしろシーラは情けをかけてやるつもりだった。
それなのに、愚かな男は投降しなかった。
だから現実を教えてやることにしたのだ。
彼女には十人もの精鋭が付いていて、それを会心の魔法で大幅に強化した。
相手は一人。万全であった。
いかなる命乞いの言葉が聞けるのか、楽しみだった。
それなのに。
まったく歯が立たなかった。
腕を落とされたシーラは、味方が壁になる間に、無様に逃げ出した。
どう考えても信じられないし、あり得ない。
自分が敗れるはずが無い。
だが何度確かめても、あるはずの場所に腕は無い。
そしてシーラの思考を、あの男の姿が埋める。
恭順の意志など一切浮かべない、あの黒い瞳。
憎悪がつのる。
その憎悪の中に、あの男への恐怖があることを認め得ず、ただ憎しみだけを増幅させていく。
「ぐ……! ぐうぅ……!」
「シーラ……」
友人の額に手をあて、その名を呼ぶエミリー。
彼女のことを心から案じている声音だった。
とても悲しい。
だが一方で、シーラの命があって良かったと、その点には胸をなでおろしている。
彼女が殺されなかったことに、エミリーは心底から安堵しているのだ。
それは、友人の命が助かったことのみへの安堵ではない。
シーラがロルフの剣に
ロルフが敵であると。
王国にとって、ロルフは紛うこと無き敵なのだが、エミリーはいまだ、その事実を直視できない。
まだきっと、いつかきっと。
そんな夢想を手放せないでいるのだ。
シーラの生存は、エミリーにそんな夢想を捨てさせずに済んだ。
そのことに、エミリーは感謝している。
「おのれ……! おのれ……! おのれぇぇ……!!」
そんなエミリーの胸中を知れば、果たしてシーラは何を思うだろうか。
誰にとっての幸運なのか、シーラはそれを知らぬまま、ただ怨嗟を紡いでいる。
粘つく汗に顔中をまみれさせながら、歯茎を剥き出しにして。
「シーラ……もう行くね。落ち着いて、ね」
してやれることは無いと、エミリーには分かっている。
この憎悪の嵐が過ぎ去るのを待つしか無いのだ。
残念に思いながらも、彼女は部屋を後にした。
「はぁ……」
廊下に出てドアを閉める。
そしてひとつ溜息を吐いた。
どうしてこんなことに。
いったい何度、自らに問うたか分からない、その思い。
それに囚われるエミリーのもとへ、人影が歩み寄った。
「ヴァレニウス団長」
「え……」
一瞬、精神の変調が極まって幻覚でも見ているのかとエミリーは思った。
声の主は、この場に居るはずの無い人物だったのだ。
ピンクブロンドの麗人。
第一騎士団団長、エステル・ティセリウスである。
副団長のベルマンを伴い、彼女はそこに居た。
「中央へ呼ばれていたのでな。帰りに寄らせてもらった」
「そ、そうですか」
第五騎士団のあるノルデン領は、王都に隣接している。
ゆえに中央からの帰り道であることは確かだが、これまでティセリウスがこの地に寄ったことなど無い。
何か理由があることは明白だった。
「………………」
「………………」
「な、何ですか」
沈黙に耐えかね、エミリーは問い質す。
いったい何の用で来たというのか。
「ヴァレニウス団長。我々第一騎士団は、次の戦いを仰せつかった」
「え?」
「イスフェルト領だ」
「…………!」
先般陥落したタリアン領。
そこと隣接するのがイスフェルト領である。
魔族軍が次に進軍すると目される場所であった。
そこは王国のみならず、ヨナ教団にとっても重要な地で、かなり大きな戦いになることが予想されている。
その戦いに赴くのだ。ティセリウスと第一騎士団が。
そしてその戦場には、当然ロルフも居る。
「え……その」
「そのことをお伝えしようと思ってな」
「そ、そうですか」
「………………」
覗き込むように、エミリーの目を見るティセリウス。
だがエミリーは何も言えない。
ティセリウスが何を意図してここに現れ、それを伝えたのか。
エミリーには分からないのだ。
「何も言わないのだな、貴公は」
「え……」
「貴公は状況に対し、何もしない。行動せず、望む未来が到来することをただ待つのみ。子供の頃の甘やかな世界が戻ることを、ただ期待するのみだ」
「な……!」
エミリーは一瞬、屈辱に頬を染め、それから恥を感じ、やはり頬を染めた。
反論できなかったのだ。
そしてただ俯いてしまう。
その様を見て嘆息するティセリウス。
横で、副団長ベルマンが初めて口を開いた。
「お嬢様。もう参りましょう」
「そうだな。それではヴァレニウス団長、失礼する」
それから二人は踵を返し、歩き出した。
去っていく背中に、どうにか絞り出すようにして、エミリーは声をかける。
「あ、貴方は、ロルフのもとへ
「……どう思う?」
背中ごしに横顔だけを向け、問いを返すティセリウス。
エミリーは答えることができない。
「……私は騎士。国に忠誠を誓った身だ」
ティセリウスはそう言って振り向き、エミリーを正面から見据えた。
力に満ちた強い瞳にエミリーは気圧される。
それに構わず、ティセリウスは告げた。
「降ることは無い。この手に剣がある限り、騎士の誓いを
それから再度背を向け、去っていくティセリウス。
その背中を見送りつつ、エミリーは思った。
今度の戦いは、かなり大規模なものになる。ロルフとティセリウスが戦場で会う可能性は低いかもしれない。
だが、どのようなかたちであれ、きっと、きっと───。
「"私の想い人が勝つ"。それを言わぬのだな」
「…………!」
立ち去る際の、その言葉。
蔑まれている。
エミリーは、ようやくそれを理解した。
そしてしばらくの間、ただ床を見つめるのだった。
◆
王都レーデルベルン。
王宮の庭には、色とりどりの花が美しく咲いている。
そこに女は居た。
人形のように整った顔立ちの彼女は、ロンドシウス王国の王女、セラフィーナ・デメテル・ロンドシウスである。
庭の中ほどに
テーブルについているのは、他に二人。
ひとりは五十代の男。宰相、フーゴ・ルーデルスである。
いまひとりは四十代。やや長い赤茶色の髪を持った長身の男であった。
その男に向け、王女セラフィーナが語りかける。
「壮健そうですね、イスフェルト侯爵。司教どのとお呼びした方が良いですか?」
「お
恐縮したふうも無く答える男は、大貴族バルブロ・イスフェルト。
王国の侯爵であり、かつヨナ教の司教である。
彼が領主を務めるイスフェルト領には、霊峰と呼ばれる山、ドゥ・ツェリンがある。
峰とは言っても、標高は千六百メートルと低く、面積は広い。
ほぼ
ただ、木々の代わりに岩ばかりがある荒涼とした山である。
その中心部、山頂にあたる場所には、ヨナ教団の大神殿が建っている。
霊峰は信仰のシンボルのひとつで、毎年、礼拝の時期には多くの信徒が大神殿を訪れる。
その地は教団にとって、きわめて重要な場所なのだ。
その霊峰を領内に持つイスフェルト家の領主は、教団においても重責を担うことになる。
そのため、四代前の国王の治世に、領主は教団によって司教へ叙せられ、以降代々、イスフェルト領において領主と司教は兼務されている。
イスフェルト家は、もともと伯爵家であったが、当主が司教になった際、それに見合う爵位をと国王が考え、侯爵に
当時、それに反対し、政教分離の重要性を説く学者が居たとされるが、
「イスフェルト侯爵。戦いの準備は如何でしょうか」
「は。済生軍の編制は進んでおります。ほぼ全軍の投入になるかと」
霊峰には、教団私有の軍が常駐している。
司教イスフェルトが司令官を務めるその軍は、正式名称を神前教導支援会というが、一般には済生軍と呼称されていた。
非常に精強な軍で、とりわけ魔法には大いに優れている。
霊峰への侵攻という事態を前に、当然その済生軍が動くことになるのだ。
「ですが敵には勢いがあります。御山の加護があっても、済生軍だけで守り切れるかどうか」
そう言って、侯爵は紅茶を口に運ぶ。
御山の加護とは、そこにあって然るべき霊験のほか、山の地形を指している。
霊峰には幾つもの谷が走り、攻め入る側の行動を制限するのだ。
だが、それがあっても今度の戦いでは多くの兵力が要される。
侯爵はそれを思い、音を立てずにティーカップをテーブルへ戻し、抑揚の無い声で訊いた。
「王女殿下。聖なる御山を踏み荒らす者どもを滅するべく、ご助力についてお話頂けるものと思って良いのでしょうか」
イスフェルト領から北に隣接するタリアン領、そして東に隣接するアルテアン領。
それらが立て続けに陥落し、イスフェルト領は、そして霊峰は、二面から魔族と
これらを同時に相手取るのは、強力な済生軍にとっても厳しい話だった。
「無論です。霊峰を落とされるわけには参りません。王国としても万全の布陣で臨みます」
「ありがたい仰せです王女殿下。いずれの騎士団を出してくださるのでしょう?」
「当然、第一だよ侯爵。ティセリウス団長にも通達済みだ」
答えたのは宰相ルーデルスだった。
それを受け、イスフェルト侯爵は頷く。当然得られるべき回答を得て満足したのだ。
この重要な戦いに出るのは第一騎士団であるべきだと、彼も思っていた。
しかし、続く王女の言葉は、侯爵にとっても予想外だった。
「ただ、それだけでは不足です。第二騎士団も投入します」
一瞬の静寂の間に、王女の言葉を咀嚼する二人。
それから宰相ルーデルスが口を開いた。
「第一と第二を、同時に投入すると仰せあるのですか? そこまで大きく軍を動かしては、ほかの戦線を支え切れないのでは」
当然の指摘だった。
いずれの団にも、任地があって役目がある。
おいそれと、国の中をあちらこちらへと動かせるものではない。
まして最高戦力ふたつである。
いかに霊峰の戦いが重要とはいえ、その計画は現実性を欠くように見えた。
「問題ありません。第二が押さえた東部の諸地域は、各地の領軍で維持できます」
焦りを見せること無く、王女セラフィーナは答える。
彼女はすでに、計画を煮詰めていたのだ。
「また、西部の安定した幾つかの地域には、駐屯が不要であると結論できています。現状、国内に存在する遊兵を再分配することで、薄い戦線を無くすことが可能です」
そう言って、紙束を卓上に差し出すセラフィーナ。
拝見しますと述べ、それに目を落とした宰相と侯爵は、そこに書かれた精緻な計画に目を見張った。
当然だが、本来、王女は計画の上申を受ける立場である。
それなのに、採るべき計画が王女の側から提示されている。
宰相ルーデルスは無能ではなく、むしろその能力を極めて高く評価されている男だ。
だが、ここに至っては立つ瀬が無い。
恐縮し、表情を強張らせる彼に、王女は薄く微笑んで言った。
「良いのです。ルーデルスは政務が本業。まして陛下の病臥は紛れも無く国難なのです。私もすべきことをせねばなりません」
「殿下……。言葉もございません」
ロンドシウス王国では、国王が病に臥せって長い。
妃は数年前に病没している。
母の死と、病み疲れる父の姿に心を痛めながら、若い王女は責務と向き合い続けているのだ。
ただ、国王が存命である以上、王女の権限は限定的で、彼女にその領分を踏み越えることはできない。
それゆえに、国内の乱れを分かっていながら、思うように是正できないでいる。
そこに関する王女の心痛に、宰相は常より申し訳なく思っているのだった。
「第三の再編を急がせておりますゆえ、それが済めば、この計画を補完できましょう」
「ありがとうルーデルス。頼りにしています」
にこりと笑って礼を述べる王女。
それから真剣な表情を作り、改めて二人に向き直る。
「おそらく、反体制派も挙兵します。ゆえに第一と第二を投入するのです」
「その点はわが領でも警戒していますが、しかし現実的にあり得るのでしょうか。人間が魔族との同盟に及ぶなど」
侯爵が問うた。
ごく当然の疑問だった。
「厳密には同盟というかたちは採らないでしょう。それぞれが同時期に侵攻するという、相互利用関係を築くのだと思います」
答える王女。
だが、それを聞いても二人は釈然としなかった。
その反応を予想していたかのように、王女は続ける。
「聞いておりましょう。失地では人間による参事会が構成されており、ローランド商会は王国を離れて魔族領に商圏を広げようとしています」
二人にとって認め難い話だが、それらは事実だった。
だが認めねば、敵を知らねば、きっと敗れることになる。
それを思い、王女はやや語気を強めて告げる。
「これまでの常識を捨ててかからねばならない。そういう転換点に来ているのです。お忘れなきよう」
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