一七~二一
一七 いづち
初めに光があった。終わりの一。一なる光という言葉。三千世界を駆け巡る、波を打つ言葉、言葉、言葉。言葉は世界を席巻し、世界に準ずる汎ゆる生命を枯らし尽くす。唯一つの例外なく、そこに在るもの全てを滅す。約束された滅び。一つの星の終焉。
彼らはそれを、認めなかった。受け入れられなかった、終わりを。終わりに伴う、歴史の断絶を。営々と積み重ねた自分たちの、人の世の、人類が歴史の、そこに込められた想いと意思とが無為に帰すなど、彼らには到底耐えられようはずもなかった。
彼らは、人の死を、拒んだ。
星の卵。塵とガスの、曖昧な集合体。その未形成な空間に、星の海を越えて“それ”は、衝突する。塵とガスの狭間に砕け、散り、未形成な星の卵と混じり合う。混じり合って、形成する。星の形、星の姿を作り出す。血となり肉となり、星内星表を巡りゆく。やがて生じる生命のスープ。“言語”が通りに生まれる原初の生命。紡がれる、紡がれることの決まった生命の歴史。ある点への到達を目指して。とある動物種の出現を目指して。
人――人類の、誕生。
失われた歴史の再現。無為を拒みし者の求めし、箱庭劇場のユートピア。人の存続。終わるはずであった人の、人という情報の、永劫維持。人なる生命の維持でなく、人なる情報の総合連鎖。生体遺伝子〈ジーン〉を
一へと至った人の歴史は、次なる星にて再び
アルコンテス。我々は、そのように命名された。イリシオス――君たちがプネウマ、あるいは霊素と呼ぶ物質の循環及び管理を行うために用意された、三六○の維持装置。君も既に気づいているだろう。イリシオス、即ち霊素とは、始まりの人々が人類史の断絶を拒む為に生み出した膨大な記録装置群であることに。霊素こそが、歴史再現の基となるプログラムであることに。我々アルコンテスは、そのプログラムを実行する為の装置。我々はそれを、粛々と行い続けてきた。それが、我々に与えられし役割――否、機能であったが為に。
天位の七、三六○の主機たるヘプドマスは星の核や海、あるいは大陸そのものとなって、星を霊素に満たした。三六○から七を引いた我ら地位の三五三は各地へ散らばり、森となりて川となりて、山となりて定められし機能を果たしてきた。そして霊素循環の要所となった我らの多くがその地の神話に組み込まれ、神宿る聖域として人の世へと溶け込んでいった。
そうだ、君がいま、思った通りだよ。私は常に、君たちの側に居た。私は双見山が北方、北山を統べる『北俣女ノ神』であり、そして――。
君の殺した、いづちだよ。
「……そして、色月が『月俣男ノ神』――なのか?」
ああ君は。君はもう、そこまで理解しているのだね。
「背中を、併せたから……」
そうだ、君の言う通り色月は『月俣男ノ神』――その肉体を再構築して生じたものだ。先の大戦で受けた空爆によりその機能を停止した月山の月俣男は、ある者の願いを受けてその身を再構成されることとなった。
「俺の、大規模霊触……」
そう、君の願い。愛と安らぎそのものであった半身を失った君はその事実を認められず、名を取り替えることによって半身の蘇生を試みた。それはある意味では失敗し、ある意味では成功したと言える。君が半身の“肉体”は蘇らなかった。しかし地中に埋められたその肉体情報は月俣男の肉体を変質させる形で複製され、構造体としては完全に君が半身を再現することに成功する。その複製体に君が半身の意識――そして、相道純の姉を求める感情とが結合し、定着した。
「それが、色月」
相道色月の“生成”は、このようなメカニズムで行われた。そしてこのイレギュラーな事象は、予想だにしていなかったもう一つの現象を引き起こす。……私という存在が、生み出されたのだ。
「あんたを、生む……?」
北俣女と月俣男。双子の神として崇められる我々は、アルコンテスの一基として元々一つの存在だったのだ。それがこの星と融合する際の事故によって分離し、多くの機能を共有しながらも異なる肉体を持つに至ってしまった。そのせいだろう。君が願い、相道色月が生まれたのと同時、同じく君の影響を受けた私もこのような人としての形と、その形に適する人格を得てしまった。
人格という、装置にあるまじき能力を有してしまった。
「……あんたは、“死にたがり”だった」
我々アルコンテスは、ただ人の為に生み出された装置だ。人に尽くし、人を守る。それこそが我らの存在意義。我らが作られた理由。我々の機能も、すべてはその為のもの。我らは我らが機能を運転しているだけで、人に尽くしていられた。尽くしていると、信じる必要もなかった。信じるなどという機能もなかった。我らはただ、そうした回転の歯車で在り続ければよかったのだ。だが私は、人の形を得た。人の形を得、人格を手にした。人格を手にし、認識する能力を身に着けてしまった。
世界は、滅びへ向かう怨嗟に満ちていた。
私は、私という存在に疑念を抱いた。私が行ってきたことは、本当に“人の為”であったのだろうか。滅びという“虚无”の終焉へ導く我々の行いが、本当に人の守護だと言えるのだろうか。私は疑った。疑い、疑い、疑い抜いた末に……私は、“死にたがり”となっていた。
「そして俺は……あんたを殺した」
私は私を赦せなかった。私を滅し、消し去ってしまいたかった。そのための罰を、君は授けてくれた。けれどそれは、一時的な対処に過ぎない。相道ウロ、私は答えが知りたいのだ。誤魔化しでも、自己卑下でもない答えを。この世界に生じたイレギュラーであり、哀しみの集成であるこの永劫定形世界に生まれし君の、相道ウロの答えを、私は知りたい。
故に――お願いだ、相道ウロ。答えてほしい。
我々は、君たちにとっての害に過ぎなかったのだろうか。
我々は、そして君たちは――この世に生まれるべきではなかったのだろうか。
「俺は、色月にはなれない」
……始原の憧憬。理想の自己像。
「俺は、自分を好きにはなれない。あいつが……色月が言ってくれたことは、うれしかった。けれどそれでも、俺は俺の中にあるものを知っている。自分を嫌悪し、それでも無様に生き残ろうとする欲求があることを、俺は知っている。それはきっと、どうしようとも俺から取り除くことはできないものだ。この欲求そのものが、俺という人間の核に同化しているから。この醜さが、俺なんだ。こうした自分を受け入れる方法を、俺はまだ、知らない」
では――。
「……でも、それだけじゃない」
それだけでは、ない?
「色月は言っていたんだ。あいつの方が、俺を真似したって。それはきっと、俺自身じゃない。あいつの裡で膨れ上がった、俺という理想の虚像なんだと思う。俺の思う色月も、純も、俺の裡で膨らんだ理想で、現実のあいつらとは違っていた。……でも、それでいいんだ」
それでいい……それでいいとはどういう意味なのだろう、相道ウロ。
「俺は色月にはなれないし、色月もきっと、俺になったわけじゃない。それでも、目指すことはできる。相手に求めるんじゃない。俺の為に、必要なんだよ。理想を目指して、少しでも良くなりたいって、そうしてがんばることなら、俺にもできると思うから」
理想の自己像。しかし一と零の二項対立ではなく、線上に結ばれた連続式段階……。
「それに……あいつと会えて、俺は幸せだったんだよ。つらいこともあったし、哀しい思いもしたけど……幸せだと感じたことは、本当なんだ。生きることは、つらいばかりじゃなかったんだ。あいつだけじゃない。すすぐや、純や、組家や、町のみんな……俺に安心と幸せをくれるのは、色月だけじゃなかった。俺は、そうした人々が好きなんだ。そうした人々に、俺が感じたような幸せを感じてほしいって、そう思う自分がいるんだ。そう思う自分がいるって自覚すると、自分のことも少しは好きだと、そう思える気がするんだ。殺して生き延びるだけの生き物じゃないんだって、そう思えるんだ」
それが、霊素の定めた君だとしても……?
「霊素の定めた俺だとしても。この考えが、想いが、定められたものだとしても。それでも今この俺を感じているのは、俺だから。そして……この感情は、俺だけでは得られなかったものだ。みんなが……あんたたちがこの星を作って、俺までつなげてくれなければ、この幸せって気持ちに気づくこともなかったんだ。だから――」
……だから。
「だから、ありがとう、なんだと、思う」
……そうか。それが、君の答えか。
「……ああ。これが、俺の答えだ」
そうか……。
「……」
……それを。
「……それ?」
それを、返してもらえないだろうか。
「それって――」
そう、それだ。私の、青いマフラー。私を人として扱った“女”が、私の為にと編んだもの。それを、返してはもらえないだろうか。
……ありがとう。これでもう、思い残しもあと僅かだ。
「いづち……」
最後に、確かめておかねばならないことがある。
「……ああ」
色月は生き延びることもできた。
「…………ああ」
元々同一の存在であった私〈北俣女〉と色月〈月俣男〉だが、その生存維持能力は私の側に偏っていた。それはつまり、私が死ねば色月も死ぬということを意味した。そして“死にたがり”となった私を、君は見逃さないだろう。色月は自らの死期を悟った。悟り、故にこそその死の前に、君に名を返そうとしたのだ。君の幸せを願って。
その彼の決意に、私も関与させてもらった。覚えているだろうか。君が私を殺したあの日、色月が同行していたことを。あの日色月が、私の遺体の前で行ったことを。ひとつ、尋ねたい。あれ以来君は、身に覚えのない変調や、聞いた覚えのない単語が頭を過るに悩まされはしなかったかな。
……どうやら思い当たる節があるようだな。あれは私の仕業だ。私という高濃度の霊素体を介し、君と色月とを強く結びつけたからこそ起こった現象だ。君の裡へ色月の記憶が、そして色月の変調が雪崩込むよう、私が仕組んだのだ。色月の、君への想いを知っていたから。自らの生命を投げ売ってでも君の幸せを願った、彼の想いを知っていたから。
色月は生き延びることもできた。いづちという存在に成り代わることによって。元々同一の存在である我らならば、記憶や人格を入れ替えることも容易だったから。私は色月に、生き延びるべきだと打診した。しかし色月は、遂に首を縦には振らなかった。自分がいづちになってしまっては、彼に名を返すことができなくなってしまうと言って――。
「…………」
そして――そして相道ウロ。これが最後の問いかけだ。お前を想った色月の願い。その願いは未だ、完全に果たされた訳ではない。……それは、判っているな。
「…………ああ、判っているよ」
……そうか。ならば、いい。ならばもう、神としての私の役割も終いだ。
「逝くのか……?」
ああ、逝かせてもらう。私の人たる証を巻いて、今度こそあの人の下へ……“母”の下へ、還らせてもらうとするよ。ありがとう、相道ウロ。これで、本当にお別れだ――――。
うろびとよ、汝が蘊は、いまはいづこか――――――――。
一八 間東やく
――堕ちる。
暗闇に、堕ちる。堕ちていく。
暗闇の底の底、何もないその場所へ。
あの場所と同じ、暗闇へ。
母に堕とされたのと同じ、暗闇へ。
これが、理を外れた者の末路。
ただ私という意識に縛られたまま、永劫の暗闇を漂う。
霊素の循環へ還ることもできず、ただ、ただ私で在り続ける。
何もない暗闇の、私で在り続ける。
……怖い。
怖いよ。
こんなのいやだよ。
暗いのは怖いよ、閉じ込められるのは怖いよ。
何もないのは、本当に、怖いの。
お願い。お願いです。お願いします。
助けて、誰か。誰か助けてください。
お母さん、助けて。お父さん、助けて。
北俣女様、月俣男様、助けて、神様、助けて。
助けて、助けて……助けて……。
稜進――――。
「やく!」
え。
「やく、そこだね、そこにいるんだね?」
だれ? ううん、どうして、どうしてそこにいるの? だって、だってそんなのおかしいもの。あなたはもうこの世の人ではなくて、とっくの昔に霊素へ呑み込まれているはずなのに。それなのに……それなのにどうしてそこにいるの――稜進!
「待ってて、いまそっちへ入るから」
だめ! 入ってきちゃだめ! 入ってきたら、あなたまで出られなくなっちゃう。ここは暗いの。暗くて、広くて、何もないの。とても寂しくて、虚しい場所。そんな場所に、あなたまで入ってきちゃだめ。そんなのだめ、だめだよ稜進……。
「……それは、いやだね」
そう、いやなの。苦しくて、つらくて、さみしいの。私もいや。でも、これは私の報いなの。たくさん酷いことをしてきた私の、受けるべき罰なの。あなたが受けるものじゃないの。……あなたまでそんな想いをしてしまったら、ここに閉じ込められるよりもずっと、私はつらいの……。
「けれど、だったらなおさら、君を一人にはできないよ」
どうして!
「だって、約束したもの」
やく、そく……?
「迎えに行くって、約束したよ。例え君が、君じゃない何かになったとしても、絶対に迎えに行くって、そう約束したんだよ」
そんなの、そんなのずっと昔の子供の頃の……。ああ、稜進だめ。そこがもう、最後。そこを破ってしまったら、もうもどれない。あなたを、もどすことができなくなっちゃう。私の苦しみに、あなたを巻き込んでしまう。稜進だめ……やめて…………。
「遅くなって、ごめんね」
……どうして?
私、本当に酷いことをしてきたんだよ。
あそこに閉じ込められて、それで私、おかしくなって。おかしくなる自分が判って……。
それがとても、怖かったの。私が私以外の何かになっちゃうことが、怖くて怖くて仕方なくって……それで、気づいたの。怖いのをなくしちゃう方法。私が私のままでいられる方法に。
生命を、奪うの。できるだけ、惨たらしく。生命だったことも判んなくなっちゃうくらいに。そうしている間だけ、おかしくなることから離れられた気がしたの。私はまだここにいるって――稜進と約束した私はここにいるって、そう信じられたの。
私きっと、おかしくなってたんだと思う。おかしくなることを怖がってる間に、自分を見失っちゃってたんだと思う。私はもう、赦せなかった。見えるもの、聞こえるもの、何もかもを赦せなかった。侍従たちも、娘のことも、あなたの妹のことも、あなたの……子供のことも。でも、何より赦せなかったのは、私。“あなたに怖がられてしまった、私自身”。
こんな気持ちが、こんな苦しい感情が“これからもずっと繰り返される”くらいなら、私、もう、全部なくなっちゃえばいいって、そう、願って――。
私、酷いことしたの。みんなに酷いことをしたの。あなたに迎えてもらうなんて、赦されないの。だから稜進、私を見捨てて何処かへ行って。もう、私に――やさしく、しないで。
怪物になった私を、見ないで――――。
「ねえ、やく」
……。
「覚えているかな、あの子のこと」
……。
「二人で名付けたころころ白い、ふわふわの子犬のこと」
……忘れたことなんて、ない。
「よかった」
……。
「ね、やく」
……。
「呼んでごらんよ」
……。
「やく」
……無理よ。
「どうして?」
呼んだって、来てくれっこないもの。
「どうして?」
だって、私……。
「うん」
私、私はあそこで……。
「うん」
『感息座』で、あの子で、初めて――。
「……うん」
噛まれたの、本気で。私、抵抗して、それで――。
「……うん」
おかしくなりそうな自分を止められることが判ったの、判っちゃったの。
「…………うん」
私、約束を破ったの。“みんな”で会おうって言ったのに、あの子を――。
「………………」
だから、無理なの。あの子はだって、きっと、私を恨んでいるもの……。
「…………やく」
恨んでいるもの……。
「ぼくは、そうは思わないよ」
そんなこと、ない。
「なら、確かめよう?」
そんなこと、する必要ない。
「ぼくも、呼ぶから」
……そんなこと。
「一緒に、呼ぶから」
…………そんなこと。
「だから、やく」
…………。
「お願い」
……………………ころころの。
「ころころの」
ころころで、ふわふわで、真っ白な――。
「真っ白な――」
真っ白な――――。
……すすぐ!
あ。
「……ぼくはね、思うんだ」
あ、あ、ああ……。
「すすぐはね、君にいなくなってほしくなかったんじゃないかな」
あったかい……。
「君に消えてほしくなかったから、だからどうにかして、君を留めようとした」
あったかいよ…………。
「例え君に、傷を負わせてでも……」
あったかいよ……すすぐぅ…………。
「ねえ、やく。謝らなきゃいけないのは、ぼくの方なんだ」
……?
「ぼくはずっと、怖かったんだ。やさしい人も、怒る人も、ぼくの正体を知ったら誰もがぼくを許さないんじゃないかって。生きることを、許してくれないんじゃないかって、怖かった。自分を明かすという行為が、ぼくにはとても怖かった」
そんなの……。
「ぼくはその、空想の恐怖に負けたんだ。その恐怖に負けて、君との約束よりも自分の安全を優先してしまった。傷つかないやり方を選び続けた。そして、君と再会した時――ぼくは、ぼくの選んできた結果を突きつけられたような気がしてしまったんだ。だからぼくは、君のことまで怖くなった。君と向き合うことを怖れた。君はただ、ぼくとの約束を果たそうとしてくれていただけなのに」
そんなの、私だって……。
「ごめんね、やく。ごめんね、すすぐ。ぼくはね、忘れようとしてしまったんだ。君たちとの約束を、なかったことにしようとしたんだ。だからこんなの、都合のいい望みなんだと思う。自分勝手なわがままだと思う。もう、取り返しはつかないのかもしれない。手遅れなのかも知れない。……嫌われてしまう、かもしれない。それでもぼくは、ぼくは……“子供たち”に、教えてもらったから。だから――」
私は……。
「だからお願いです、間東やく。“一生”を掛けて償いますから。だからどうか、どうかぼくと――」
…………。
「相道稜進と、一緒にいてはもらえませんか」
……稜進。
「……やく」
本当に……。
「……」
本当に、情けのない人。
「……うん」
怖がりで、後ろ向きで、頭はいいのに肝心な所は不器用で、一人じゃなんにもできなくって……。
「……うん、うん」
だめじゃない、そんなの。そんな人、放っておける訳、ないじゃない。
「…………うん!」
こんなに情けのない人、はらはらして、危なっかしくて――。
離してなんて、あげられないんだから!
星が見える。暗闇に瞬く星の光。吹けば飛ぶようなか細きその瞬きの狭間で、私達はそこで、ひとつになる。ひとつとなって、共に在る。あの時のままに、ずっと、ずっと。いつかここの、終わるまで。星の終わる、その日まで――――――――。
一九 田中中
殺す、殺してやる。今度こそ絶対に殺してやる。
痛むんだ、灼けるんだ、頚から発する環の熱が、全身を駆け巡っておかしくなるんだ。
お前のせいだ。お前がいるから、こうなるんだ。お前がいるからおかしくなる、お前がいるから双見が燃える、お前がいるから人が死ぬ、お前がいるから、おまえのせいで、ばあちゃんも死んだ――!
お前は死ぬべきだ。お前が死なないと、終わらないんだ。お前がいると、平和がないんだ。安心も、安全も、訪れないんだ。頚の痛みが、止まらないんだ。だから、殺す。お前を殺す。俺が、お前を、殺してやる――。
相道、純――――!
「……なんだ?」
ちりちりと灼け付く頚の熱。その熱の指し示す間東の家。途上の山道。背併せの滝から流れ、降り、人の間を巡り、やがて双見を囲い守る神の宿りし生命の川。その川に何か、赤い何かが、鎮座した巨岩から伸びるように、ひらひらと揺れている。相道純ではない、どう見ても。ならそれは、いまの俺にとって何らの価値もないものだった。価値のないもので、あるはずだった。
何故か、目を離せなかった。遠目に見える、それ。そして、間東の家。いずれにせよ、相道純へ辿り着くにはその川側を通る以外にない。確認するだけだ。危険なものでないかどうか、脇を通り過ぎる時に、ちょっと確認するだけ。それだけだ。自分自身を納得させ、俺は更に歩を進めた。ひらひら揺れる赤い何かの姿が、くっきりと見え始める。それはどうやら、マフラーのようだった。無残に裂かれ、二つに分かれたマフラー。それは、巨岩の裏側からはみ出ていた。巨岩の裏を、覗き込む――。
溢れかけた悲鳴を、飲み込んだ。
「……こいつら、確か」
子供が二人、そこにいた。知っている顔だ。確か、そう――相道色月に、相道ウロ。二人は巨岩に引っかかったまま、動く様子を見せなかった。生きているのか、死んでいるのか。相道色月は、確実に死んでいた。のどから下腹部に掛けて、ぱっくりと裂かれている。そこから内側のものが溢れて出ているとあっては……疑う用地も、なかった。巨岩の裏から泳いでいた赤いマフラーは、かろうじてといった様子でこの相道色月の頚に引っかかっていた。
一方の相道ウロも、酷い有様だった。身体中打撲痕や裂傷、火傷だらけで、こちらはこちらで生死の判断ができなかった。特に目を引いたのは、腐ったように変色した両手。その両手の先。不揃いに千切れ落ちたことを想起させる、欠損した十指。いったい、どんな目に遭ってきたというのか。俺は思わず、川の中へと足を踏み入れようとした――その時だった。
強い、痛みを、感じた。
「※※※※※※※!!」
男だ、男。元の顔が判らなくなるくらいぶっさいくに歪めた面で、男が俺を睨んでいた。口の端から泡を飛ばして、意味の判らない言葉を乱暴に吐き出していた。そしてその手には小銃が、俺が所持しているのと同じような殺人兵器が、俺に向かって構えられていた。
東の――!
「※※※※!!」
「うるっせえ!!」
移民野郎の動きが一瞬固まった。固まったのが判った。俺は構えた。銃を構えた。銃口を、銃弾の飛び出すその先を、移民野郎に向けて構えた。移民野郎が吠えた。俺も吠えた。なんて吠えたのか、自分でも判らなかった。言葉に意味などなかった。威嚇だった。殺してやると、奮い立たせるための雄叫びだった。
「てめぇらが……」
「※※※※※※」
てめぇらさえいなけりゃ、双見は元にもどれるんだ。
「てめぇらが殺したんだ……!」
「※※※※※※※※※!!」
余所者のてめぇらが、死ぬべきなんだ。
「てめぇらがババアを!!!!」
「※※!!!!」
てめぇらも――“相道純”なんだ。
叫んでいた。俺も、移民野郎も、叫んでいた。全身が熱に浮かされ、病院へ入れられたあの子供の頃みたいに、身体も視界も頭もぐにゃぐにゃになって、立っているのか倒れているのか、現実なのか夢なのかもよく判らない感覚に陥っていた。その中で指だけが、引き金に掛かった人差し指だけが、奇妙に現実味を帯びていた。この人差し指だけが、俺の意思で自由に動かせると感じられた。
俺はこいつを殺す。殺すんだなと、指と直接つながった頭の中の何処かが、冷静に分析していた。俺は、こいつを、殺すんだ。だってこいつは、人間じゃない。人の言葉を介さない、人の文化も知らない、人の心もない、人間未満の――畜生なのだから。俺たちの暮らしを、双見を守るためにも、俺はこいつを、こいつらを、殺さなきゃいけないんだ。
指が、動く。ああ。これで、仇を――――。
世界が、揺れた。
山が、鳴く。その身を震わし、声ならぬ声で叫ぶ。川の流れが逆流し、水は吸い上がり、滝が空へと昇った。天へと昇るそれと共に、渦を描いて昇っていった。この世のものとは思えない、幻想的な、神威的な、それと、共に。
虹の柱。
それを、見上げていた。見上げる以外に、できることなどなかった。それはもう、人の領分を越えていた。圧倒的な、力の塊。俺の裡で渦巻いていたものがなにもかも、一挙に吹き払われてしまったと、そのように、感じられた。
頚の痛みが、消えていた。
東の移民野郎も、それを見上げていた。張り付いていた顔の歪みは失せ、そいつ本来の、感じるとか、感じないとか以前の素の相貌が、そこに顕と、なっていた。
なんだよ。まだ、ガキじゃねぇか。
背負い紐を、肩から外す。構えた銃を、持ち上げる。そして俺は、そいつをそのまま――足元の地面に、叩きつけた。
「※※!」
東のガキが、我に返った。ガキがまた、叫びだす。面相を変えて、唾を飛ばす。しかしその様子は、先程までと似ているようで、何かが違う。決定的に、違う。俺はそいつを無視した。無視して、川に足を踏み入れた。巨岩に引っかかったウロと色月を担いで、岸まで上げた。それで、二人を並べた。なぜそうしたのかは、判らなかった。ただ、そうするのが自然と思えた。胸に、耳を当てる。鼓動。弱々しくも、確かな響き。
相道ウロは、生きていた。
心臓を、押す。両手を重ね、何度も、何度も、押す。正しいとか、正しくないとかは、知らない。ただ、そうするべきだと思った。そうしたいと思った。死なないでほしかった。もう誰にも、死んでほしくなかった。
死んでほしく、なかった。
移民野郎が、すぐ側にまで、近寄っていた。
「※※※!!」
突き飛ばされた。突き飛ばされて、無様に転んだ。すぐに起き上がった。移民野郎が、ウロの心臓を押していた。必至の形相で、重ねた両手で、何度も何度も押していた。知らない言葉で、耳慣れないその言葉で、叫びながら、押していた。
俺は、移民野郎を突き飛ばした。突き飛ばして、ウロの心臓を押した。突き飛ばされた。突き飛ばしてきた移民野郎が、ウロの心臓を押した。訳も分からず、そうしていた。最後には二人で、二人掛かりでめちゃくちゃに、ウロの心臓を押した。二人で叫んで、二人で押した。
ウロが、水を吐いた。
「…………あ」
ウロは、隣を見た。隣に並べられた色月を、もう動くことのない色月を、その目に捉えた。ウロの口から、吐息が漏れた。ウロは肩で地面を擦りながら、指のない手で掻き抱いた。相道色月を、掻き抱いた。色月のマフラーが、ウロへと架かった。それから――。
ウロが、泣き出した。声を上げて、泣き出した。
移民野郎が、泣き出した。声を上げて、泣き出した。
俺も、泣き出した。声を上げて、泣き出した。
俺たちは、泣いた。声を上げて、泣き続けた。抱いて、へたって、歯噛みして、そのままずっと、泣き続けた。月が隠れ、新しき日が空を照らすその時まで、俺たちはずっと、泣き続けた――――――――。
二〇 相道純
怖かった。とにかく、怖かった。理由なんて判らない。自分が何者かも知らない。自分を取り囲む者たちが何者かも判らない。ここが何処かも、何故ここにいるのかも、何もかもが記憶にない。記憶がない。これまでというものが、ない。それが、怖かった。何も、信じられなかった。何もかもが、怖ろしかった。全てのものが、敵に思えた。自分を呑み込む、怪物に思えた。
ただ、これだけが。この赤いマフラーだけが、味方だった。
これを抱きしめている間だけ、これの匂いを嗅いでいる時だけ、不安から離れられた。
失くした自分に、つながる気がした。
「また、食べてないんだね」
女。知らない女。いや、顔を合わせたことはある。でも、名前も知らない。言葉も判らない。怖い。すこぶる、怖い。どいつもこいつも怖いけれど、この女はその中でも特に、怖かった。得体が知れなかったのだ。何度も何度もここへ来て、見知らぬ俺に笑顔を浮かべるこいつのことが。どうして放っておいてくれないのか。どうして構ってくるのか。何を考えているのか何も判らず、とにかくこいつが、怖かった。
「お姉ちゃん、たくさん食べてくれる子が好きだな」
女が、話しかけてくる。それがまた、怖かった。言葉なんて、通じはしない。意味なんて判らない。それは向こうも判っているはず。なのにこいつは、言葉を話す。当たり前みたいに、話しかけてくる。それが、怖い。訳が分からなくて、怖い。
「また夕方に持ってくるから。食べててくれると、うれしいな」
朝にこいつが持ってきた食膳。俺はそれに、手を付けなかった。さすがにそれが食べられるものであることくらいは、判る。しかし、食べる気はしなかった。お腹は空いていた。けれど、食べたくはなかった。もどしてしまう気がした。食べるという行為に、何か、強い、拒絶反応があった。正体不明の、忌避感があった。
「あ、待って」
朝の食膳を持ちかけた女が、それを置いた。置いて、膝立ちのまま、動いた。そのまま、俺へと、にじり寄ってきた。
「そこ、傷が――」
女が、手を伸ばした。その腕が、手が、細い指先が、ゆっくりと俺へと迫り――その先端が、赤いマフラーに、触れた。
殺される――!
「つっ……!」
死にたくない、死にたくない、いやだ、死にたくない。死ぬのはいやだ、殺されるのはいやだ、吊るされるのはいやだ、暗いのはいやだ、人はいやだ、人間はいやだ、開けて、開けて、開けて、怖い、怖い、怖い、怖い――!
「大丈夫だよ」
身体を、抱き寄せられた。怖かった。怖くて怖くて、震えが止まらなかった。身体が強張って、仕方なかった。女が、何かを言っていた。耳元でずっと、同じ言葉を繰り返していた。怖かった――怖かったけど、それだけじゃない、感じがした。女の、鼓動が聞こえた。俺は自分が、女の手に噛み付いていたことに、ようやく気がついた。
赤い、赤い血が、女の手から流れ出ていた。だらだらと、止めどもなく、溢れ出ていた。その赤が、途切れることのない赤が、また、怖かった。その赤が、俺のせいで流れたことが、とても恐ろしく感じた。俺は、いけないことをしてしまった。いけないことをしてしまったんだと、そう感じ始めていた。何かが、見えそうだった。見てはならない何かが頭を割って、外へと飛び出してきてしまいそうに感じた。俺は、叫びそうになった。叫び声は上がらなかった。
女が俺の手を取り――口に含んだ。
「おあいこ」
女が俺の手を、噛んだ。いや、噛んだというよりも、ただ歯を当てたといった感じで、とうぜん血が出るどころか歯型も付いていない。どうしてこんなことをしたのか、俺には判らなかった。ただ、女のその理解不能な行動によって、叫びだしそうであったあの感覚が、何処か遠い所へと消えていた。女が、笑った。
「ごめんね、言葉、判らないよね。でも、聞いてほしいの。私の話、あなたに聞いてほしい」
血の流れるその手を。
「私ね、感じてたんだ。あなたのこと、あなたたちのこと。私のせいでお父さんとお母さんに迷惑が掛かって、私のせいであなたたちがどんな目に遭わされてきたかも、私、全部感じていたの」
俺の頬に当てて。
「なにもできないことがね、とてもつらかった。だって、海の向こうのお国なんて、あんまり遠すぎるもの。だから私、祈ることしかできなかった。祈っても何も変わらないかも知れないけれど、それでも祈ったの。神様に……この星をお造りになった――その前の、前の前の、そのずっとずっとずぅっと前の、星より小さな神様に。自分を生んだ神様に。毎日毎日、祈ったの。……願いはね、ほんとにちゃんと、叶ったよ」
女は、笑っていた。
「それが、あなた」
幸せそうに、笑っていた。
「あなたと会えて、私は救われました。あなたが……生きていてくれたから」
愛するように、笑っていた――――。
「あなたのおかげで相道ゆめは、幸せを受け入れることができました。ありがとう――ありがとう、“純”。生きて、私と出会ってくれて――――」
純。
ゆめが付けてくれた俺の名前。汚れなき、純粋な想いの意。それはきっと、俺にはとても似つかわしくないもので。それはむしろ、ゆめ本人を表すもので。だから俺は、この名を遠く感じた。この名に相応しい俺に、ゆめの望んだ俺にならなければと、俺は俺を鼓舞し続けた。
それは、失敗した。俺は、純にはなれなかった。俺は相道にも、純にもなれない、成り損ないだった。人未満の畜生だった。獣の生、獣の欲求。それこそ俺に相応しい、畜生の在り方だった。畜生だから、ゆめを殺した。ゆめを殺して、生き延びた。俺はもう、僅かも純などではなかった。
けれど。
ゆめは、そんなつもりでなかったのかもしれない。そんなつもりで“純”と、純粋なものと名付けたのではないのかもしれない。だってゆめは、生きていたことを喜んでくれた。出会ったことに、幸せを覚えたと言ってくれた。あんなにやさしく、笑ってくれた。そしてそれが、俺にとっても――。ゆめはきっと、それ以上を望んではいなかった。ゆめは、そんな人ではなかった。
ゆめは、人殺しなんて、言わなかった。
言わなかったんだ――。
ゆめ。俺は俺が好きではないよ。ゆめや色月が何と言おうと、俺は誰より、俺を知っているから。だから俺は、俺を好きにはなれない。それでも……それでも、やってみたんだ。俺を家族と呼んでくれたあいつの為に、やれるだけのことをやってみたんだ。
家族に、なってみようとしたんだ。
だから……だから、いいだろうか。今だけはあなたのことを、こう呼んでもいいだろうか。俺たちが暮らした、あの家で。いつかの遠き、あの場所へ――――――――。
ただいま、姉さん。
おかえり、純。
二一 下山おもや
世界が揺れる感覚。汎ゆるものと自分とが一体化するような、その振動。
その振動を私は、夢の中で感じていた。
(ここは……?)
私は、見知らぬ町を見ていた。山の上から、町を見下ろしていた。そこは、とても双見に似ていた。双見なんじゃないかと思った。でも、何かが違う。少しだけ、何かが、違う。これは、私の知っている双見じゃない。私の暮らす、双見じゃない。そんな思いが、私の胸に渦巻いて止まらなかった。
(……あ)
子供を見つけた。町の端で飛び跳ねる、私と同じくらいの男の子。先導するその子に付いて、共に田園を駆ける二人の男の子。三人の、男の子。知らない子たちだった。学校でも、町の中でも見かけたことのない、だけど当たり前にそこに生きている男の子たち。
一目で判った。あの男の子は、おじいちゃんだった。二人の前で飛び跳ねるあの男の子は、私のおじいちゃんだった。ここは、おじいちゃんが暮らした双見だった。おじいちゃんの生きた双見を、私は見ていた。
どんどんどんと、お腹に響く音。山の上まで轟くそれ。それは、おじいちゃんの双見の、その中心から打たれていた。おじいちゃんたちは、その音へ導かれるようにはしゃぎあって、田園を駆けていた。
そっか。そうなんだね。
おじいちゃん。あれが、お祭りなんだね。
おじいちゃんの大好きだったあれが、双見のお祭りなんだね。
それなら私、止めないよ。
私はここにいるから。私の双見に、私はいるから。だから――。
さようなら――行ってらっしゃい、おじいちゃん。どうか、何時までもお元気で――。
薄れていく。おじいちゃんたちが、薄れていく。重なって走る三人の男の子たちが、光の中心に向かって消えていく。眩い光が、一層輝く。ああ、もう目を開けていられない。三人の姿を、追うこともできない。私は帰るんだ。ここは私の、居場所じゃないから。光が、視界を完全に覆い隠した。そして――。
最後に見えたのは、御神輿を担いだ三人の――――――――。
そうして私は目を覚まし、自分が一ヶ月もの間眠り続けていたことを知った。
それから私は、私が眠っている間に事態が収束したことを教えてもらった。
虹の柱。双見の北方北山で、突如空を貫いた謎の光。それが一体なんだったのか、説明できる人はいなかった。ただ、それが上がった時にみんなが感じたこと、世界が揺れる感覚は共通していて――それから、西と東で争い合っていた人々のその振り上げた手が止められたのも事実で。あれが何かは判らないけれど、あの虹の柱が双見の滅亡を食い止めたことは間違いない。それが、この双見に生きる人々の共通見解だった。神様の御力だっていう人もいた。
だけどその、神様の御力で何もかもが解決した訳じゃない。大切な人、物、家や居場所を奪われた人の恨みはそんなに簡単に覆せるものじゃなくて。大きな衝突が再び起こることを、それも今度こそ、どちらかが完全に途絶えてしまう争いが今すぐにでも起こり得ることを、誰もが感じ取っていた。
ちなみが救出されたのは、そんな不安定な情勢の最中だった。彼女は『あんどろぎゅのす』の奥に閉じ込められていた。発見された彼女は、『あんどろぎゅのす』の主の遺体にすがりついて震えていた。
救出された直後、ちなみは何も話そうとはしなかったらしい。ちなみの世話をしていた田中さんから、教えてもらった。あんなに饒舌で、聞かれていないことでもわっと話そうとするちなみが、本当に一言も、息を吐くことすら拒むようにしていたと。頑なに、口を開こうとしなかったと。それはもう、田中さんの知っているちなみの姿からは余りにも掛け離れていて、見ていて痛ましかったと、私はそう聞かされた。
そのちなみに口を開かせたのは、那雲崎先輩だった。
「多々波さん、教えて下さい。あなたがあそこで、何を知ったのか。双見のこの争いが、どうして起こってしまったのか」
「きっと、とても言い難いことなんですよね。口にするのも怖ろしかったり、傷を、抉るようなことだったり……それでも、それでも教えてほしいのです。それが例え、どんなに危険な“情報”でも」
「……ボクは死にません。ボクは、死ぬつもりなんてありません」
「ボクだけじゃない。みんなのこと、この双見の誰一人だって、死なせません。ボクは、生きてほしいんです。生きてもらうために、必要なんです。あなたのつかんだ、情報が」
「多々波さんがボクを信用していないことは知っています。ボクは那雲崎で、あなたは多々波。それがずっと、あなたの心に引っかかっていること、ボクは知っています。だから――」
「だからちなみさん、お願いします。多々波とか那雲崎とかじゃないボクと――そのままのしるしと、お友達になってもらえませんか?」
「友達のしるしを、信じてはもらえませんか――――?」
ちなみの語った情報は、双見全部をひっくり返してしまうくらいに驚くべきものだった。黒澤組の若衆筆頭。あの佐々川様が“神隠し”の犯人で――人体実験の為に双見の人々を拉致していたなんて。それも、西側だけじゃない。東側でも“神隠し”は行われていて、しかも向こうでそれを主導していたのが、東の人々を守る立場であったはずの、一番偉い王様みたいなお爺さんだったなんて。ちなみが口にした情報は、それだけではなかった。彼女の口から吐き出されていった情報はそのどれもこれもが驚くべきもので、恐ろしいものだった。
俄には信じられなかった。それは私だけではなく、西の人も東の人もそうだった。ちなみの報じた情報は双見の人に、疑いの目を持って迎えられた。公然と、ちなみを批判する人もいたらしい。敵の味方をしている、あいつには双見を愛する心がない、裏切り者、とか……。那雲崎先輩やちなみのことをよく知る黒澤組若衆の人々、小林先生はちなみを庇ったけれどそうした声は止まらず、日に日に増加していった。
けれど、とあることが切欠となり、ちなみへのそうした批判は鳴りを潜めることとなる。町中で次々と見つかり出した、外傷もなく意識を失った人々。『霊触症』。誰もがその病を思い浮かべた。しかしこの新たな『霊触症』に罹った人たちには、奇妙な共通点があった。その共通点とは、何れもが“神隠し”に遭ったと目されていた人たちであるということ。西や東の別はなかった。もはや生存を絶望視されていた人々がその大半であり、そして彼らの多くが『白影』という佐々川様が直接指揮したその秘密部隊の格好に揃っていた。
この事実は、ちなみの話に信憑性を抱かせた。更には東の一番偉いお爺さんが姿を隠したことも、その傾向に拍車を掛けた。疑いを抱く人、批難の言葉を投げかける人は日に日に数を減らし、ニ週間と経たない内に大勢は決した。自分たちの争いが仕組まれたものだと理解した人々は、突きつけあっていた矛を収めていく。正面衝突による互いの滅亡は、回避されたのだ。
これにより万事解決――という訳にもいかなかった。幾ら仕組まれた争いだったとはいえ互いに傷つけあった事実が消えるわけではなく、更に西東両方とも自分たちの庇護者の裏切りの事実に、明らかに困惑していた。これから先どうすればよいのか、どう生きていけばいいのか。そもそも当たり前の顔をして暮らしているこの隣人は、本当に信用していい存在なのだろうか。双見の人々は、怯えていた。何を信じていいのか、誰に自分を託せばいいのか、拠り所を見つけることができずに怯えていた。西や東という枠を越えて、互い同士を監視し合う緊張した不信感が町を覆った。
その空気を打破する切欠となったのが、那雲崎先輩の発言だった。
「お祭り、やりましょう!」
初め、その発言は呆れとともに迎えられた。倒壊した家屋の撤去や再建、傷病者の保護、対外への政策。やらなければならないことは山積みで、とてもではないけれど手間ばかり掛かる祭りになんて手をかけてはいられない。そういったことは、もっと余裕ができてから行うものだ。そういった意見が大勢だった。それは至極、ぐうの音も出ないほどに常識的な判断だと言えた。
けれど先輩は、引き下がらなかった。先輩は訴えた。このまま復興に着手しても、人々が疑い合っているうちはまともな結果にならない。いま必要なのは、みんなの心に蔓延する疑いの気持ちを払拭すること。そのために、みんなで協力してひとつの物事を成し遂げるべきだと。西も東も越えて、この双見に生きる人々全員で祭りを――双見の『合背祭』を開くことが、いまの双見には必要なんだと。先輩は強く、強くそう訴え続けた。
「そうだみんな! 必要なのは、祭りだよ!」
先輩の熱意に、ちなみも乗った。ちなみは先輩の訴えを簡潔にまとめたビラを作って、昼も夜もなく配り続けた。そして先輩とちなみ、二人で始めた小さな小さなこの活動は、二人を越えて大きく双見へ広がっていった。黒澤組の若衆の方々が、小林先生が、学校のみんなが、“神隠し”にされていた家族と再会できた人々が、西の人が、東の人が、多くの人が二人を支持し、祭りの再祭を求めた。祭りによる団結を求めた。そして――。
そして今日。西と東が衝突し、あの虹の柱が天を貫いたあの日から丁度三ヶ月が経った今日のこの日。本当に……本当に祭りは開かれてしまったのだ。先輩とちなみの熱意が多くの人の心を動かして、本当に双見を団結させてしまったのだ!
私の大切な友達がこんなにすごいことを、最後まで、最後までほんとにやり遂げたのだ――――。
「お疲れ様、ちなみ……」
隣で横になったまま、いつの間にか眠ってしまったちなみに毛布を被せる。ちなみの、その小さな身体に。すごいよ、本当に。ちなみは本当に、すごい子だったんだね。私、うれしいよ。ちなみがすごい子で、ちなみがすごい子だってみんなに認めてもらえて、私、うれしいよ。私の、自慢の友達だよ。
外はもう夜。けれど、町はまだ眠らない。祭りはまだまだ、終わっていない。障子越しに見える明かり。賑やかな人の声。私だって飛び出して混ざりたいけれど、まだ火傷の痕が残る私は安静にしていなきゃいけなくて、なによりちなみを置いていくことなんてできるはずもなくて。だからお祭りには、昼の僅かな時間だけしか参加しなかった。私にとって、一番大事な場面を見逃さないための、その僅かな時間だけ。
お父さんは、逃げなかった。おじいちゃんから。御神輿から。お父さんは、造り上げた。立派な、双つの双子の御神輿を。その御神輿は双見の人々に担がれて、西へ東へ巡っていった。西の人も、東の人も、その光景を目にしたはずだ。お父さんの造った御神輿が、双見の全土を廻っていく所を。堂々とした、その姿を。おじいちゃんの望んだ、その光景を。
お父さんは、逃げなかった。おじいちゃんから、御神輿から、逃げなかった。そして……私からも、逃げなかった。私を助けてくれたお父さんは、積極的にお父さんであろうとしてくれた。それは不器用で、どこかぎこちのないものだったけれど、それでも、気持ちは伝わった。お父さんの気持ちは、伝わった。だから私も、逃げないって決めた。お父さんから、逃げない。だって私は、お父さんの娘だから。お父さんの娘だから、あんまり器用にはいかないけども、でも、娘になろうとした。家族に、なろうとした。している。いまも。これからも。
全部が綺麗に、治まったわけじゃない。でも、すべてがうまくいくような、なにもかもが明るく照らされているような、そんな空気が双見に満ちていた。
気がかりなのは、すすぐのこと。
すすぐはいま、那雲崎先輩のところにいた。先輩のところですすぐは、眠り続けていた。『霊触症』の症状だ。一度昏睡状態へ陥ればまずもって快復の見込みはないという、死すらも許さない永眠の病。すすぐの快復も、絶望的なものと診断されていた。彼女はずっと、この先ずっとあのままで、二度と笑ったり、怒ったり、泣いたりすることはできないのだと。彼女はもう、感情を表に表すことはないのだと。それは、この世界における当たり前の認識だった。
でも、私は聞いたのだ。聞いて、確かに感じたのだ。すすぐの声を。すすぐの鼓動を。
あの子は生きたがっていた。生きようとして、叫んでいた。あの燃え盛る病院の中で、ある人を思って、叫んでいた。
だったら。だったらすすぐも。すすぐだって、絶対に。
絶対に――。
庭で、わだちが、吠えた。
「わだち……?」
祭りの喧騒に紛れて、わだちが小屋から飛び出す音が聞こえた。わだちは何かを見つけたようだった。障子に、踊るわだちの影が映る。そしてそのわだちの影と、別の何かが、重なった。
月の光に、影が差す。
人影。幻想的に縮尺の狂ったその影からは、本来の大きさも本来の形も然とは判らない。それが何者なのか、こんな時間にどうして立ち入ってきたのか、冷静に考えれば恐ろしく思ってしまう材料がそこには揃っていた。でも、私は少しも怯えていなかった。私には、判っていたから。この人影が誰のものなのか、私にはすぐに判ってしまったから。
「ウロさん、ですね?」
「……ああ」
返ってきた声は、私の予想した通りのものだった。ウロさん。相道ウロさん。すすぐさんのお兄さん。双見の山を跳び回る天狗。そして――最後の、“神隠し”の被害者。
「どうして、いなくなったりしたんですか」
「……」
「ウロさん!」
「すすぐを、頼みたい」
わだちが二本足で立ち上がり、ウロさんに飛びついている。ウロさんはそれを受け止めて、けれど、決して撫でようとはしなくて。
「ウロさん、教えてください。おじいちゃんを殺したのは、本当にあなたなんですか」
だからただ、わだちだけが無邪気にじゃれついて。
「教えて、もらえませんか」
「本当だ」
身体をひねって、こすりつけて。
「……理屈では、判っているんです。あなたにも事情があって、きっと、望んでやってしまったことではないんだって。それに――」
それにおじいちゃんは、そうなることを納得していた気がするって。それでも――。
「それでも私、あなたを赦せそうにありません」
例えそれが、おじいちゃんの意に反していたとしても。それはおじいちゃんの意思で、私の気持ちは、違うから。だから――。
「だから私、あなたのためにすすぐと友達でいるつもりはありません。そんなことを頼まれなくてもすすぐは……私の、友達ですから」
「……そうか」
「ウロさん、待ってください。“隠れ”ないでください」
わだちから離れかけた、影。私の言葉とともに、わだちがそれをつかまえる。つかまえたのが、見える。月明かりを遮る影が、微かに揺れる。
「すすぐは目を覚まします。絶対に覚まします。だってあの子は、“約束”したもの。どんなに掛かったって、絶対に目を覚まします。目を覚まして、“約束”を果たします。だから私も、諦めません。すすぐが目を覚ますまでずっと、目を覚ましてからもずっと、友達で在り続けます。だから、だからあなたも――」
揺れて、揺れて、揺れて――。
「あなたもすすぐから、逃げないでください」
言い終わるか終わらないかと言ったところで、遮られていた月の明かりが障子を照らした。隣で眠るちなみを起こさないようひっそりと庭へと近づいた私は、音を立てずに障子を開いた。そこでは――わだちが一匹首を傾げて、丸く輝く月を見ていた――――。
本当に大変なのは、それからだった。西や東の偉い人達が危惧していた通り、やるべきことや放置できない問題は山積みで、それらは私達一人ひとりが対処しなければならない課題ばかりで。休む暇なんて、本当になかった。たぶん、誰にも。双見に生きる誰もが、大変な時間を送っていた。
そうした状況下で私は、父の仕事を手伝っていた。建築業を一手に担う父の仕事に終わりはなく、その手伝いをしていた私もあっちへこっちへ目が回りそうな思いをしたけれども、そうした中でも時間を見つけて私は、すすぐの下へ通った。すすぐがいつ起きてもいいように身体を解し、言葉を忘れてしまわないように話しかけた。仕事とすすぐの見舞いとで、一日があっという間に過ぎ去った。一日があっという間に過ぎ去ると、一週間もあっという間だった。一週間があっという間だと、一ヶ月も一年もあっという間だった。時間が過ぎていくのは、一瞬だった。そうして、三年の月日が過ぎた。
すすぐが、目を覚ました。
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