新章
一~四
一 帛峡くれは
「ボクはただ、ボクにできないことがあるって受け入れたのです」
できないこと、ですか?
「はい、できないこと。いくらボクががんばってもできないこと、なれないものはあるって、そう認めたのです。認めるまでは大変でしたが、そうせざるを得ませんでした。この町には、ボクなんかでは及びもつかないような人が大勢いましたから」
それは、かつてこの双見を治めていた黒澤氏のような?
「そうですね、黒澤様のように。それに父である
お二人共、国選議員として八百人の発展に尽力された方々でしたね。
「祖父も父も、偉大な人でした。幼い頃から二人の活躍を見てきたボクは当たり前のように二人に憧れて、当たり前のように二人みたいになるものと思ってきました。あの人がいるから大丈夫。あの人さえいればなんとかなる。そういうものに、ボクはなりたかったんです」
けれど、そう簡単ではなかったと。
「その通りです。どんなにがんばっても、ボクは父のようにはなれませんでした。あの手この手で父を真似て、父の娘だと証明しようとして、それで、取り返しのつかない失敗をしでかしてしまったことも、あって……」
那雲崎さん、大丈夫ですか?
「すみません、平気です。とにかく、ボクは一度打ちのめされたんです。でも、だからといってのんびりしていられるような暇はありませんでした。当時の双見は本当に、とても大変な状況にありましたから」
あの、虹の柱の時ですね。
「ボクには守りたいものがありました。あの争乱の最中にあって、絶対に失いたくないものがボクにはあったんです。それはボクの、無二の戦友から託されたものでした」
その……戦友に託されたから、守りたかった?
「そうした理由は、もちろんあります。一方的な感傷なのかもしれませんが、彼には申し訳ないと思っているのです。ボクのわがままに巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思う気持ちが。それと同時に、彼とはあの鮮烈の時間を共に切り抜けたという、仲間意識みたいなものもあって。もう三年も会わずじまいですが、彼のことを特別に想う気持ちはいまも変わりありません。彼の願いであれば叶えてあげたいと、そういう気持ちはいまも変わらないのです。――でも、それだけではないのです。彼に請われたからだけでなく、ボク自身が彼女を守りたかった。ボク自身が、守りたいと思ったんです。暖かなその生命を守りたいって。暖かいという感覚を思い出させてくれた、あの子のことを、絶対に。その為には打ちのめされている暇も、ちっぽけなプライドにしがみついている余裕もありませんでした。できないことはできないと認めて……できることに集中する他、なかったんです」
そしてあなたは双見の人々をまとめあげ、祭りを開くことに成功した。
「まとめあげたなんて、大それたものではないんです。先程も述べた通り、ボクは黒澤様や祖父や父のように、上に立って人を導くような、そうしているだけで人が付いていくような存在にはなれませんでした。ぼくにできたのはただ――お願いすることだけ。それだけだったんです。なんにもできないボクにも、お願いすることはできた。色んな所に行ってお願いして、話をさせてもらって。そしたら最初に、友達が手を貸してくれたんです。身体は小さいけど力強くて、ビラを作って配るなんてボクには思いつかないことをし始めてくれて」
存じています。
「そしたらどんどん、協力してくれる人が増えていって。この町の人はみんな、すごいんです。ボクにはできないことをできる人たちが、本当にたくさんいるんです。なんでもかんでもボクがやることなんて、初めっからなかったんです。だからボクは、お願いして任せるんです。その人が持っているものを思いっきり発揮できるように場所を用意して、その場所を用意するためにまたお願いするんです」
それは、人種に差を設けることなく?
「もちろんです。だってボクたちは、同じ双見に生きる者ですから。みんなのおかげで、双見は成り立っているんです。ですからもし、もしもいまの双見が他の地域よりも平和で安定しているというのなら、それはボクの力なんかじゃなくてみんながすごいからなんだと思います。双見のみんながみんなにできることをしてくれているからだって、ボクはそう思っています」
……那雲崎さん。これは私見に過ぎませんので聞き流して頂いても構わないのですが。
「はい」
いまの
「……」
双見におけるこの状況は、殆ど奇跡といってもいい。このような共生関係を築けている場所など、八百人のどこを見ても有り得ない。そしてこの状況を実現できているのはやはり、あなたの存在があったればこそだと、私には感じられました。あなたはあなたの望む人々のようにはなれなかったかもしれませんが、あなたはあなたで偉大な人物であると、私は思います。
「あ、あの……あ、ありがとうございます!」
素直な感想を述べたまでですので。こちらこそありがとうございます、那雲崎さん。あなたの言葉は移民との共生に悩む八百人の人々に、希望の羅針盤となって届いたはずです。
「本当にそうであれば、なによりうれしいです」
本日は本放送への出演、誠にありがとうございました。そろそろ時間となりますので最後に、三年ぶりの『
「……あの」
はい?
「みんなに、というか……誰に発信しても、構わないのでしょうか」
それは? ……特段、問題はありませんが。
「よかった。ん、ん、おほん……え、えっと、それでは――すすぐー! しるしお姉ちゃんですよー!」
な、那雲崎さん?
「お姉ちゃん、全国デビューですよ! すすぐのお姉ちゃんが、全国デビューしちゃいましたよー! すすぐのおかげですよ! 大好きで大好きで大好きなすすぐのおかげですよー! あとは、あとはえと、えと……あ!」
ちょっとスタッフ、放送止め――。
「あい、らぶ、ゆー!! すっすぐー!!」
二 下山おもや
「やりやがった! しるしのやつほんとにやりやがった!」
両手を打ち鳴らしながら、ちなみが大笑いする。びっくりするぐらい背が高くなって、顔もなんだか端正になって帰ってきたちなみだけれど、こういうところは昔とまったく変わってない。子供の頃の、そのままだ。
「ちなみ、しるしさんにあんまり変なことさせちゃだめだよ。田中さんだって困ってるよ、きっと」
「あたしがやらせたんじゃねーさ、しるしが決めたんだよしるしが。上品ぶっちゃいけるけどあいつ、本質的にはあたしの同類なんだぜ」
「でも……本当はこれを機に、色んな所へ露出する予定だったんでしょ?」
「そんなつもり、あいつにゃなかったよ。何かのシンボルとして祭り上げられるなんて、あいつには向いてない。だってあいつは……しるしだからな!」
ま、
二年ぶりの再会だと言うのにそんな時間の隙間なんて感じさせない二人は、まるで旧年来の親友かなにかのようにぴったりと息の合った友情を見せつけてくれた。昔の二人を――特にちなみの態度を知っている私としては、なんとも不思議な気分だった。まさかこの二人が、こんなに仲良くなるなんて。それでやっていることがあのラジオでのトークだというのだから、なんと言っていいのやら判らないけども。
「あはは、お姉ちゃんったらおかしいんだ」
上半身だけを起こして病床に横になったすすぐが、けたけたと笑った。屈託のない、無邪気な笑顔。「おうそうだ、すすぐのねーちゃんはおかしーんだ!」と、ちなみが上機嫌にすすぐの頭を掻き回す。「うあー、やーめーろー」と抵抗するすすぐは、けれど本気で嫌がる訳でなく、むしろそうしたじゃれ合いを楽しんでいるようだった。そうして笑うすすぐを見ていると、まあ、これでもいいのかなと、心の中で田中さんにごめんなさいと謝りつつ、私も二人につられて笑った。
「あたし、あのくれはって人に付いていくよ」
「……そっか、決めたんだ」
「おう」
二年前。あの虹の柱の時から一年後。一人のジャーナリストが双見町を訪れた。三年前の事件について調べに来た
くれはさんは昔、ちなみのお父さんの下で働いていたことがあるのだと話してくれた。イロハのイの字も知らない自分にジャーナリズムのなんたるかを叩き込んでくれた、尊敬する大先輩であると。ちなみは寂しげに笑いながらも、お父さんの話を喜んで聞いていた。
それからちなみはくれはさんが双見にいる間、その側をつきまとい続けた。くれはさんも始めは重宝していたようだったけれど、どこでもかれでも付いていこうとするちなみを次第に鬱陶しがるようになり、いつからか逃げ出すようになった。でも、追いかけっ子でちなみから逃れられるわけもなく。最後にはくれはさんの方が根負けした。もう、好きに付いてこいって。そう、言質をとった。
ちなみは始めからずっと、そのつもりだったのだ。くれはさんに付いて外へ、双見の外へ出るつもりだったんだって。双見の外へ出て、もっと広い視点から双見を、八百人を見るつもりだって。でも私は、知らないふりをしていた。寂しかったから。考えると、寂しくなってしまうから。どこにも行かないでって、言ってしまいそうだったから。だから言われるまで、考えないようにしていた。
そして今日の今、ちなみは、私に打ち明けた。正式に、双見から出ていくって。
私は、泣いてしまいそうだった。永遠の別れって訳じゃないのに。それはちなみのやりたいことで、応援するべきだって判ってるのに。判っては、いるのに。なのに、それなのに、我慢できなかった。ちなみがいなくなった自室を思い浮かべたら、我慢することができなかった。
「おもや、これ、預かっててくれないか」
目尻に浮かんだ涙をまばたきで落としながら、ちなみは懐から何かを取り出し、それを私の前へ差し出してきた。それは、懐中時計だった。模造じゃない、本物の懐中時計。涙を拭いながら、私はそれを受け取る。
「お父さんの形見、なんだよね」
「うん」
「持っていかないで、いいの?」
「約束だからな」
「約束?」
「大人になったらって、そう指切りしたんだ」
そういってちなみは鼻をすすり、遠い何処かを見つめた。遠い、空の何処か。私も、ちなみが見上げた方を一緒に眺める。
「あのさおもや、あたし、しるしに全部を話したわけじゃないんだ」
「全部? 何の話?」
「あの……
友已の兄貴という言葉にどもりつつ、ちなみは話を続ける。
「本当に……本当にさ、あたしの中でも消化できてないことばかりなんだ。兄貴のことも、アイのことも、あの……あたしだけが知ってる、あたしに何かを期待していた女の子のことも。どうしたらいいか判らなくて、そのままなんだ。そのままにして、そのまま話してないことが、あたしの中でせめぎ合ってるんだ。やっぱり隠したりなんかせず、みんなに向けて報道すべきなんじゃないか。それとも父さんがそうしたように、あたしの裡に秘め続けておくべきなのかって」
そう言ってちなみは、模造の懐中時計に触れて――。
「その答えをさ、見つけたいんだ。そしたらそれ、受け取れるかも知れないから」
でも、すぐにその手を、離した。
「ねえちなみ」
空を見上げたままちなみが、少しだけ首を傾げた。
「それが、大人になるっていうことなの?」
「判んないよ」
「判らないの?」
「判んない……判らないからこそ、あたしさ――」
言いながら、ちなみが私に向き直る。同じように私も、身体をひねる。ちなみと、正対する。そして、私は感じた。小さくてトラブルメーカーで、我が強くていつまでも子供っぽいままだと思っていたちなみが――。
「今度こそ本当の意味で、自分自身に殉じてみたいんだ――」
なんだか大人びた顔をしているなぁって、私は感じた――――。
「それじゃあたし、そろそろ行くわ」
「えー! もうー!」
立ち上がりかけたちなみの袖を、すすぐが引っ張る。おいやめろガキンチョ引っ張るなと言っても止めないすすぐの側に、ちなみの身体が傾く。さすがに一緒になって引っ張ったりはしなかったけども、気持ちとしては私も、すすぐと同じだった。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「そうしたいのは山々だけど、くれは姉も相当かっかしてるだろうしさ。待たせたらとばっちりを喰らいかねないんだわ」
「だったらいたずらなんてしなければいいのに……」
「それはそれ。ユーモアとハプニングがなきゃ、人生楽しくないだろ?」
いたずらっ子の笑み。そういうところは本当、子供のままだ。引っ張っている子供と引っ張られている子供の無邪気で微笑ましいじゃれ合いを見ていると、なんだか怒る気も失せてしまう。
「もうっ……ちゃんと田中さんに謝るんだよ?」
「あっは、気が向いたらな!」
「ちなみ」
「冗談だって。ちゃんと顔くらい見せに行くから――」
身を乗り出した私は、すすぐを引き剥がそうと伸ばされたちなみの手を取った。その手を取って、指を立たせてこんこんと、私の胸を叩かせた。堅い感触。聞こえるはずのないちっくたっく。時を刻む彼女のそれが、まだここにあることを私は教える。
「私、双見で待ってるからね。だから忘れず、帰ってきてね」
「……おう!」
ちなみの返事とともに、私はちなみの手を離した。離して、それからなんだか急に、気恥ずかしさがこみ上げてきた。何か言おうとして、何も言えなくて、結局私はちなみから目を逸らし、すすぐを見た。すすぐが一人、頬を膨らませた。
「なんか……二人だけで、ずるい!」
「え、ず、ずるい?」
「はは、許せよすすぐ。また手紙、書くからさ」
「ほんと?」
「ほんとほんと。色んなとこでみた色んなこと、すすぐだけにこっそり教えてやるからな」
「むうー……しょうがないですねー、それなら許してあげましょー! ちなみ、しっかり励むのですよ!」
「ははーっ。姫様のご期待に添えるようこの多々波ちなみ、粉骨砕身の念で行って参りまするー」
「うむ!」
二人の奇妙な主従のやり取り。そのおかしな感じがさっきの気恥ずかしい空気を払拭してくれたことに、私は少しだけほっとする。
「それじゃ、あれだ……すすぐ、早くよくなるといいな!」
「うん、ありがとう! ちなみも頭、早く良くなるといいね!」
「ぬかせこの!」
「きゃー!」
そんなやり取りを最後に、ちなみは病室から出ていってしまった。しるしさんへのインタビューが終わったらまたすぐに別の地域へ行かなければならないと言っていたから、たぶんもう、しばらく会うことはないのだと思う。寂しくないと言えば、うそになる。一人分広くなった部屋は二年経っても広いままで、その空間を私は持て余していた。夜にはもっと、広く感じた。広く、冷たく。でも、私はそれを受け入れた。ちなみの道を邪魔したくないから。そしてそれ以上に、ちなみにちなみで在ってほしいって、私自身が思ったから。だから私は待つ。ここで待つ。彼女が“大人”を見つける、その時を。
それに、今は――。
「ねえおもや」
「すすぐ?」
「さっきさ、お姉ちゃん。お姉ちゃんがラジオで、言ってたこと」
「うん」
「その、お姉ちゃんの、無二の戦友って――」
そこまで言って、すすぐは言葉を区切った。そしてそのまま、何も言わなかった。何も言わずに固まって……それからとつぜん、両手をばっと振り上げた。
「やっぱり、なんでもなーい!」
そう言ってすすぐは、今度は窓へとかぶりつく。窓の外では賑やかな人の声と祭囃子が、双見中に響き渡っていた。今日は三年ぶりの『合背祭』だ。活気に満ちた双見の町は三年前のあの時にも負けず劣らず輝いて、中央に聳える双子の双見山もいつもより雄壮に屹立しているように感じる。
「お祭りいいなー、行きたいなー」
「さっき散々遊んできたじゃない」
「もっとー」
拳を握った両手をぱたぱたと上下に振って、すすぐが抗議する。まるで子供の駄々のようだけれど、たぶんその認識はそんなに間違っていない。いまのすすぐは、子供なのだ。身体だけが大きく育った子供。遊びたい盛りの。だから、気持ちは判る。判るけれど、許すわけにはいかなかった。すすぐはまだ、無理のできる身体じゃないのだから。お医者様にもそう言われた。すすぐがどうして目を覚ませたのか判らない以上、経過は慎重に見ていかなければならないって。
ぶーぶー口を尖らせるすすぐに私は、可能な限りやさしい声で言い聞かせる。
「そんなに慌てなくっても大丈夫だよ。お祭りはね、三年後にもまた開催されるんだから。だから、ね?」
「でもねおもや、今日のお祭りは今日にしかないのですよ?」
「それはリハビリをお休みする口実にはなりませんよ、お姫様?」
「なー! どうしてばれたのかー!」
「ふふ、すすぐのことならおもやはなんでもお見通しです」
「……じゃ、側にいて!」
「はいはい」
「……ふふー」
身体を寄せて、手を握る。三年間、眠っている時にも何度も握ったその手を。握り返してくれることのなかったその手を。いまは彼女の方から求めてくれる、その手を。生き続けていた彼女はついに目を覚まし、自分を取り戻した。意識を取り戻した。言葉を、表情を取り戻していた。それは、とてもうれしいことだった。とても、本当に、とても。けれど――。
「おもや、好きー」
目を覚ましたすすぐは、記憶を失っていた。
三 下山おもや
「お姉ちゃんたち、だれ?」
それが、目覚めたすすぐの第一声。始めは冗談かと思った。けれど目覚めたばかりのすすぐにそんなことができるとも思えなかったし、何よりもフザケているような様子がこのすすぐからは微塵も感じられなかった。すすぐはただ、私としるしさんを交互に、不思議そうに見比べて。どうしたものかと私は戸惑うばかりだったけれど、しるしさんは、違った。
「お姉ちゃんはしるしお姉ちゃん! すすぐのお姉ちゃんですよ!」
「お姉ちゃん!」
「すすぐ!」
「お姉ちゃん!」
「すすぐ!」
逞しいなと思った。
すすぐは本当に記憶を失っていて、自分がこれまでどこでどうして来たのか、まったく思い出せないようだった。自分の名前も、自分が誰と暮らしていたのかも、まったく。自分や自分を支える者との関係を一から構築し直さなければならない状況に、しるしは目覚めてしまった。彼女の置かれた状況がとても大変なものであるのは、間違いないと思う。けれどそれは、一概に悪いことばかりでもなかった。
まず驚いたのは、すすぐの足が動くようになっていたこと。腰椎の損傷が三年前からは考えられないくらいに治癒されているらしく、まだ完全に自由に動かせるわけではないものの、補助器具や介助の手があれば数メートルくらいなら歩くことも可能になっていた。このままリハビリを続けていけば自力での歩行も夢ではないと、お医者様は仰っている。
すすぐ自身、いやいやきついつらい疲れる大変と言いつついざリハビリとなれば真面目に取り組んでいるので、その快復の速度には目覚ましいものがあった。今回のお祭りまでには間に合わず車椅子での参加になってしまったけれど、このままいけばすぐにも歩けるようになって、三年後には間違いなく一緒に、御神輿の行方を最後まで追うことだってできるようになっているはずだ。それは、とても楽しみな未来予想図だった。
それからすすぐは、とてもよく笑うようになった。『霊触症』は感情の変化が禁物ということで当初こそ本気で心配し通しだったものの、いまのところ再発するような様子はない。むしろ、以前よりもずっと健康的になった気がする。不安が完全に拭い去れた訳ではないけれど、こうして太陽のように明るく笑うすすぐを見るのは私にとってもうれしいことだった。
すすぐはよく笑った。本当によく笑った。笑うだけでなく、すねたり、甘えたり、不満そうに顔をしかめることもあった。まるでこれまで抑えられてきたものを取り戻すかのように、浮かんできた感情を余すことなく表へ発散しているみたいだった。
しるしさんは、心からすすぐを愛していた。見れば判った。しるしさんは本気ですすぐを妹と、家族として受け入れていた。ハグしてキスして、聞いているこちらが照れてしまうくらいの直接的な表現で愛情を伝えるしるしさんは、どこか気取った(でも気取りきれてなかった)昔の彼女の印象を良い意味で変えてくれた。伸び伸びと自分の気持ちを晒けだす人懐こいすすぐのいまの性格は、多分にしるしさんの影響も大きいのではないかと思う。
けれどしるしさんは忙しい身分で、可能な限り時間を割いては会いに来てくれているけどもそれにも限界はあって。だから必然、しるしと直に接する時間が一番長くなっているのはおそらく私で。だからという訳ではないけれど、私にとってもすすぐは幸せで居続けてほしい大事な人で。だからという訳ではないけれど私は、私は――もしかしたらこのままの方がいいんじゃないかなんて思うことがあって。
すすぐと一緒にいて、時々思う。もしかしたらこの子は、記憶を取り戻したくないんじゃないかって。過去と向き合うことを恐れているんじゃないかって。すすぐの記憶喪失がうそだと思っている訳じゃない。ただ、彼女は避けるのだ。自分の過去に関わりそうな話題や物事に触れそうになると、そこから逃げようとするのだ。強い拒絶ではない。でも、拒絶していること自体に変わりはない。明らかに彼女は、過去に潜む何かを恐れていた。
意図的ではないのだと思う。きっと意識よりもっと深い無意識の領域から、彼女の心の柔な部分が自分を守ろうとして、そうした拒絶の反応を取らせているんじゃないかと思う。もしかしらこの記憶の喪失自体が、そうなのかもしれない。彼女なりの、自衛手段。
三年前――そこから更に遡るすすぐの過去。それはきっと、幸せな記憶ばかりとはいえない。むしろつらいことのほうがずっと、ずっと多かったのではないかと思う。いまのすすぐには耐えきれないくらい、つらいことが。だったら記憶なんてこのまま戻らないほうがいいのかもしれないって、私は思ってしまう。それが健全なことなのかは判らない……判らないけれど、すすぐの幸せを願うのならこのままそっとしておいた方がいいのかもしれないって――。
「すすぐちゃーん、おもやちゃーん、いいかしらー?」
ノックの音から殆ど間を置かず、病室の扉が開けられた。そこにいたのはこの病院で働いている看護師さんで、歳が近いこともありこの病院の中ですすぐが一番懐いている人でもあった。病床の上のすすぐが、両手をバンザイして歓迎している。
「どうしたんですか、検査の時間ではないですよね?」
「それがね、あなたたちの知り合いって人からこれを渡されて」
そういって看護師さんが差し出してきたのは、四角い、平べったいブロック状の機械だった。そのブロックには二箇所、歯車状の穴が空いており、側面からちらと見える内部には薄いテープがぴんと張っているのが確かめられる。おかしな形のその機械。その機械の形状に私は、見覚えがあった。
「あの、その人の名前は」
「えっとね…………あら?」
私の問いかけに思い出す素振りを見せた看護師さんは、あら、あらと繰り返しながら、しきりに首をひねり始めた。渋面を作って、次第にはう~う~うなりだして。どう見ても、普通の様子ではなかった。
「あの、どうしたんですか?」
「ううん、それが……その、名前、ちゃんと聞いたんだけど……。おかしいな、さっきまでは覚えてたはずなのに。……ごめんね、ぜんぜん思い出せないの」
おかしいなぁ、なんでだろう。ま、まだまだ私、若いのに。……まさか、私まで記憶喪失に!? 看護師さんは愚痴を吐くように、一人でいろいろつぶやいている。
「あの、特徴とかは」
「んー……それが不思議なのだけど、顔もぜんぜん思い出せなくて……あ、そういえば!」
看護師さんが、きらきらと顔を輝かせながら、両手を打った。
「髪をね、後ろで結った男の子だったわ!」
……ああ、やっぱり。
「気味が悪かったら、私の方で処分しちゃうけど――」
「いえ!」
引っ込ませかけた看護師さんの手を、私はつかんだ。
「……大丈夫です。その人は……ちゃんと、知人です」
「そ、そう? なら、はい」
そう言って看護師さんは私にその機械を手渡すと、そそくさと病室から出ていった。私の剣幕に、恐れをなしたのかも知れない。でも、私も、落ち着いてなんていられなかったから。
「おもや?」
私の態度に、すすぐも疑問を抱いているようだった。だけどそれも、後回し。後回しにして、取り掛かる。たぶん、これで、できるはずだから。しるしさんの放送を流していたラジオ。ただのラジオじゃないんだぜ多機能ラジオなんだぜとちなみが自慢し、お土産だと置いていってくれたこれ。看護師さんが持ってきてくれたこの機械はちなみの言葉が本当なら、このラジオに入れることができるはずだ。この……カセットテープは。
かちゃり、と、小気味の良い音がして、カセットテープがラジオの中に収納された。心臓が、どきどきする。すすぐを見た。すすぐは私が何をしているのか判らないのだろう、頭の上に疑問符を浮かべて、私のことを見つめていた。その顔に、躊躇する。このまま押してしまっていいのかって。私のしようとしていることは、すすぐを傷つけることになるんじゃないかって。彼女の幸せに反することをしようとしているんじゃないかって、そんなふうに。
でも。
これがもし、本当にあの時のものなら。
私はこれを、すすぐから取り上げてはいけない気がする。隠して、なかったことにしてはいけない気がする。ここに込められた、すすぐの想いを。それに、これを聞いてどうするか……たぶん、それを判断していいのは私じゃないから。判断するのは――すすぐだから。だから、私は――。
軽い抵抗を越え、人差し指を差し込んだ。じじじ……という軽いノイズが続く。ノイズに混じって、草や木々の擦れる音が混じる。そして、待って、待って、待って……人の声が、ノイズを破って、流れ出した。
『み、未来の私へ! ……えっと…………お父さんとは、仲直りできましたか?』
――ああ、間違いない。これは、このテープは、三年前の月山に、あの場所に存在していたものだ。未熟な私達からいまの私達へと時を超えて届けられた――願いと祈りのタイムカプセル。
「これ、おもや?」
私は無言でうなずく。そうだ、これは三年前、私自身がカセットテープを通じて願った祈りだ。こう在りたい、こうなっていたいという私の、“お父さんと仲直りできている私”を思い浮かべて吹き込んだ、理想の私に向けた言葉だ。いまよりも僅かにきんと高い、あの頃の私の声だ。
「おもや、これって――」
「しっ」
不安そうな声を上げかけたすすぐを制しながら、私はすすぐの手を握った。手を握って、待つ。次に流れてくるはずの、その言葉を。彼女の願いと、願いに込めた祈りを。
ノイズが、ぷつんと破れた。
『未来の私。……………………あなたは自分で、泣けている?』
すすぐの手が、私の手を強く握った。
「……おもや」
小さな声で私の名前をつぶやいたすすぐの手は、指は、きつく固まって、私のそれへと絡まってきた。
「どうしよう、おもや。私、なんか、変なの」
「変って、どんなふうに?」
「判んない、判んないの。けど――」
ぎこちない動作で、すすぐが頭を動かす。窓の先を、見る。その先にあるそれを、並んで屹立するそれを、見つめる。
「あたし、あそこへ行かなきゃいけない気がする。あたしの中の誰かが叫んでる。あの場所へ行けって。あの場所で――」
双見の中心、双見山。その南方の月山を見つめ――そして、彼女は言った。
「あの場所で、待ってる人がいるって」
すすぐの鼓動が、その手を通じて伝わってきた。そこに含まれていたのは哀切と、郷愁と、期待。そして、それに――不安。
彼女はいま、戦っていた。戦っているのが、私には判った。せめぎ合う矛盾した感情。偽りなんかではない本当と本当の、感情同士のぶつかり合い。そうしたものと彼女はいま、戦っていた。だから私は――すすぐのことを、ぎゅうっと抱きしめた。しるしさんがたまにそうするように、思いっきり、ぎゅうっと。
「おもや?」
「すすぐ、行こう」
私がいるよと、伝えるように。代わりに戦うことはできなくても、その感情を引き受けてあげることはできなくても、側にいることはできるから。側にいて、支えるくらいはできるから。不安で、怖くて、逃げ出したいって思っても……それでもすすぐが望むなら、理想のあなたを追いかけたいなら。一人ぼっちに、させないから。
「あなたと会いに、一緒に行こう」
“約束”通りに、背中を押すから。
四 下山おもや
「わだちー」
車椅子から身を乗り出したすすぐに対して「落ちるよ」とでも言うかのようにわだちは、自分の頭で伸ばされたすすぐの腕を押し返した。そんなわだちの想いになど気づかない様子のすすぐは、わだちに触れられたことに機嫌を良くしたのか、えへえへとうれしげに笑っている。すすぐは動物のことが好きで、もちろんわだちのことも好きなのだけれど、病院の中にまで連れてくることはできない。だからこうしてたまに会えると、とてもうれしそうにする。
しかしそれでも、すすぐの口数は減ったままだった。病院から抜け出して、祭りの人波を横切って、この月山を登り始めてからも、すすぐは「えう」とか「まあ」とか「ぷい」とかよく判らない音を出す以外、まともな言葉を発そうとはしなかった。そしてそれは私も同じで、私の口から漏れるのは「ぜえ」とか「はあ」とか「ひい」とかいう音ばかりで、まともな言葉を発せずにいた。そんな余裕はなかった。非常に、きつかった。私は今正に、車椅子を押しながら山を登るしんどさを実感していた。
わだちだけが元気に、わっふわっふと私達のことを先導していた。もちろんわだちは犬なので人間みたいに言葉を話す訳ではないけれど、その代わり尻尾や耳や身体の動きで、多彩な言葉を私達に向けてくれていた。そのひとつひとつを完璧に解読できる訳ではないけども、でも、わだちも判っているんじゃないかなと、私は思う。私達がいま、どこへ向かっているのか。それは場所だけの話でなくて、時間を越えた“何時”へ向かっているのか、判っているんじゃないかって。だから先導しても、勝手に何処かへ駆け回ったりなんかしない。あの時のように、私を置いて逃げ去ってしまうようなことも、しない。
あの時のように。
「……もう、八年も前に、なるのかな」
呼吸の切れ間に、言葉を吐く。
「ある女の子がね、月山を登ったの。まだ幼い妹と一緒に、月山を」
流れる汗を拭うこともせずに、坂道を蹴り進む。
「女の子はね、おかあさんを喪ったばかりだったの。悲しくて、さみしくて、おかあさんに会いたくて、月山を登ったの。おかあさんに、謝りたくて」
「謝りたくて?」
「おかあさんが死んじゃったのは自分のせいだって、女の子は思っていたから」
「私は」
すすぐの声。
「私は、そうは思わないよ」
「でも、女の子はそう思った」
真剣な、すすぐの声。びっくりするくらいに。笑ったり、甘えたり、怒ってみたり。情動豊かないまのすすぐ。でも、そんないまのすすぐに欠けているもの。欠如した表情。それが少しずつ、表へ出てきているのを感じた。
「だから女の子は、山を登ったの。いやがる妹を連れて。本当は一人で行くべきだって判っていたけど、でも……一人はあんまり、さみしかったから」
前を行くわだちが歩を進めながら、顔だけをこちらへ向けていた。
「一人じゃすくんで、動けなかったから」
「その子は」
車椅子に座ったすすぐが首を傾げて、私を見上げていた。
「その子は、どうなったの――?」
「その子は――」
そこで私は、言葉を区切った。上から誰かが下山してきているのが見えたからだ。私達のいる場所はちょうど左右が急な勾配になっていて、道幅も狭い。横並びに通り過ぎることもできなくはないけれど、こちらはすすぐもいるし、何より車椅子で幅を取っているのは私達の方だ。端によって停止し、あちらへ道を譲るのが礼儀だと感じた。
その登山者の方は、無言で会釈しながら私達の横を通り過ぎた。つばの広い帽子を被った頭部は影になって殆ど見えず、かろうじて顕となっている部分も全面がひげだらけだった。なので確信は持てないものの、私はその登山者を知らない人だと判断した。判断して、それで、なんだか珍しいなと思った。お祭りの最中に、一人で山登りだなんて。もしかしたら双見の外から来た、山登りが趣味の人なのかしら。私が簡単にそう結論づけている間に、その登山者は私達の横を完全に通り過ぎていった。
さて、と、私は息を整え直す。休んだことで逆に動かすことが困難となった足に力を込めようとする。麓からここまで登って、半合はもう過ぎた。あと少し、もう少しだ。もう少しで私達は、いつかのままで止まったあの場所へ辿り着く。
あの人の待つ、“約束”の地へ――。
「失礼」
踏み出しかけた足が、止まる。
「那雲崎すすぐさんですね」
振り返る。先程の登山者が、そこにいた。つばの広い帽子のせいでどこを見ているのかは判らない。判らないけれど、その手に構えたものは間違いなく、私達へと向けられていた。見覚えのある、その形状。瞬間、蘇る、痛み。盛り上がって塞がった、手の中心に残る、その。
凝視した暗い穴の底で火花が弾け、大気が破裂した。
わだちの悲鳴が、木霊した。
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