僕と鳥

軒下風淋

関西弁を話す鳥

 「なんやニンゲン、おまえも飛ぶんか」

 電車をいくつも乗り継いで、やっとたどり着いた東尋坊の崖の先端。写真でみたよりずっと綺麗で、写真でみたよりずっと高いそこで、独りでじっと足元の波を見つめていた僕に声をかけてきたのは、信じられないことですが、黄色い嘴をくっつけた真っ白な鳥でした。

 鳥は「ちょっと隣ええか?」とこちらに駆け寄ってくると「いやぁ〜言葉の通じるニンゲン久しぶりやわぁ」と嬉しそうに羽をバサバサと広げて、ぽこんとした石の上に「よっこいしょ」とおまるの形になって座りました。出会ってから1分にも満たない間に驚くべき人間らしさを繰り出す鳥に僕は仰天しましたが、きっとこれは幻覚の類と思い、それならいっそのことこの不思議な現状に付き合ってやろうと、鳥の隣に腰掛けました。

 「なんて鳥なんですか?」

 鳥はギョロっとした目をこちらに向けました。

 「そんなん知らんわ。ニンゲンがつけた名前があるんやろ? おまえニンゲンやのに知らんのか」

 なるほど、真っ当だ。ぼくは「ごめん」と謝ると、スマホで調べようと思い、ハッとしました。そういえばスマホは自室に置いてきたのです。もう少し鳥の名前に執着したいところではありましたが、どうしてもそれより他に気にかかることがありました。

 「どうして関西弁なんですか?」

 「あ、これか? ちゃうねんこの前関西の方のツレと遊んでたらうつってもて。でも大体言ってることわかるやろ? まあまあでぇっかい心で許してくれや、へへへ」

 鳥はそういうと黄色い嘴の先端から舌をのぞかせて、ぷるぷる尻尾を振ってみせました。仕草がうざったかったので無視すると、鳥はころりと話題を変えました。

 「ところでさ、なんでおまえ飛ぼうとしてたん? おまえ羽ないし飛ばれへんやろ。飛んでも落ちて怪我するだけやで。やめときやめとき、死んだらシャレならんからな」

 「いや、僕は死ぬためにここへ来たんです」

 鳥は相当驚いたのか、おまるの姿勢のまま羽をバサッと広げました。立派な風切り羽が僕の腕にかなりの衝撃をもたらしたのに鳥は全くお構いなしといった調子で流暢な関西弁で捲し立てます。

 「はぁ!? なんやおまえ変なやつやなぁ。自分から死ぬんか? そんなん考えたこともなかったわ」

 変なやつ、と言われて僕は驚きました。考えたこともなかったと言われて少し苛立ちましたが、まあそれは相手が鳥だから許容するとして、鳥の反応が少し予想と違いました。

 「……理由は聞かないんですか?」

 自分でもビックリするほど甘えた声が出ました。甘えて、拗ねて、捩れたような声で僕は鳥に語りかけたのです。鳥は首を傾げました。可動域が素晴らしすぎて、一瞬首の骨が折れたのかと思いました。

 「聞いて欲しいんか?」

 「いや別に」

 鳥は目と口とを同じくらいに開いて、また首を傾げました。そのまま石からひょいっと降りると抗議するように羽をバタバタさせて、僕の周囲を駆け回ります。

 「なんやねんそれ。そんな言われ方したらわし気になるやんけ。ほらほら聞かせてみ、しゃーないなぁもうおっちゃんが聞いたるわって……誰がおっちゃんやねん! わしはまだイケイケの若鳥やっちゅーねんHAHAHA」

 僕は返事をしませんでした。しばらく元気だった鳥はパタリと羽ばたくのをやめると、とぼとぼと石の上に戻り、「よいしょ……」と再びおまるの姿勢になりました。

 「……いや、ごめんやん。ちょっとはしゃいだだけやん。わかった、もう若鳥ちゃうくておっちゃんでええわ、な? な? あーーーもう、わかった。おじいちゃんでもええわ。おまえだけ! おまえだけの特別サ」

 「大学受験に失敗したんです」

 鳥以外には誰もいない崖先で僕はぼそりとつぶやいて、ちらりと鳥の様子を伺いました。鳥の首は小さくかしげられています。

 「ダイガクジュケン? なんやそれおっちゃんの鳥頭にわかるように説明して」 

 言われて気付きました。確かに鳥に大学受験の概念は存在しない。僕はなんとか説明を試みます。大学受験の説明をするなんて、生まれて初めてのことでした。

 「なんていうか、その、年に一回同世代と勝負するイベントみたいなのがあって、勝てれば大学っていう勉強する場所に入れるんですけど僕は……」

 「負けたんか」

 鳥、容赦がない。僕は観念したように首をすくめて頷きました。

 「はい」

 鳥は「ふうん」と興味なさそうに首をかたかた左右に揺らしています。

 「じゃあおまえ今どこにおるんや? ダイガクちゃうんやろ?」

 「塾にいます」

 「ジュク?」

 鳥が再び首をかしげてこちらを見ました。僕はまた答えます。でもそれほど懇切丁寧に説明する気分でもなかったので、簡潔に答えました。

 「大学受験のための学校的な」

 「あーなるほどな」

 鳥は軽く羽ばたきました。この鳥は人間社会のシステムをどうやら断片的には知っているようでした。そこがますます僕の幻覚らしさを加速させているわけでしたが。

 鳥は短い尻尾をぷるぷると左右に振って「う〜ん」と首をかしげています。この鳥には何かを考えるときに尻を振る癖があるのでしょうか。ぴこぴこ左右に揺れる尻尾には愛嬌があるなと僕が鳥を見つめていると、鳥と目が合いました。目が合うといっても鳥の目は横についているわけで、嘴は前を向いていました。

 「でもいまいちお前が死にたがってる理由わからんわ。だってその、ダイガクには入れんかったけどジュクには入れたわけやろ? ほんで、ジュクにおったらまたダイガクジュケンできるんやろ? なんで死にたがるん」

 僕は即座に答えました。この質問は以前友人にもされた質問だったからです。

 「親に申し訳なくて」

 「親に申し訳ないってなんで?」

 僕は説明しました。友人はこの返事でわかってくれましたが、相手は鳥なので。

 「お金がかかるんです」

 「金か」

 この鳥は金を知っているのか。それなら話が早いと僕は言葉をつなぎます。

 「学費が親に申し訳なくて」

 「それで死のうとしたんか」

 「はい」

 鳥は「ふうん」と喉を鳴らしたような返事をして、尻尾をふるふるとさせ始めました。鳥も僕も口を開かない時間がちょうど波が16回岩壁にぶつかるだけの時間続きました。そんな僕らの間の静寂を慎重に破ったのは鳥でした。

 「……なあ、これ単純に疑問なんやけど、もしその、ガクヒがなかったらおまえ親に申し訳ないって思ったか?」

 「え?」

 「あー、その、なんかいらんこと訊いてたらごめんな。でもちょっと気になってん。ガクヒがいらんかったらお前は親に申し訳ないって思ったんかなぁと思って」

 「それは……」

 学費がなければ。そんなこと考えたこともありませんでした。僕はすっかり動揺してしまって、黙ってしまいました。もし僕に鳥ほどの尻尾がついていたら、今頃地面と擦れて火傷するほどぷるぷる振られているはずです。

 鳥はじっと前を向いています。つまり僕を見ています。僕は悩みました。答えに窮しました。何を言えばいいかわからなくなりました。宙ぶらりんな足の下で変わらず飛沫の音がします。波のリズムに合わせるように、僕はひとつひとつ、心に浮かぶ順番で遺言のように口走りました。

 「死にたいのは、怖いからです。また落ちたらどうしようって。僕はとにかく一年後が怖いんです。今度もダメだったらどうしようって。合格したみんなに馬鹿にされて、変な目で見られて、見下されて、それが怖い。家族だって。だからもう死んでしまいたくなったんです」

 「なるほどなぁ」

 「親は『あなたがその大学に行きたいなら応援する』とは言ってくれたんです。でも、もう自分でも大学に行きたいのかわからなくなって。なんだかもう、傷ついてばかりなんです。何もわからないんです。自分で走り出す勇気がないんです。自分がどこへ向かっていいかわからないんです。ただただ漠然と未来が怖くて、それなのに過ぎ去った時間だけがはっきりわかって、それが尚更辛いんです」

 こんなに口を動かしたのはいつぶりだろう。僕は捲し立てました。それほど声を張らなかったのに、不思議と言い終わった後にはぜぇぜぇと息切れを起こしていました。

 僕の呟きを黙って聞いていた鳥は「よいしょ」と人間が脚を組み直すように改めておまるになり直すと、静かに目を閉じました。僕は初めて鳥の羽が少し濡れていることに気付きました。油でベトついているだけかもしれません。急にさっき鳥にぶつかられた腕の様子が気になりましたが、鳥がぽつりと言いました。

 「不安かぁ。そやなぁ、いやぁなんかわしも思い出したわ。初めて渡りをした日のこと」

 「渡り?」

 鳥は立ち上がりました。おまるの時と立った時とでせいぜい6センチしか高さは変わりませんでしたが、僕には鳥が突然グッと何メートルも大きくなった気がしました。

 「そうや。知ってるか? わしらは冬になる前にここからずーーっとずーーっと遠くの島まで飛ぶんや」

 鳥は風切り羽の先で崖の先、遥か彼方、水平線の先を指します。僕は初めてこの鳥が渡鳥だとわかりました。ただ、相変わらず種名はわかりません。鳥に興味がなかったからです。僕は鳥よりも虫の方が好きでした。

 鳥は石からふわっと降りると、てちてちとした足取りで崖の先に立ちました。

 「わしも初めて渡りをするときは怖くてたまらんかった。行き先は定まってたんやけど、自分がそこにたどり着けるかがわからんくてな。親とか先輩はもう渡りを経験してて、コツみたいなん教えてくれるんやけど、それでも不安で不安で仕方なかった。わし兄弟おるんやけど、みんなわしより飛ぶのが上手かった。でっかい翼のにいちゃん、持久力ある弟、それに比べて特に何も持ってへん平凡なわし。渡りのためにやらなあかんことはわかってんのに、どうしても身体が動かんかった」

 鳥はこちらを見て「何が原因やったんやろなぁ」と言いました。僕は何も言えませんでした。真っ白な鳥は再び水平線の先に嘴を向けました。

 「そうやって飛ぶのサボってる間に周りはどんどん上手くなっていく。どんどん長い距離を飛べるようになって、よその子と競ったりもしてたわ。1番ビビリやった末っ子もいつのまにか地面スレッスレを飛べるようになってたりなぁ。不思議よなぁ、周りの成長ってな? すーぐわかるねん。でもこれも不思議よなぁ、自分の成長ってぜんっぜんわからんねん」

 このときの僕は何だか不思議な心地でした。この鳥に対して、何か特別な感情を抱いていました。鳥は続けます。美しい純白の羽が右側の崖先を指さしました。

 「今でも覚えてるわ、あの崖の先に立った日のこと。みんなが次々飛び立っていって、最後に残ったのはわしやった。もうなぁ、足がすくんですくんで。飛べるわけない、飛び切れるわけないって思った。でも時間ってのは残酷でなぁ。わしがもたついてる間にも確実に冬は近づいてきてるねん。ここで飛ばんと死んでまう。意を決して飛び立った。家族も友達も『よく飛んだ』って褒めてくれたわ。わしは笑った。なんでもない振りをして笑った。でも、間違いなくずっと不安やった」

 僕はいつのまにか崖先に放り出していた宙ぶらりんの脚をしっかり両手で抱え込んでいました。潮風を受けた脚はデニム越しにもその冷たさが手のひらまで伝わってきました。鳥は小さく首を下に向けました。崖下を覗いているようでした。

 「最初は友達と目的地が同じやった。むしろそれがきっかけで友達になったんやっけな。一緒に頑張って最後まで飛ぼうって励ましてくれて、わしもなんとか一緒に飛んでた。でもな、飛び始めてから暫くして、えっらい嵐に襲われた。頭の上でバリバリ雷が唸って、轟轟なる風に吹かれて、それにやられて、友達が青い海の底へ沈んでいった。助けてやりたかった。でもそこは大海原の真ん中で、どうにも出来へんかった。わしは泣いた。残った友達も泣いた。でも羽ばたくのはやめなかった。やめたら自分も海の底やから、泣きながら海の上を飛んでた。必死になって嵐を抜けた後わしらは約束したんや『あいつの分まで絶対に渡りを成功させよう、目的地に辿り着こう』ってな」

 鳥はそう言って顔をあげました。崖下から這い上がってきたフナムシが僕らに驚いて、ぴゃっと岩陰に隠れました。鳥はもう完全に独り言を言っているようでした。僕も完全にラジオを聴いているようでした。

 「だいぶ飛んだと思う。目的地までもうそこそこって距離にきてん。横を飛んでる友達はだいぶしんどそうやった。わしも正直めちゃめちゃしんどかった。そんなときにや、青い海の先に石ころくらいちっちゃくてまるっこい緑が見えてん。直感でわかった。島や。でもわしらの目的地じゃない。わしはもうしんどかった。一刻も早く渡りをやめて、そこで美味い飯でも食べたかった。のんびり羽休めをしたかったんやな。でもやっぱりそこは目的地じゃないねん。その島はわしの行きたいところじゃない。やから、わしは堪えた。目をつぶって島の上を飛び去ろうとした」

 鳥は再び俯きました。そのまま鳥は膝から崩れるようにおまるの姿勢になりました。僕が心配して声をかけようとすると、鳥は語りを再開させます。

 「少しずつ、ほんまに少しずつ、友達の高度が下がっていった。目を開けた時にはあいつの背中の変なブチ模様がわしに見えたんや。思わず『そこじゃないだろ!』って叫んだで。『お前の行きたいのはそこじゃないだろう!』って」

 鳥はひとつため息をしたようでした。ないはずの肩が落ちたように僕には見えました。僕は思わず息を呑んで、鳥の二の句を待ちました。

 「友達はゆっくり落ちていきながらや、たった一言、力の限りわしに叫び返した。『もう疲れた!』友達はそれ以上何も言わんかった。正直、わしは友達が羨ましいと思った。でも不思議よなぁ、ほんまに、ほんまにその瞬間やで、わしの羽が急に鉛みたいに重くなったんや。涙と涎と汗と疲労とでグシャグシャになってる自分が急にアホらしく思えてしまった。あの島におりた友達を責めるような奴はおらんかったから尚更や。というか、その島だって普通の渡鳥にとってはすごいんやな。わしは最低やから、ずるいって思ったわ。ダサいって思ったわ。そんなん思うやつわし以外に誰もおらんかったのにな」

 鳥の息遣いが荒くなっていました。

 「結局まぁ色々とズタボロになりはしたけど、わしはなんとか目的地までたどりついた。始めにここに行きたいっていった仲間はみんなおらんくなって、わしはたった独りで真っ白な浜辺を歩いた。わしは泣いた。自分の中にある汚い気持ちに気づいた自分が憎くて泣いた。苦しくて泣いた」

 僕は思わず口を開きました。なんとかこの鳥を救いたいと思ったからです。

 「でも目的地には行けたんですよね。じゃあそれはよかったんじゃ……」

 鳥はくるっと振り返ると再びてちてち小刻みに脚を動かして、僕の隣の石の上に「よっと」とおまるになりました。「ちべたっ!」と羽を震わせた後、鳥は遠くを見つめながら答えました。

 「さぁどうやろな。途中で何個か島あったし、そこに降りてたらめちゃめちゃ可愛い子に会えて、あらあらうふふなラブに発展してたかもしれへん。ビビるほど意気投合する友達に会えてたかもしれへん。自分の中の汚い心に気づかんと最期まで生きていけたかもしれへん。こんなに傷つかんですんだかもしれへん。目的地についたからといって単純によかったとはまだ言われへんな。その答えがでるのは死ぬときや」

 「そっか、確かにそうですね」

 僕は頷きました。鳥は「気になるんやったらわしが死ぬ直前に教えたるわ」と軽く羽ばたいたあと、尻尾をぴょこんと揺らしました。

 「でもなぁ、まぁ渡りの途中で飛ぶのやめたら普通に死ぬからそれは置いといて、もしわしが途中の島に降りたとしたら多分わしは自分で自分が許せんかったと思うで。おまえもそうちゃうん? ガクヒとか言ってたけど、もしガクヒがなくてもまだ死のうと思うんやったらさ、それは自分で自分が許されへんからちゃうん」

 また僕は何も言えませんでした。鳥の言った言葉を頭の中で考えたからです。鳥は僕を傷つけたと思ったのか「ちゃうかったらごめんな、てかこんな話してごめんな」と謝りました。愛嬌のある尻尾がたらりと岩肌にくっついていて、とても可愛らしく思いましたが、それとともに僕は鳥に心の深いところをツンツンと突かれている気にもなりました。鳥は前を向いています。つまり僕を見ています。僕は何かを言おうとして、まとまらない頭のまま口を開きました。

 「そうかもしれません。学費がというと、親が、親戚が『そんなの気にしないで!』と慰めてくれました。僕はそう言うことで、確かにほんの少し自尊心を保てたんです。落ちて当然のようにふんぞりかえる人間よりも、落ちて学費を気にしている人間である自分の方がいくらか高尚な人間であるような気がしました。同じようなことを言うと、友達も、先生も、みんな僕に優しくしてくれました。中には僕を『偉い』と言ってくれる人までいました」

 僕はいつのまにか俯いていました。胸がドキドキと張り裂けそうで、緊張で肺が破れそうでした。僕は何か重大な告白をしている気分で、足先の絶景からも鳥からも目を背けました。

 「でもただ1人、僕だけは僕に優しくしてくれませんでした。毎日が罪を重ねてるという意識でいっぱいで、部屋で1人のときは一層ひどかったです。なんというか、ううん、もう、なんと言えばいいかわかりません。ただ、僕はもうこの罪を負いきれなくなったのかもしれません。みんなの期待も、励ましも、応援も、全てが苦しかった。今日だって塾をサボってここに来たんです。親は僕を応援して弁当を作ってくれます。友達も僕を気遣って大学の話はしてきません。僕は、僕の周りの全ての優しさがたまらなく痛くて苦しいんです」

 僕はいつのまにか鳥のことも、ここが東尋坊の崖先であることも忘れて、毎晩夢の中でやっていたようにぎゅと脚を抱えていました。

 「でもそんな話、誰にもできない。相手の善意は断れない。大して大切じゃない人ならやめてと言えるんですが、本当に大切にしたい人に、僕はそんな自分勝手で道理に合わないことは言えない。でもそうでしょう? だって僕が我慢すれば、僕の感じてる理不尽で不条理で非道徳的な感覚はこの世界には存在しないんです。それで、僕は飲み込むことを覚えたんです。覚えてしまったんです。それからずっと飲み込んできました。どんな気持ちも、言いたいことも、全部全部飲み込んで、胃の底に溜めてきました。でも、もうそろそろ胃袋の底が抜けそうなんです」

 僕は鳥の視線に気付きました。そちらを向いて、僕はにっこりと笑いました。

 「これが、僕の死にたい理由です」

 鳥は変わらず前を向いていました。なんでもないような顔をしていましたが、豆粒ほどの小さな脳みそをフル回転させて精一杯言葉を選んでいるのが尻尾の慌ただしさから伝わってきました。僕はこれが怖かったのです。だから今まで誰にも言わなかったのです。

 僕が、言ったことを後悔するその直前に、鳥が口を開きました。

 「                      」

 その時、僕はハッとしました。世界が一気に色を取り戻したようでした。鳥は首をかしげています。急に元気になった僕が奇妙に映ったのでしょう。

 僕は鳥を抱きしめました。やっぱり思ったとおり、ツヤツヤで綺麗に見えていた羽は実際は油でギトギトでした。僕は胸の中の鳥に何度も「ありがとう」と言いました。鳥は「いやいや」と言いながらギョロリとした右目で僕を優しく見あげていました。

 しばらく抱きしめたあと、僕はそっと鳥を放しました。真っ白で、綺麗で、でも油でギトギトな鳥は何も言わずに首を振りました。あるいはもう何も言えなくなったのかもしれません。美しい鳥はパァッと翼を広げると、沈みかけている夕陽の方へ勢いよく飛び去っていきました。

 しばらく夕陽を見ていた僕ですが、太陽がだいたい半分沈んだくらいで重いリュックを背負い、急いで駅に戻りました。そこにちょうどやってきた電車に乗って、ボックス席でぼんやりと外を眺めました。鳥が飛んでいます。何羽も連なって、真っ赤に染まった海の向こうへかけていきます。

 家に帰る頃にはすっかり暗くなっているでしょう。僕はリュックから弁当箱を取り出しました。あけて、少し匂いを嗅いで、一際目立つプチトマトに箸をさして、少しずつ少しずつ、それを食べ始めたのです。

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