疾中の微笑み

宮永文目

疾中の微笑み

 私が記憶している中で、一番古い感情といえば、それは途方もない寂しさです。

 私が三歳にも満たない赤ん坊の頃、百日咳ひゃくにちぜきかかって、一時期死にかけの状態になったことがありました。それ以来免疫力の落ちた私を、両親はあまり外へ連れて行こうとせず、腫れ物に触るような扱いで、あまり私に構うこともしてくれませんでした。私の話し相手といえば、診察のために訪れる医者、世話役の年老いた女中や、時折ときおり気が向いたら来てくれる二つ上の兄くらいでした。

 この兄が、家の中で一番精彩でした。彼の通った後には、必ず泥の足跡が残っていたし、家にある障子の大半は、彼の手によって穴だらけになっていました。彼は地面を素足すあしで駆け回ることが好きで、よく私に、草叢くさむらを思い切り走ったときの爽快感──腐葉土ふようどの独特な匂いのことや、露草つゆくさを踏んだときの、一瞬の冷たさにぞっとする快感など──を細大漏らさず、私に伝えようとしてくれたのです。

 しかし実際、素足で駆け回ることはおろか、外に出たことすらない私にとっては、彼の言っていることの半分も理解できなかったのです。ですが、こちらが曖昧な顔をしたところで、彼は子供ながら機微にさとく、途端に不機嫌な顔になって話を切り上げてしまうのでした。

 私にとっては、それが何よりも恐ろしい瞬間でした。

 

 兄はよく外で遊ぶせいか、肌は浅黒く焼けており、その腋窩えきかには、とおにもなる頃には既に、大人にしか見られない濃い体毛が生え始めていました。

 その頃にもなると、兄は学校へ通い始めており、わざわざせってばかりの妹のもとへ来ることも少なくなっていました。しかし、完全に来なかった訳ではありません。何の予兆もなくふらっと現れて、午睡ひるねの最中の私を起こし、自分の喋りたいことだけを散々喋った挙句あげく、またふらっと帰っていくのが、この兄だったのです。

 私はそれでも、彼の気紛れな訪問を楽しみにしていました。何に関心を寄せていたのかというと、彼の身体からだの成長具合です。

 彼はよく食べ、よく動いたので、その身体付きは中々にしたたかなものでした。動くたびに収縮される筋肉。角張った鎖骨が浮き出ると、そこに溜まり出した影が、首の位置を変えるほど、滑らかに彼の身体を動き回る様子は、敬慕けいぼの念を覚えずにはいられませんでした。

 また、彼の身体から発せられる、あの独特な匂いが好きでした。近づくと、汗の染み込んだえたような匂いが、彼の衣服から漂ってくるのです。それだけではなく、何か別のほのかに苦みのあるような匂いがしてくるのも確かでした。

 その匂いこそが、私が初めていだ、男の匂いでした。父を知らない私にとって、この爽やかで、っぱくて、どこかクラっと来るような匂いこそが、本能的に求めていた匂いだったのです。私にとって兄とは、純潔でおかしがたい、聖者のような存在だったのです。



 ◯



 月明かりがガラス戸の向こうから、青白く私の身体からだに降り注いでおりました。光にさらした両のかいなは、まるで陶磁器のようにき通って、美しく見えました。しかしながら、夜の濃密な呼気こきはひどく底冷えのする、真っ暗な息で、それらを受けた雲達がとばりとなって、私から幻想深い燈を奪うのでした。

 私は一瞬の夢から覚めた気分でした。洋灯の元、じっと我が身を見てみると、荒れた肌が火傷の跡のようになっていて、所々の皮膚が剥がれているのです。その剥がれた箇所から、また切り傷に似た様子で皮膚が裂け、血の固まったものがこびり付いて、やはり私を醜く見せているのでした。

 骨と皮ばかりの身体……。この身体を実感するたびに、私はひどく恥ずかしい思いをしてきました。他人と触れ合えないことではありません。両親に愛情を注がれなかったことでもありません。私が何よりも恥ずかしく思ったのは、私があの兄──英雄のように雄々おおしく、純粋な情熱を持った献身者──の妹である、という一点においてのみであります。


 ある日の昼間、それはその頃にはめっきり減ってしまっていた、彼の希少な訪問日だったのです。その日私は、彼のその筋肉質な腕に、そっと撫でられました。全くの突然の行為。彼の、今にも私を包み込まんとする魁偉かいいたなごころが近付いてくるときでさえ、私はその意味を咀嚼することができませんでした。(たった一片、私の心に膨れ上がった妄想を語るとするならば、兄がその武骨な腕で、私の身体を押し倒して、そのまま片方の手で私の首を、できるだけ長く、徐々に締め付けるようにして、くびり殺してくださるところを想像しました。)兄の指が、私の手首を掴んで、それから肘窩ちゅうかへ、二の腕に触れそうに、流れるように移っていくのを感じました。私は自分が、ずいぶん前から待ち望んでいた背徳感によって、高揚していることを理解しておりました。


 誰が私に罪を断ずることができましょうか。私には歳の近い異性など、兄しか知りませんでした。身を狂わすほどの甘美な感情を、私は兄を想うことでしか慰められなかったのです。その自涜じとくが、何を意味するのかを知らないままに。

 私にとって兄は一人の男でしたが、数年を経ると、また血を分けた兄に戻っていました。その方が都合が良かったのです。神に背くための都合です。悪魔と通じるための都合です。

 しかし私は兄に触れられ、竦然しょうぜんとした思いを禁じ得ませんでした。なぜかといえば、前述した通り、私の病んだ身体のせいです。

 兄の手に触れられた皮膚は、茹でた卵のからをむくように、ぽろりぽろりと剥がれ落ちていきました。白く汚らしい私の角質の残骸です。むけた跡から見えてくるのは、あの滑らかな白身ではなく、しわの寄っている、赤く痛々しい表皮でした。

 私はたまらず赤面しました。

 兄の顔を盗み見ることさえ、そのときの私には到底不可能なことでした。湧き上がっていた興奮も、冷や水を浴びせられたように、しずまっていくのが分かりました。私は顔を下に、できるだけ自分を見ないで欲しいと── もし可能であるならば、気付かずにいて欲しいとも──祈っておりました。果たして兄は、何も言わないまま、私の部屋を後にしました。

 兄はどんな気持ちだったのでしょうか。恋人が醜女しこめであったとき。嫌悪でしょうか、恐怖でしょうか。それとも薄々勘づいていたため、やっぱりか、という諦観ていかんでしょうか。

 兄の心情を推し量るには、私はあまりにも経験不足でありました。しかしその懊悩おうのう煩悶はんもんは私の人生を綴った紙の上に、決して消えることはない、一点真っ赤な汚濁おだくとして残ったであろうことは、半生の振り返りとして見ても確かであります。

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